朝一番に娘と自転車で街を走る。昨日のあの重たげな雲は何処へいったのやら、今朝は冷えてはいるがとても気持ちのいい空だ。自然、漕ぐ足も軽やかに動く。
昨日嗅いだ銀杏の匂いを思い出し、娘と共に並木の下に行く。娘が途端に悲鳴を上げる。
何この匂い。
ギンナンの匂いだよ。ほら、ここに落ちて潰れてるのがある。
この匂いキライィ。
ふふ。まぁ好きな人はあんまりいないよね。でも。
でも、なぁに? ママは好きなの?
好きってわけじゃないけど。秋の終わりを教えてくれる匂いだよ。
うーん。でも、この匂いヤダ。
ふふふ。
私たちは海の公園まで走り、ひとしきり小さな飛沫をあげる波を眺め、家路につく。
途中、ふと鮮やかな青色を道端に見つける。アオツメクサだ。もう少しで見落とすところだった。私たちは自転車を止め、一輪二輪、摘んでみる。もったいないからこれだけね、と視線を交わし、ふふふと笑って再び自転車を漕ぐ。そろそろ時間だ。
週末娘はたいてい私の実家へ遊びに行く。決まった時間に電車に乗せないと、実家から電話がかかってくる。待ち侘びているのだ、じじばばが。
ほら、髪の毛結って。歯磨いて。支度はできたの? 娘を急かしながら私はたびたび時計を見やる。そろそろ電話が鳴る。その前に家を出ないと。
ママ、準備できた! 娘のその声で玄関を二人して飛び出す。休日の朝からなんでこんなに急いでるんだろうねと苦笑いしながら、私たちは駅までの道を走り出す。
ねぇママ。夜にはちゃんと電話ちょうだいね。うん、わかった。絶対だよ。うん、約束。じゃぁね、ママもいってらっしゃい。じゃぁまたね。
電車の窓越し、お互いに姿が見えなくなるまで手を振り合う。しばしの別れ。私は仕事場へ向かう。
今頃部屋では、アオツメクサがひっそりと、咲いている。
2008年11月2日日曜日
2008年10月31日金曜日
■銀杏の匂いまでもが満ち満ちてくる
毎朝窓を開けて空を見る。日毎、高くなってゆくのが手に取るように分かる。それは冬の訪れ。十月中旬に植えた球根は、徐々に徐々に芽を伸ばし、今ではもう三センチほどの長さを持つものもいる。当たり前のことかもしれないが、球根がそれぞれの形をしているように、それぞれの芽を持っていることが、こうして見ているととても不思議な、そして尊いものに思えてくる。多分、そう、それは人も同じ。
来年の展覧会が二つ決まった。一度目は三月で個展、二度目は六月で二人展だ。もうすでにテーマは決まっている。テーマが決まっていればあとはそこに集中するだけだ。今まさに別の場所での展覧会の真っ最中だけれども、同時進行で、ゆっくりと制作を進めていけたらいい。
作業の手を止めてふと窓の外を見やれば。なんとも妖しい雲ゆき。朝のうちあれほど美しい鱗模様を描いていた雲が今は、重灰色一色になり隙間なく空を覆っている。しばらく眺めていても、びくりともしない。私は再び作業に戻ることをやめ、何ともなしに玄関を出る。
最近音を紡ぐ機会が多くなった。私の場合、それは写真と似ている。あるのは、ある瞬間瞬間に浮かんでくる光景を、撮るか紡ぐか、その違いだけだ。
それを何処まで高みに昇華させられ得るか。全ては自分に手にかかっている。
全て自分にかかっているということは、ある意味とても容易い。責任を全て自分で取り得るからだ。共同作業になるとそうはいかない。責任がそれぞれにかかってしまう。
数日前、そんな共同作業を放棄する人を見かけた。確かに、見切りをつけることも実力のうちのひとつだろう。でもそれならば、私は、最初から最後まで一人で負いたい。共同作業の上で放棄はしたくないとつくづく思う。見切りをつけた側はいいかもしれないが、つけられた側、遺された側はたまったものじゃないことを、もうこの歳になれば自分はいやというほど痛感している。
一抹の侘しさを感じつつ、自転車を漕げば。
あぁなんて空が低い。息苦しいほど。
あの並木からここまで銀杏の匂いまでもが満ち満ちてくる。
来年の展覧会が二つ決まった。一度目は三月で個展、二度目は六月で二人展だ。もうすでにテーマは決まっている。テーマが決まっていればあとはそこに集中するだけだ。今まさに別の場所での展覧会の真っ最中だけれども、同時進行で、ゆっくりと制作を進めていけたらいい。
作業の手を止めてふと窓の外を見やれば。なんとも妖しい雲ゆき。朝のうちあれほど美しい鱗模様を描いていた雲が今は、重灰色一色になり隙間なく空を覆っている。しばらく眺めていても、びくりともしない。私は再び作業に戻ることをやめ、何ともなしに玄関を出る。
最近音を紡ぐ機会が多くなった。私の場合、それは写真と似ている。あるのは、ある瞬間瞬間に浮かんでくる光景を、撮るか紡ぐか、その違いだけだ。
それを何処まで高みに昇華させられ得るか。全ては自分に手にかかっている。
全て自分にかかっているということは、ある意味とても容易い。責任を全て自分で取り得るからだ。共同作業になるとそうはいかない。責任がそれぞれにかかってしまう。
数日前、そんな共同作業を放棄する人を見かけた。確かに、見切りをつけることも実力のうちのひとつだろう。でもそれならば、私は、最初から最後まで一人で負いたい。共同作業の上で放棄はしたくないとつくづく思う。見切りをつけた側はいいかもしれないが、つけられた側、遺された側はたまったものじゃないことを、もうこの歳になれば自分はいやというほど痛感している。
一抹の侘しさを感じつつ、自転車を漕げば。
あぁなんて空が低い。息苦しいほど。
あの並木からここまで銀杏の匂いまでもが満ち満ちてくる。
2008年10月30日木曜日
■落ち葉は木の子供
娘が日記帳に書いてきた。
「さいきん、木とお話できるようになったんだ。それでね、落ち葉は木の子どもなんだって教えてもらったの。うれしかった。ずっと木とお話したかったんだ!」
木とお話できるなんて、なんて素敵なこと。
私もひととき、木との対話でどれほど心救われたことか。
そのことを、改めて思い出した。
私はいつも、幹に耳をつけて、目を閉じて、
木の鼓動に耳を澄ましていた。
そうやって、木と対話していた。
娘はどんなふうにして、木と対話しているのだろう。
どきどきする。
いまどきの子どもらしく、娘の日記には、絵文字というか顔文字がたくさん出てくる。
そのたび「ママ、これ、わかんない」と脇に書く。
(本当に私は顔文字というものを知らない・・・汗)
そして最後に、日記へ返事を書く。
半分、交換日記のようになっているけれども、それでいい。
まだ二日。始まったばかり。
これからどんな言葉が、声が、このノートから聞こえてくることになるのだろう。
私はそれが、楽しみで仕方がない。
「さいきん、木とお話できるようになったんだ。それでね、落ち葉は木の子どもなんだって教えてもらったの。うれしかった。ずっと木とお話したかったんだ!」
木とお話できるなんて、なんて素敵なこと。
私もひととき、木との対話でどれほど心救われたことか。
そのことを、改めて思い出した。
私はいつも、幹に耳をつけて、目を閉じて、
木の鼓動に耳を澄ましていた。
そうやって、木と対話していた。
娘はどんなふうにして、木と対話しているのだろう。
どきどきする。
いまどきの子どもらしく、娘の日記には、絵文字というか顔文字がたくさん出てくる。
そのたび「ママ、これ、わかんない」と脇に書く。
(本当に私は顔文字というものを知らない・・・汗)
そして最後に、日記へ返事を書く。
半分、交換日記のようになっているけれども、それでいい。
まだ二日。始まったばかり。
これからどんな言葉が、声が、このノートから聞こえてくることになるのだろう。
私はそれが、楽しみで仕方がない。
2007年7月12日木曜日
包帯クラブ The Bandage Club/天童荒太
「こっちも、と彼女が別の場所を指す。わたしたち家族が昔、サンドイッチを食べたテーブルの、パラソルの柄の部分にも、包帯が十センチほど巻かれていた…(中略) 大したことではなく、ほんのささいな包帯のひと巻きだった。 でもそれは、確かにこの場所、ここの風景が、傷を受けていた証のように思えたし、同時に、しっかり手当てをしてもらえた跡に見えた。 そうなんだ、ここにはやっぱり、わたしや、わたしの家族の血が流れていたんだ。 気づかないふりをしていたけど、わたしは傷を受けていた…大したことじゃないと思い込もうとしていたけど、奥深いところに刺さったトゲのように痛みを発していた。 でも、いまはその傷を認めてもらえた。あなたの傷なんだと言ってもらえた。そして、包帯が巻かれている。完全に治ったわけじゃないけど、少なくとも血は止めてもらえた。 その感じが、なんだかとてもほっとした。」
何気ない文章で書かれているが、この部分はこの作品を読む上で非常に大切なことのような気がしてならない。
目には見えない傷、不確かな傷、誰とも共有することができない傷が、一体どのくらいあるのだろう。生きていればどうやっても傷だらけになる。傷つくたびに泣いていたら、恐らく一歩も動けなくなる。でも。
もしこんなふうに、包帯を誰かが巻いてくれたなら。どんなにほっとするだろう。見ないふり、気づかないふり、知らないふりをして通り過ぎなければならなかった傷たちも、それで癒される。見ないふりをしなくてもすむ。
少年少女たちが営む思春期の一場面を、著者は実に鮮やかに描き出してくれる。
そして後半、こんなフレーズを見出すことができる。
「 甘いなりに多くの傷を受けながら、それでも生きることを引き受けるなら、自分のためでなく、それがだれかのためでもあるのなら、自分たちが最もしてほしくて、でも本当にあるのかずっと疑っていた、口にするのも恥ずかしい、例のアレが、そこには存在しているってことになるんじゃないだろうか。 」
これを、君はあなたは、物語の中で、どんなふうに読み、感じるのだろう。 これを書いている作者のことを考えてしまうと、ひねくれた私なぞは、どうしても、物分りの良すぎる大人の描いた物語じゃぁないか、などと嘯いてみたりしたくなる。
が。その実、私は物語が進むにつれ、涙をぼろぼろ零しながら読んでいたのだから、それこそ我が身を嘲笑うしか術がない。
そうだ。
物分りが良すぎようと、カッコつけすぎだろうとクサかろうと、キレイゴトだろうとたかが物語だろうと、そんなこたぁどうだっていいんだ。
じゃぁそんなあんたは君は私は、「例のアレ」を知っているのか、堂々と口にできちゃったりするような人間なのか、何より、「生きることをどうであろうといかなるときも引き受けているか」。
--------ただ、それに尽きるだろう。
何気ない文章で書かれているが、この部分はこの作品を読む上で非常に大切なことのような気がしてならない。
目には見えない傷、不確かな傷、誰とも共有することができない傷が、一体どのくらいあるのだろう。生きていればどうやっても傷だらけになる。傷つくたびに泣いていたら、恐らく一歩も動けなくなる。でも。
もしこんなふうに、包帯を誰かが巻いてくれたなら。どんなにほっとするだろう。見ないふり、気づかないふり、知らないふりをして通り過ぎなければならなかった傷たちも、それで癒される。見ないふりをしなくてもすむ。
少年少女たちが営む思春期の一場面を、著者は実に鮮やかに描き出してくれる。
そして後半、こんなフレーズを見出すことができる。
「 甘いなりに多くの傷を受けながら、それでも生きることを引き受けるなら、自分のためでなく、それがだれかのためでもあるのなら、自分たちが最もしてほしくて、でも本当にあるのかずっと疑っていた、口にするのも恥ずかしい、例のアレが、そこには存在しているってことになるんじゃないだろうか。 」
これを、君はあなたは、物語の中で、どんなふうに読み、感じるのだろう。 これを書いている作者のことを考えてしまうと、ひねくれた私なぞは、どうしても、物分りの良すぎる大人の描いた物語じゃぁないか、などと嘯いてみたりしたくなる。
が。その実、私は物語が進むにつれ、涙をぼろぼろ零しながら読んでいたのだから、それこそ我が身を嘲笑うしか術がない。
そうだ。
物分りが良すぎようと、カッコつけすぎだろうとクサかろうと、キレイゴトだろうとたかが物語だろうと、そんなこたぁどうだっていいんだ。
じゃぁそんなあんたは君は私は、「例のアレ」を知っているのか、堂々と口にできちゃったりするような人間なのか、何より、「生きることをどうであろうといかなるときも引き受けているか」。
--------ただ、それに尽きるだろう。
2007年7月11日水曜日
沈黙博物館/小川洋子
形見という代物を、一つでも持ってみると、それがどれほど重たく貴重な代物であるのか痛感する。私自身、形見というものを幾つか持っている。この本を読みながら、思わずそれらがしまってある場所に手を伸ばしたら、とても痛い目にあった。何が痛いのか。それは人それぞれかもしれないが、私の場合、そこで終わってしまった命の断面が、ありありとその代物に刻み込まれていて、そこに触れるのが痛いのだ。私の場合、恐らく、その形見というのが、病死や自然死のケースよりも自殺というケースが多いせいなのかもしれないが。ここで断たれてしまった命、その断面。飛び立った或いは墜落し飛び散った血飛沫が、なまなまと、ありありと、私の網膜に蘇ってくる。それが痛い。それでいながら、一方で、何処までも何処までも愛おしい。それは、かつて培った緒を形見という彼らが、まるで証のように顕しているから。
沈黙博物館は残酷だ。老婆が背負った仕事はあまりにも重い。何故なら、自らと緒を結ぶことが殆どなかった人間たちの生き様さえも記憶に留めなければならなかったのだから。それを紐解くという作業も、一体どれほどのものだったか。想像すると、思わず本を閉じたくなる。同時に、あぁこの「技師」というのは、この街に辿り着いた時点でもう、この世の人間ではなくなったのだな、と、私にはそう感じられた。 老婆を軸にしてその屋敷に集った者はみな、もうこの世とは離れてしまった人間たちに思えてならない。皆それぞれに背負った仕事。でもそれは、この世に存在しては恐らく為しえなかった仕事。
残念なのは、物語の後半だ。老婆の仕事を技師が受け継ぐ。その辺りのところが明確に描かれていないことで謎が謎を呼んでしまう。できるなら、ここできっかり、この場所が屋敷がそしてそこに集まらざるを得なかった登場人物たちが、なにゆえにここに行き着いたのか、私はそれが知りたかった。
後半の緩みは、作者の意図したものなのか。それを知る術は一読者の私にはないのだけれども、もしそれが意図したものであるのであれば。 それは、どちらにでも解釈できると同時に、そのどちらにも定義づけることができない、この世とあの世の狭間に沈黙博物館があるということか。
全ては、読み手に委ねられている。
沈黙博物館は残酷だ。老婆が背負った仕事はあまりにも重い。何故なら、自らと緒を結ぶことが殆どなかった人間たちの生き様さえも記憶に留めなければならなかったのだから。それを紐解くという作業も、一体どれほどのものだったか。想像すると、思わず本を閉じたくなる。同時に、あぁこの「技師」というのは、この街に辿り着いた時点でもう、この世の人間ではなくなったのだな、と、私にはそう感じられた。 老婆を軸にしてその屋敷に集った者はみな、もうこの世とは離れてしまった人間たちに思えてならない。皆それぞれに背負った仕事。でもそれは、この世に存在しては恐らく為しえなかった仕事。
残念なのは、物語の後半だ。老婆の仕事を技師が受け継ぐ。その辺りのところが明確に描かれていないことで謎が謎を呼んでしまう。できるなら、ここできっかり、この場所が屋敷がそしてそこに集まらざるを得なかった登場人物たちが、なにゆえにここに行き着いたのか、私はそれが知りたかった。
後半の緩みは、作者の意図したものなのか。それを知る術は一読者の私にはないのだけれども、もしそれが意図したものであるのであれば。 それは、どちらにでも解釈できると同時に、そのどちらにも定義づけることができない、この世とあの世の狭間に沈黙博物館があるということか。
全ては、読み手に委ねられている。
2005年2月17日木曜日
相手不在の恋愛~ 中沢けい著 「手のひらの桃 」を読む
十代で書いた「海を感じる時」が群像新人文学賞を受賞して以来、マイペースで今も書き続けている作家の一人に、中沢けい氏がいる。どこにでも転がっている日常の、触覚や嗅覚に訴えてくる対象を掬い取り見事にそれを描き出す作家のひとりだと、 私は思っている。
彼女の短編集のニ冊目で、もうかなり以前のものになるのだが「ひとりでいるよ一羽の鳥が」というものがあり、その中でもとりわけ短い作品で「手のひらの桃」がある。この作品が発表されたのは一九八ニ年の群像十二月号であるから、もうかれこれ十七年前になるのだが、この作品から感じる空寒い悪寒は、私たちが生活している今にもそのまま反映されている。
数十頁という短いこの「手のひらの桃」という作品の中で、何より先に私の心をとらえたのは、主人公瑞枝の、中絶に対する意識であった。瑞枝は小説の終わりで元恋人であった泰との間に出来た子供を堕ろす。彼女は、妊娠したと気付いた時から、そうすることを決めていたのだった。ここで、ごく普通に考えたなら、妊娠するということ自体が特別なことであるはずだ。なのに、更にそれを中絶するなど、私たちにとってはまさに一大事で、軽々しく扱える事柄ではない。しかしながら彼女は、「最初から堕ろす」ことに決めているのである。そうすることに対して、彼女は、何の抵抗も、何の疑問も抱いていない。私はこの点に何より魅きつけられた。これは一体何故なのだろう。
性行為に対し、彼女はこう感じている。「行為が終わってしまえば、それまで」、その後では「全てが汚らわしいものに見えてしまう」、と。「全てが汚らわしい」、そう、彼女には行為が終わった後では、その行為に付随し存在していたもの、行為を営む相手である泰も含めた全てのものが汚らわしく映ってしまうのである。そして、愛の行為の結晶であるはずの子供は、まさしくこの汚れの結晶となってしまったのである。そう考えると、彼女にとって子供を堕ろすということは、今まで泰ともってきた性行為によってついてしまった「汚れ」をおとすこと、清算することに他ならない。だからこそ、彼女は一寸もためらうことなく、中絶することを、ごく自然に、不思議にも決めることができるのである。
ひるがえって、もしも彼女が、泰に対して愛情を感じていて、それゆえに性行為をもったのであったならば、それはどうだろうか。もしそうであったならば、性行為が終わった後でも彼女がそれを「汚らわしい」と感じることは決してなかったであろう。言うなれば、彼女にとって泰とは、恋した相手などではなく、単に彼女が持っていた性行為への興味や欲求を、うまい具合に満たしてくれただけの相手だったのだ。つまり、瑞枝の行為は恋愛感情と結びついた行為であるとはいえない。
そうなると、私たちの考えている、相手との一体化を求めるための性行為というのは、彼女にとっては違ったものになってくる。彼女は行為それだけをとったなら、それを蜜のように甘いと感じている。それだけ彼女の肉体は、その行為に満足しているといえるだろう。しかし、その相手に彼女は恋愛感情をもってはいないのである。官能的にはいくら開放していても、心は完全に閉ざされているのだ。性行為において、相手との一体感を感じながら存在する私たちに対し、彼女は、決して溶け合うことのない相手と自分とを感じながら、存在しているのである。つまり、彼女にとっての性行為とは、精神と身体が互いに統合して相手と溶け合うというものとは全く別の、というよりもむしろ、相手によって、自分自身の存在を明確にするという類いの行為。「二人」ではなく、完全に一方の、自分自身の快楽に他ならないのだ。だから、泰に対して彼女がいくら「好き」を連発しても、それは彼女にとって、他人が向けてくる冷たい視線(いわゆる異端者に対してのそれ)から、自分を守るための「装い」、本来相手と一体化するためにもたれる性行為において、自己完結してしまっている自分の姿を隠すためのものでしかない。だからこそ、泰へ好きだと言ったことを思い出すと、それがそのまま、自分のずるさとして彼女自身に跳ね返ってくると感じたりするのだ。
こんな彼女の背景には、彼女の少女期がある。他人から「感覚的ブス」と呼ばれ、周りに疎まれながら育つ彼女は、それゆえにひとり遊びを覚えてゆく。子供たちが、大勢集まってみな一緒に遊ぶということを覚える時期に、彼女はそうした体験をすることなく育っていってしまうのである。いつもみなの輪の外にいる彼女は、輪の中に入ることを望む。入るために、彼女はいつのまにか、自分の価値判断を捨て、他人のそれを持って生きていこうとする。しかし上手くその中に入ることはできない。そんな彼女の自閉的状態で生きる姿と、性行為において自己完結してしまっている姿とは、まさに向かい合っているのだ。
こうして読んでくると、「手のひらの桃」、この題名が暗示していたものが、だんだんと浮かび上がってくる。たっぷりと甘い汁を含んで、齧りつくと汁がこぼれてしまう桃の実。泰と瑞枝に食べられてしまうその実。そして、その桃の果汁に濡れた泰の手が、瑞枝の中絶手術に必要な書類の端に、茶色い染みをつけてしまうのである。これはまさに、瑞枝と泰の性行為そのものといえるであろう。そして、そんな桃を、そういった(彼女の)自閉的状態を読むときに、私たちは、それが瑞枝だけに限られたものではないということを、決して見落としてはならない。現在(いま)生きている私たちの誰もが、この自閉的状態に陥る要素をもっており、今こうして瑞枝の状態を読んでいる間にも、些細なきっかけ一つで、読む側にいたはずの私たちが、読まれる側へとまわってしまう可能性、危険性は、充分にあるのである。つまり、私たちは、一つの恋愛においても、それを成就する、完全に相手と自分との一体感を持つということができないような状況へと陥っている、と、言えるのではないだろうか。
(※中沢けい「ひとりでいるよ一羽の鳥が」講談社文庫刊)
彼女の短編集のニ冊目で、もうかなり以前のものになるのだが「ひとりでいるよ一羽の鳥が」というものがあり、その中でもとりわけ短い作品で「手のひらの桃」がある。この作品が発表されたのは一九八ニ年の群像十二月号であるから、もうかれこれ十七年前になるのだが、この作品から感じる空寒い悪寒は、私たちが生活している今にもそのまま反映されている。
数十頁という短いこの「手のひらの桃」という作品の中で、何より先に私の心をとらえたのは、主人公瑞枝の、中絶に対する意識であった。瑞枝は小説の終わりで元恋人であった泰との間に出来た子供を堕ろす。彼女は、妊娠したと気付いた時から、そうすることを決めていたのだった。ここで、ごく普通に考えたなら、妊娠するということ自体が特別なことであるはずだ。なのに、更にそれを中絶するなど、私たちにとってはまさに一大事で、軽々しく扱える事柄ではない。しかしながら彼女は、「最初から堕ろす」ことに決めているのである。そうすることに対して、彼女は、何の抵抗も、何の疑問も抱いていない。私はこの点に何より魅きつけられた。これは一体何故なのだろう。
性行為に対し、彼女はこう感じている。「行為が終わってしまえば、それまで」、その後では「全てが汚らわしいものに見えてしまう」、と。「全てが汚らわしい」、そう、彼女には行為が終わった後では、その行為に付随し存在していたもの、行為を営む相手である泰も含めた全てのものが汚らわしく映ってしまうのである。そして、愛の行為の結晶であるはずの子供は、まさしくこの汚れの結晶となってしまったのである。そう考えると、彼女にとって子供を堕ろすということは、今まで泰ともってきた性行為によってついてしまった「汚れ」をおとすこと、清算することに他ならない。だからこそ、彼女は一寸もためらうことなく、中絶することを、ごく自然に、不思議にも決めることができるのである。
ひるがえって、もしも彼女が、泰に対して愛情を感じていて、それゆえに性行為をもったのであったならば、それはどうだろうか。もしそうであったならば、性行為が終わった後でも彼女がそれを「汚らわしい」と感じることは決してなかったであろう。言うなれば、彼女にとって泰とは、恋した相手などではなく、単に彼女が持っていた性行為への興味や欲求を、うまい具合に満たしてくれただけの相手だったのだ。つまり、瑞枝の行為は恋愛感情と結びついた行為であるとはいえない。
そうなると、私たちの考えている、相手との一体化を求めるための性行為というのは、彼女にとっては違ったものになってくる。彼女は行為それだけをとったなら、それを蜜のように甘いと感じている。それだけ彼女の肉体は、その行為に満足しているといえるだろう。しかし、その相手に彼女は恋愛感情をもってはいないのである。官能的にはいくら開放していても、心は完全に閉ざされているのだ。性行為において、相手との一体感を感じながら存在する私たちに対し、彼女は、決して溶け合うことのない相手と自分とを感じながら、存在しているのである。つまり、彼女にとっての性行為とは、精神と身体が互いに統合して相手と溶け合うというものとは全く別の、というよりもむしろ、相手によって、自分自身の存在を明確にするという類いの行為。「二人」ではなく、完全に一方の、自分自身の快楽に他ならないのだ。だから、泰に対して彼女がいくら「好き」を連発しても、それは彼女にとって、他人が向けてくる冷たい視線(いわゆる異端者に対してのそれ)から、自分を守るための「装い」、本来相手と一体化するためにもたれる性行為において、自己完結してしまっている自分の姿を隠すためのものでしかない。だからこそ、泰へ好きだと言ったことを思い出すと、それがそのまま、自分のずるさとして彼女自身に跳ね返ってくると感じたりするのだ。
こんな彼女の背景には、彼女の少女期がある。他人から「感覚的ブス」と呼ばれ、周りに疎まれながら育つ彼女は、それゆえにひとり遊びを覚えてゆく。子供たちが、大勢集まってみな一緒に遊ぶということを覚える時期に、彼女はそうした体験をすることなく育っていってしまうのである。いつもみなの輪の外にいる彼女は、輪の中に入ることを望む。入るために、彼女はいつのまにか、自分の価値判断を捨て、他人のそれを持って生きていこうとする。しかし上手くその中に入ることはできない。そんな彼女の自閉的状態で生きる姿と、性行為において自己完結してしまっている姿とは、まさに向かい合っているのだ。
こうして読んでくると、「手のひらの桃」、この題名が暗示していたものが、だんだんと浮かび上がってくる。たっぷりと甘い汁を含んで、齧りつくと汁がこぼれてしまう桃の実。泰と瑞枝に食べられてしまうその実。そして、その桃の果汁に濡れた泰の手が、瑞枝の中絶手術に必要な書類の端に、茶色い染みをつけてしまうのである。これはまさに、瑞枝と泰の性行為そのものといえるであろう。そして、そんな桃を、そういった(彼女の)自閉的状態を読むときに、私たちは、それが瑞枝だけに限られたものではないということを、決して見落としてはならない。現在(いま)生きている私たちの誰もが、この自閉的状態に陥る要素をもっており、今こうして瑞枝の状態を読んでいる間にも、些細なきっかけ一つで、読む側にいたはずの私たちが、読まれる側へとまわってしまう可能性、危険性は、充分にあるのである。つまり、私たちは、一つの恋愛においても、それを成就する、完全に相手と自分との一体感を持つということができないような状況へと陥っている、と、言えるのではないだろうか。
(※中沢けい「ひとりでいるよ一羽の鳥が」講談社文庫刊)
2004年5月19日水曜日
MARUSCHKA DETMERS
MARUSCHKA DETMERS、彼女と初めて出会ったのは、マルコ・ベロッキオ監督「肉体の悪魔」であった。当時、街角に張ってあったポスターを見、私はこの映画を見ることに決めた。理由は単純だ。ポスターに立った彼女の落ち窪んだ目が私の琴線に引っかかったからだ。それはメイクのせいで落ち窪んでいることははっきり分かった。が、そんなことは問題ではなかった。彼女の目が孕む妖艶な何かに、私は引っ張られたのだ。
映画を見にゆくと、その映画自体はまさに、イタリアそしてフランス映画の匂いがむんむんの、こってりとした両国合作映画だった。でも私は、そんなことをまったく忘れ切るほどに彼女にのめりこんだ。次はこの映画館で上映されるらしいと知れば、テープレコーダーをこっそり鞄に忍ばせてその映画館へ飛んでいった。彼女の声、映像のバックに流れる弦楽器による微妙な旋律、そして最後の最後、彼女のあの微笑と涙と共に流れる古典ギリシャ語とを録音するために。今そのテープを数えてみると、合計で12本ある。まったく呆れる酔狂ぶりである。
「肉体の悪魔」はラディゲが原作者だ。新潮文庫から今も出ていると思う。監督マルコ・ベロッキオは、この原作を、一体どう解釈したらこんな脚本になり得るのかと思うほどに壊し、再構築させている。見様によっては、主人公(原作では主人公は男性だが、この映画ではマルーシュカ・デートメルス演じるジュリアが主人公となっている)は狂人のように見える。婚約者がいながら若い学生と通じ合い、婚約者との新居となるはずのベッドの上で抱き合い、彼女はその若者の性器を切り落とす真似さえしてみせる。そして、床中にあらゆるものをひっくり返し、その中で彼女は笑いながら踊り狂う。しかし、彼女は本当に狂っていたのだろうか。もし今私が誰かにそのことを問われたら、否と答えるだろう。
あちこちの男と通じ合い、同時に彼女は病んだ心を癒そうと必死にあがく。その有様が極端に描かれているから、見ている私たちはその極端さに引きずられがちだが、私は思うのだ。繰り返し繰り返しこの映画を見て、最後に思ったのだ。これは狂女の姿ではない。私たちの姿だと。
正直に生きることは、この世界では実はとても難しい。あちこちで軋轢がおきる。そんなことをしたら、それに対して一つずつ責任をとっていかなければ周囲は収まらない。だから私たちは、適当に頭を下げ、自分の気持ちを半分隠して、にっこりしながら、ぺこりと頭を下げながら生きてゆく。それがこの世界だ。この世界をうまく渡ってゆく方法だ。しかし、それがもし上手にできなかったら? ジュリアは多分、普段隠している私たちの本性だ。その化身だ。それはとても不器用で、切なくて、哀しくて、もしかしたら見ている者の目を逸らさせるかもしれない。すべてを自ら失った後、彼女が最後の最後に見せるあの微笑は、だからなおさらに美しい。自ら選び取った道、生き様を、彼女の微笑は受け入れようとしているように、私には見える。
そして私は恋に堕ちた。マルーシュカ・デートメルスという女優に。彼女のあの目は、私の胸を貫いてしまった。女性が女性に惚れるとは。でも私は惚れたのだ、彼女に。
以来、彼女が出演する作品が上映されると知るたび、あちこちに飛んでいった。「夏のアルバム」(ダニエル・ヴィーニュ監督、)はもちろん、「赤と黒の接吻」(エリック・バルビエ監督)、それから監督名は忘れたがジェラール・ドパルデューと共演した「ふたり」、そしてビデオで「カルメンという名の女」(ジャン=リュック・ゴダール監督。ちなみに、私はゴダールさんはあんまり好きではない)、ジェーン・バーキンと共演していた「ラ・ピラート」など。
そして。
私が一番心に残っているのは、メハナム・ゴーラン監督作品「ハンナ・セネシュ」を演じたマルーシュカ・デートメルスだ。(この映画パンフレットでは、彼女の名はマルーシュカ・デトメールと訳されていた。)
ハンナ・セネシュとは、第二次大戦時を生きた一人のユダヤ人という実在の人物で、監督は1964年にすでにハンナの家族に接触し、映画化したいと申し入れていたという。
「ハンナ・セネシュの物語は戦争アクションではない。ハンナはスリリングなスパイ行為を鮮やかにやってのけたわけではない。かといって詩を書く若い理想主義者の女性の話でもない。彼女は詩を書くナイーブな娘だが、命を賭けて危機に挑み、自分の考えに反することには決して屈することがなかったのだ。そしてもちろん空挺部隊の連中の話でもない。ハンナは他の情報部員と訓練を受け、数名と共に任務を授かったが、その事実が物語の核ではないのだ。それらはひとつひとつの要素であって、その集合体としての複雑なハンナの人間性を、ゴーランは描きたかったのである。
(中略)
もちろんゴーランは自己犠牲を美化しているわけではない。またハンナはむしろ、逮捕される前に自殺できるにも関わらず、自殺せずに生きることを選んだ女性だ。」
(映画パンフレットの解説より引用)
私は多分、死ぬまで、この映画の法廷シーン、ハンナの処刑シーンを、忘れることはないだろう。そのくらい鮮烈で強烈だった。彼女が法廷で、一言一言、人間であることは一体どんなことなのか、生きるということはどういうことなのか、そして、誇りというものは何であるのかを淡々と述べてゆくとき、それは私の中で永遠の問いに変わった。私が人間であるということはどういうことなのか、生きるということはどういうことなのか、そして私が私自身であるというその誇りは一体どういうものなのか。
いわれなき罪をきせられ、処刑されるそのとき、彼女は白い雪の中で、その雪と同じ白いブラウスを着、立っている。銃声が辺りに響き渡り、彼女の体が雪の中に倒れ込んでゆくとき、彼女の目は天を向いている。開かれたままの目は、最後に何を見たのだろう。
誰が悪いわけではない。誰というたった一人の特定の誰かが悪いわけではない。人間が起こしてゆく戦争は、多分、人間から人間性を奪う行為なのだ。それでも人間は戦争を止めることはできない。多分永遠にこの世界の何処かで戦争は為されてゆくだろう。でも、ならばせめて。
人間が人間であることを忘れないでほしい。人間が人間であるからこそできることを忘れないで欲しい。自分を守ろうとするのは人間の常だ。それが当然だ。でも、ならば、誰かの屍の上に今自分は立っているのだ、それが私たちの地面を支えているのだということを決して忘れてはいけない。
マルーシュカ・デートメルスは、この作品が制作されることを知った時、監督に直訴しに行ったという。「私こそハンナ・セネシュだ」と言って、そうしてこの役を勝ち取った。それだけに、彼女の真摯な演技は、周囲のベテラン演技者たちの間からも際立って見える。もうここには、かつてセックス・シンボルとマスコミにこぞって揶揄された彼女はいない。いるのは、髪の先まで、瞳の色まで役にのめりこませ、自身をその役の化身とさせずにはおかない彼女である。
映画として、「ハンナ・セネシュ」は詰め込みすぎたように思われる。ここまで詰め込むならいっそ、映画の時間を倍にして、もっとつっこんで描いてほしかったと私は贅沢なことを望んでいる。しかし。
それでも、映画の中で、マルーシュカ・デートメルスは輝いていた。凛然と。
だから要するに。
私は惚れているのである。彼女に。もうこれは、ぞっこんである。他に何も言いようがないほど。彼女を超える女優とは、一体いつ出会えるだろう。自分でそのことを問うてみても、首を傾げたくなるくらいに。私は彼女に惚れている。
映画を見にゆくと、その映画自体はまさに、イタリアそしてフランス映画の匂いがむんむんの、こってりとした両国合作映画だった。でも私は、そんなことをまったく忘れ切るほどに彼女にのめりこんだ。次はこの映画館で上映されるらしいと知れば、テープレコーダーをこっそり鞄に忍ばせてその映画館へ飛んでいった。彼女の声、映像のバックに流れる弦楽器による微妙な旋律、そして最後の最後、彼女のあの微笑と涙と共に流れる古典ギリシャ語とを録音するために。今そのテープを数えてみると、合計で12本ある。まったく呆れる酔狂ぶりである。
「肉体の悪魔」はラディゲが原作者だ。新潮文庫から今も出ていると思う。監督マルコ・ベロッキオは、この原作を、一体どう解釈したらこんな脚本になり得るのかと思うほどに壊し、再構築させている。見様によっては、主人公(原作では主人公は男性だが、この映画ではマルーシュカ・デートメルス演じるジュリアが主人公となっている)は狂人のように見える。婚約者がいながら若い学生と通じ合い、婚約者との新居となるはずのベッドの上で抱き合い、彼女はその若者の性器を切り落とす真似さえしてみせる。そして、床中にあらゆるものをひっくり返し、その中で彼女は笑いながら踊り狂う。しかし、彼女は本当に狂っていたのだろうか。もし今私が誰かにそのことを問われたら、否と答えるだろう。
あちこちの男と通じ合い、同時に彼女は病んだ心を癒そうと必死にあがく。その有様が極端に描かれているから、見ている私たちはその極端さに引きずられがちだが、私は思うのだ。繰り返し繰り返しこの映画を見て、最後に思ったのだ。これは狂女の姿ではない。私たちの姿だと。
正直に生きることは、この世界では実はとても難しい。あちこちで軋轢がおきる。そんなことをしたら、それに対して一つずつ責任をとっていかなければ周囲は収まらない。だから私たちは、適当に頭を下げ、自分の気持ちを半分隠して、にっこりしながら、ぺこりと頭を下げながら生きてゆく。それがこの世界だ。この世界をうまく渡ってゆく方法だ。しかし、それがもし上手にできなかったら? ジュリアは多分、普段隠している私たちの本性だ。その化身だ。それはとても不器用で、切なくて、哀しくて、もしかしたら見ている者の目を逸らさせるかもしれない。すべてを自ら失った後、彼女が最後の最後に見せるあの微笑は、だからなおさらに美しい。自ら選び取った道、生き様を、彼女の微笑は受け入れようとしているように、私には見える。
そして私は恋に堕ちた。マルーシュカ・デートメルスという女優に。彼女のあの目は、私の胸を貫いてしまった。女性が女性に惚れるとは。でも私は惚れたのだ、彼女に。
以来、彼女が出演する作品が上映されると知るたび、あちこちに飛んでいった。「夏のアルバム」(ダニエル・ヴィーニュ監督、)はもちろん、「赤と黒の接吻」(エリック・バルビエ監督)、それから監督名は忘れたがジェラール・ドパルデューと共演した「ふたり」、そしてビデオで「カルメンという名の女」(ジャン=リュック・ゴダール監督。ちなみに、私はゴダールさんはあんまり好きではない)、ジェーン・バーキンと共演していた「ラ・ピラート」など。
そして。
私が一番心に残っているのは、メハナム・ゴーラン監督作品「ハンナ・セネシュ」を演じたマルーシュカ・デートメルスだ。(この映画パンフレットでは、彼女の名はマルーシュカ・デトメールと訳されていた。)
ハンナ・セネシュとは、第二次大戦時を生きた一人のユダヤ人という実在の人物で、監督は1964年にすでにハンナの家族に接触し、映画化したいと申し入れていたという。
「ハンナ・セネシュの物語は戦争アクションではない。ハンナはスリリングなスパイ行為を鮮やかにやってのけたわけではない。かといって詩を書く若い理想主義者の女性の話でもない。彼女は詩を書くナイーブな娘だが、命を賭けて危機に挑み、自分の考えに反することには決して屈することがなかったのだ。そしてもちろん空挺部隊の連中の話でもない。ハンナは他の情報部員と訓練を受け、数名と共に任務を授かったが、その事実が物語の核ではないのだ。それらはひとつひとつの要素であって、その集合体としての複雑なハンナの人間性を、ゴーランは描きたかったのである。
(中略)
もちろんゴーランは自己犠牲を美化しているわけではない。またハンナはむしろ、逮捕される前に自殺できるにも関わらず、自殺せずに生きることを選んだ女性だ。」
(映画パンフレットの解説より引用)
私は多分、死ぬまで、この映画の法廷シーン、ハンナの処刑シーンを、忘れることはないだろう。そのくらい鮮烈で強烈だった。彼女が法廷で、一言一言、人間であることは一体どんなことなのか、生きるということはどういうことなのか、そして、誇りというものは何であるのかを淡々と述べてゆくとき、それは私の中で永遠の問いに変わった。私が人間であるということはどういうことなのか、生きるということはどういうことなのか、そして私が私自身であるというその誇りは一体どういうものなのか。
いわれなき罪をきせられ、処刑されるそのとき、彼女は白い雪の中で、その雪と同じ白いブラウスを着、立っている。銃声が辺りに響き渡り、彼女の体が雪の中に倒れ込んでゆくとき、彼女の目は天を向いている。開かれたままの目は、最後に何を見たのだろう。
誰が悪いわけではない。誰というたった一人の特定の誰かが悪いわけではない。人間が起こしてゆく戦争は、多分、人間から人間性を奪う行為なのだ。それでも人間は戦争を止めることはできない。多分永遠にこの世界の何処かで戦争は為されてゆくだろう。でも、ならばせめて。
人間が人間であることを忘れないでほしい。人間が人間であるからこそできることを忘れないで欲しい。自分を守ろうとするのは人間の常だ。それが当然だ。でも、ならば、誰かの屍の上に今自分は立っているのだ、それが私たちの地面を支えているのだということを決して忘れてはいけない。
マルーシュカ・デートメルスは、この作品が制作されることを知った時、監督に直訴しに行ったという。「私こそハンナ・セネシュだ」と言って、そうしてこの役を勝ち取った。それだけに、彼女の真摯な演技は、周囲のベテラン演技者たちの間からも際立って見える。もうここには、かつてセックス・シンボルとマスコミにこぞって揶揄された彼女はいない。いるのは、髪の先まで、瞳の色まで役にのめりこませ、自身をその役の化身とさせずにはおかない彼女である。
映画として、「ハンナ・セネシュ」は詰め込みすぎたように思われる。ここまで詰め込むならいっそ、映画の時間を倍にして、もっとつっこんで描いてほしかったと私は贅沢なことを望んでいる。しかし。
それでも、映画の中で、マルーシュカ・デートメルスは輝いていた。凛然と。
だから要するに。
私は惚れているのである。彼女に。もうこれは、ぞっこんである。他に何も言いようがないほど。彼女を超える女優とは、一体いつ出会えるだろう。自分でそのことを問うてみても、首を傾げたくなるくらいに。私は彼女に惚れている。
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