いつ雨が降り出してもおかしくないような雲模様が朝からずっと続いている。こんな日は空が低すぎて、息をするのが少し苦しくなる。誰にも見つからないように、誰にも知られぬようにこっそり息をしないといけないかのような錯覚に囚われる。だから私は今日少し窒息気味だ。
朝、仕事絡みで話をした人からヒントを得て、私はあれやこれや自分の写真を引っ張り出す。昔のものと今のものを見比べてみたり、どうしても納得いかなければ焼き直してみたり。そして写真の出来上がりに葛藤する。
文章でも写真でも音楽でも、簡潔・明瞭がいい。ただ、私は削ぎ落としすぎる。削ぎ落としすぎて、余白ができる。その余白が本体を映えさせ得るときと、逆に本体を潰すときとがあることを、私はすっかり失念していた。そのことを痛感させられる。当たり前だが、何でも削ぎ落とせばいいというわけではないのだ。そうなったら、一度、基本に立ち返る必要があるのかもしれない。写真で言えばそう、私が削ぎ落としてきた中間の部分を、中間の部分そのままに残しておくことも、大事なのかもしれない。
洗濯物を干そうと窓を開けて気付いた。ラナンキュラスの芽が開いている。それはまだまだ小さな小さな葉体だ。まるで赤子がその小さな手を空に向かって精一杯伸ばし広げているかのよう。右の人差し指でそっと、輪郭を撫でてみる。葉がぷるりと震える。あぁこんな時、太陽がさんさんと照っていれば。私は低く垂れ込める空を見上げ、葉と同じようにぷるりと肩を震わす。
でも。
もうすぐだ。私の愛する真冬はもうすぐ、やって来る。そしてこの球根や裸樹と共にきっとこの冬も私は越えてゆく。
2008年11月3日月曜日
2008年11月2日日曜日
■セピア色の喫茶店
娘の留守の日曜日。ぽかんと空いた日曜日。私は通い慣れた喫茶店へ足を運ぶ。途中古本屋に立ち寄り、適当に一冊を選ぶ。その喫茶店は、入り口の扉がちょっと小さい。だから入り口を潜るようにして中へ入る。ミルクティを頼んで、私はしばらく小窓の外を眺める。
駅前でお祭りをやっているせいだろう。りんご飴を舐めながら歩く人、たこ焼きを口に投げ入れながら歩く人、そんな姿が行き来する。小さな子供は、自分の頭より大きな綿菓子の袋を大事そうに抱えている。
店にはこの前来た時一緒になった女性客が持ってきた、ストロベリーチョコレート・コスモスという色の花が細い細い花瓶に飾ってある。何とも深みのある色合い。それが、この喫茶店の、少し煤けた壁や椅子とほどよく調和している。
一人の客は私だけ。本を広げてみたものの、しばし、他の客たちのおしゃべりにこっそり耳を澄ます。
「B型の人ってほんとマイペースだよね。好きなことしかしないって感じ」
「そうなんじゃないの」
「この前突然「葬式に出るんだけど喪服が皺だらけだからアイロンかけて」って頼まれた、B型の人から」
「何それ、で、どうしたの」
「かけてあげたよ」
「頼む方もおかしいけど、かけてあげるのもおかしいんじゃないの」
「えー、そうかな、だってたいしたことではないし、別にいいと思ったんだもの」
「そういう相手を嗅ぎ分けるのがうまいのもB型かもしんないな」
「そういうもんかなぁ」
「ねぇ、明日どこ行く?」
「明日は日帰り温泉でも行こうか」
「わぁ、いいなぁそれ」
「近場なら大丈夫だろ」
「嬉しい!」
「今日は早めに帰ろう」
「うん」
「トツさん、久しぶり!」
「おお、久しぶりですねぇ」
「俺、毎日ここ来てたんだよ、全然会わなかったけど」
「ちょっと身体壊してたんですよ」
「あら、大丈夫なの」
「ええ、もう大丈夫。ただの風邪だったみたいで」
「朝晩冷えるからねぇ」
「熱とかはなかったんですけどね、おなかが何とも。あと鼻水」
「そうだったんすかぁ。いやぁ会えてよかった」
「ははははは」
それぞれがそれぞれに、とても楽しげな表情で会話を続けている。あまり耳をそばだてすぎると、自分も一緒に笑い出してしまいそうになるから、私は慌てて本に目を落とす。濃い目のミルクティが、とてもおいしい。
あっという間に一冊を読み終える。「福音の少年」。そういえば、かつてこの登場人物である少年たちのような関係を、私は誰かと結んだことがあったっけ。もう遠い記憶にうずもれた相手を、後姿で思い出す。そう、あの人だった。そして私たちはどういう終わりを迎えた? 私はだいぶ冷えつつあるミルクティを口に含みながら、やわらかく当時のことを思い返す。まだ十五、十六の、ちょっと触れられるだけで痛みを覚える年頃だった。
帰り道、私もお祭りの賑わいに紛れてみようかと思ったが、やめた。なんだか娘に悪い気がして。
今日はこのまま帰ろう。そして娘に電話しよう。明日会えるね、と。
駅前でお祭りをやっているせいだろう。りんご飴を舐めながら歩く人、たこ焼きを口に投げ入れながら歩く人、そんな姿が行き来する。小さな子供は、自分の頭より大きな綿菓子の袋を大事そうに抱えている。
店にはこの前来た時一緒になった女性客が持ってきた、ストロベリーチョコレート・コスモスという色の花が細い細い花瓶に飾ってある。何とも深みのある色合い。それが、この喫茶店の、少し煤けた壁や椅子とほどよく調和している。
一人の客は私だけ。本を広げてみたものの、しばし、他の客たちのおしゃべりにこっそり耳を澄ます。
「B型の人ってほんとマイペースだよね。好きなことしかしないって感じ」
「そうなんじゃないの」
「この前突然「葬式に出るんだけど喪服が皺だらけだからアイロンかけて」って頼まれた、B型の人から」
「何それ、で、どうしたの」
「かけてあげたよ」
「頼む方もおかしいけど、かけてあげるのもおかしいんじゃないの」
「えー、そうかな、だってたいしたことではないし、別にいいと思ったんだもの」
「そういう相手を嗅ぎ分けるのがうまいのもB型かもしんないな」
「そういうもんかなぁ」
「ねぇ、明日どこ行く?」
「明日は日帰り温泉でも行こうか」
「わぁ、いいなぁそれ」
「近場なら大丈夫だろ」
「嬉しい!」
「今日は早めに帰ろう」
「うん」
「トツさん、久しぶり!」
「おお、久しぶりですねぇ」
「俺、毎日ここ来てたんだよ、全然会わなかったけど」
「ちょっと身体壊してたんですよ」
「あら、大丈夫なの」
「ええ、もう大丈夫。ただの風邪だったみたいで」
「朝晩冷えるからねぇ」
「熱とかはなかったんですけどね、おなかが何とも。あと鼻水」
「そうだったんすかぁ。いやぁ会えてよかった」
「ははははは」
それぞれがそれぞれに、とても楽しげな表情で会話を続けている。あまり耳をそばだてすぎると、自分も一緒に笑い出してしまいそうになるから、私は慌てて本に目を落とす。濃い目のミルクティが、とてもおいしい。
あっという間に一冊を読み終える。「福音の少年」。そういえば、かつてこの登場人物である少年たちのような関係を、私は誰かと結んだことがあったっけ。もう遠い記憶にうずもれた相手を、後姿で思い出す。そう、あの人だった。そして私たちはどういう終わりを迎えた? 私はだいぶ冷えつつあるミルクティを口に含みながら、やわらかく当時のことを思い返す。まだ十五、十六の、ちょっと触れられるだけで痛みを覚える年頃だった。
帰り道、私もお祭りの賑わいに紛れてみようかと思ったが、やめた。なんだか娘に悪い気がして。
今日はこのまま帰ろう。そして娘に電話しよう。明日会えるね、と。
■今頃部屋ではアオツメクサが咲いている
朝一番に娘と自転車で街を走る。昨日のあの重たげな雲は何処へいったのやら、今朝は冷えてはいるがとても気持ちのいい空だ。自然、漕ぐ足も軽やかに動く。
昨日嗅いだ銀杏の匂いを思い出し、娘と共に並木の下に行く。娘が途端に悲鳴を上げる。
何この匂い。
ギンナンの匂いだよ。ほら、ここに落ちて潰れてるのがある。
この匂いキライィ。
ふふ。まぁ好きな人はあんまりいないよね。でも。
でも、なぁに? ママは好きなの?
好きってわけじゃないけど。秋の終わりを教えてくれる匂いだよ。
うーん。でも、この匂いヤダ。
ふふふ。
私たちは海の公園まで走り、ひとしきり小さな飛沫をあげる波を眺め、家路につく。
途中、ふと鮮やかな青色を道端に見つける。アオツメクサだ。もう少しで見落とすところだった。私たちは自転車を止め、一輪二輪、摘んでみる。もったいないからこれだけね、と視線を交わし、ふふふと笑って再び自転車を漕ぐ。そろそろ時間だ。
週末娘はたいてい私の実家へ遊びに行く。決まった時間に電車に乗せないと、実家から電話がかかってくる。待ち侘びているのだ、じじばばが。
ほら、髪の毛結って。歯磨いて。支度はできたの? 娘を急かしながら私はたびたび時計を見やる。そろそろ電話が鳴る。その前に家を出ないと。
ママ、準備できた! 娘のその声で玄関を二人して飛び出す。休日の朝からなんでこんなに急いでるんだろうねと苦笑いしながら、私たちは駅までの道を走り出す。
ねぇママ。夜にはちゃんと電話ちょうだいね。うん、わかった。絶対だよ。うん、約束。じゃぁね、ママもいってらっしゃい。じゃぁまたね。
電車の窓越し、お互いに姿が見えなくなるまで手を振り合う。しばしの別れ。私は仕事場へ向かう。
今頃部屋では、アオツメクサがひっそりと、咲いている。
昨日嗅いだ銀杏の匂いを思い出し、娘と共に並木の下に行く。娘が途端に悲鳴を上げる。
何この匂い。
ギンナンの匂いだよ。ほら、ここに落ちて潰れてるのがある。
この匂いキライィ。
ふふ。まぁ好きな人はあんまりいないよね。でも。
でも、なぁに? ママは好きなの?
好きってわけじゃないけど。秋の終わりを教えてくれる匂いだよ。
うーん。でも、この匂いヤダ。
ふふふ。
私たちは海の公園まで走り、ひとしきり小さな飛沫をあげる波を眺め、家路につく。
途中、ふと鮮やかな青色を道端に見つける。アオツメクサだ。もう少しで見落とすところだった。私たちは自転車を止め、一輪二輪、摘んでみる。もったいないからこれだけね、と視線を交わし、ふふふと笑って再び自転車を漕ぐ。そろそろ時間だ。
週末娘はたいてい私の実家へ遊びに行く。決まった時間に電車に乗せないと、実家から電話がかかってくる。待ち侘びているのだ、じじばばが。
ほら、髪の毛結って。歯磨いて。支度はできたの? 娘を急かしながら私はたびたび時計を見やる。そろそろ電話が鳴る。その前に家を出ないと。
ママ、準備できた! 娘のその声で玄関を二人して飛び出す。休日の朝からなんでこんなに急いでるんだろうねと苦笑いしながら、私たちは駅までの道を走り出す。
ねぇママ。夜にはちゃんと電話ちょうだいね。うん、わかった。絶対だよ。うん、約束。じゃぁね、ママもいってらっしゃい。じゃぁまたね。
電車の窓越し、お互いに姿が見えなくなるまで手を振り合う。しばしの別れ。私は仕事場へ向かう。
今頃部屋では、アオツメクサがひっそりと、咲いている。
2008年10月31日金曜日
■銀杏の匂いまでもが満ち満ちてくる
毎朝窓を開けて空を見る。日毎、高くなってゆくのが手に取るように分かる。それは冬の訪れ。十月中旬に植えた球根は、徐々に徐々に芽を伸ばし、今ではもう三センチほどの長さを持つものもいる。当たり前のことかもしれないが、球根がそれぞれの形をしているように、それぞれの芽を持っていることが、こうして見ているととても不思議な、そして尊いものに思えてくる。多分、そう、それは人も同じ。
来年の展覧会が二つ決まった。一度目は三月で個展、二度目は六月で二人展だ。もうすでにテーマは決まっている。テーマが決まっていればあとはそこに集中するだけだ。今まさに別の場所での展覧会の真っ最中だけれども、同時進行で、ゆっくりと制作を進めていけたらいい。
作業の手を止めてふと窓の外を見やれば。なんとも妖しい雲ゆき。朝のうちあれほど美しい鱗模様を描いていた雲が今は、重灰色一色になり隙間なく空を覆っている。しばらく眺めていても、びくりともしない。私は再び作業に戻ることをやめ、何ともなしに玄関を出る。
最近音を紡ぐ機会が多くなった。私の場合、それは写真と似ている。あるのは、ある瞬間瞬間に浮かんでくる光景を、撮るか紡ぐか、その違いだけだ。
それを何処まで高みに昇華させられ得るか。全ては自分に手にかかっている。
全て自分にかかっているということは、ある意味とても容易い。責任を全て自分で取り得るからだ。共同作業になるとそうはいかない。責任がそれぞれにかかってしまう。
数日前、そんな共同作業を放棄する人を見かけた。確かに、見切りをつけることも実力のうちのひとつだろう。でもそれならば、私は、最初から最後まで一人で負いたい。共同作業の上で放棄はしたくないとつくづく思う。見切りをつけた側はいいかもしれないが、つけられた側、遺された側はたまったものじゃないことを、もうこの歳になれば自分はいやというほど痛感している。
一抹の侘しさを感じつつ、自転車を漕げば。
あぁなんて空が低い。息苦しいほど。
あの並木からここまで銀杏の匂いまでもが満ち満ちてくる。
来年の展覧会が二つ決まった。一度目は三月で個展、二度目は六月で二人展だ。もうすでにテーマは決まっている。テーマが決まっていればあとはそこに集中するだけだ。今まさに別の場所での展覧会の真っ最中だけれども、同時進行で、ゆっくりと制作を進めていけたらいい。
作業の手を止めてふと窓の外を見やれば。なんとも妖しい雲ゆき。朝のうちあれほど美しい鱗模様を描いていた雲が今は、重灰色一色になり隙間なく空を覆っている。しばらく眺めていても、びくりともしない。私は再び作業に戻ることをやめ、何ともなしに玄関を出る。
最近音を紡ぐ機会が多くなった。私の場合、それは写真と似ている。あるのは、ある瞬間瞬間に浮かんでくる光景を、撮るか紡ぐか、その違いだけだ。
それを何処まで高みに昇華させられ得るか。全ては自分に手にかかっている。
全て自分にかかっているということは、ある意味とても容易い。責任を全て自分で取り得るからだ。共同作業になるとそうはいかない。責任がそれぞれにかかってしまう。
数日前、そんな共同作業を放棄する人を見かけた。確かに、見切りをつけることも実力のうちのひとつだろう。でもそれならば、私は、最初から最後まで一人で負いたい。共同作業の上で放棄はしたくないとつくづく思う。見切りをつけた側はいいかもしれないが、つけられた側、遺された側はたまったものじゃないことを、もうこの歳になれば自分はいやというほど痛感している。
一抹の侘しさを感じつつ、自転車を漕げば。
あぁなんて空が低い。息苦しいほど。
あの並木からここまで銀杏の匂いまでもが満ち満ちてくる。
2008年10月30日木曜日
■落ち葉は木の子供
娘が日記帳に書いてきた。
「さいきん、木とお話できるようになったんだ。それでね、落ち葉は木の子どもなんだって教えてもらったの。うれしかった。ずっと木とお話したかったんだ!」
木とお話できるなんて、なんて素敵なこと。
私もひととき、木との対話でどれほど心救われたことか。
そのことを、改めて思い出した。
私はいつも、幹に耳をつけて、目を閉じて、
木の鼓動に耳を澄ましていた。
そうやって、木と対話していた。
娘はどんなふうにして、木と対話しているのだろう。
どきどきする。
いまどきの子どもらしく、娘の日記には、絵文字というか顔文字がたくさん出てくる。
そのたび「ママ、これ、わかんない」と脇に書く。
(本当に私は顔文字というものを知らない・・・汗)
そして最後に、日記へ返事を書く。
半分、交換日記のようになっているけれども、それでいい。
まだ二日。始まったばかり。
これからどんな言葉が、声が、このノートから聞こえてくることになるのだろう。
私はそれが、楽しみで仕方がない。
「さいきん、木とお話できるようになったんだ。それでね、落ち葉は木の子どもなんだって教えてもらったの。うれしかった。ずっと木とお話したかったんだ!」
木とお話できるなんて、なんて素敵なこと。
私もひととき、木との対話でどれほど心救われたことか。
そのことを、改めて思い出した。
私はいつも、幹に耳をつけて、目を閉じて、
木の鼓動に耳を澄ましていた。
そうやって、木と対話していた。
娘はどんなふうにして、木と対話しているのだろう。
どきどきする。
いまどきの子どもらしく、娘の日記には、絵文字というか顔文字がたくさん出てくる。
そのたび「ママ、これ、わかんない」と脇に書く。
(本当に私は顔文字というものを知らない・・・汗)
そして最後に、日記へ返事を書く。
半分、交換日記のようになっているけれども、それでいい。
まだ二日。始まったばかり。
これからどんな言葉が、声が、このノートから聞こえてくることになるのだろう。
私はそれが、楽しみで仕方がない。
2007年7月12日木曜日
包帯クラブ The Bandage Club/天童荒太
「こっちも、と彼女が別の場所を指す。わたしたち家族が昔、サンドイッチを食べたテーブルの、パラソルの柄の部分にも、包帯が十センチほど巻かれていた…(中略) 大したことではなく、ほんのささいな包帯のひと巻きだった。 でもそれは、確かにこの場所、ここの風景が、傷を受けていた証のように思えたし、同時に、しっかり手当てをしてもらえた跡に見えた。 そうなんだ、ここにはやっぱり、わたしや、わたしの家族の血が流れていたんだ。 気づかないふりをしていたけど、わたしは傷を受けていた…大したことじゃないと思い込もうとしていたけど、奥深いところに刺さったトゲのように痛みを発していた。 でも、いまはその傷を認めてもらえた。あなたの傷なんだと言ってもらえた。そして、包帯が巻かれている。完全に治ったわけじゃないけど、少なくとも血は止めてもらえた。 その感じが、なんだかとてもほっとした。」
何気ない文章で書かれているが、この部分はこの作品を読む上で非常に大切なことのような気がしてならない。
目には見えない傷、不確かな傷、誰とも共有することができない傷が、一体どのくらいあるのだろう。生きていればどうやっても傷だらけになる。傷つくたびに泣いていたら、恐らく一歩も動けなくなる。でも。
もしこんなふうに、包帯を誰かが巻いてくれたなら。どんなにほっとするだろう。見ないふり、気づかないふり、知らないふりをして通り過ぎなければならなかった傷たちも、それで癒される。見ないふりをしなくてもすむ。
少年少女たちが営む思春期の一場面を、著者は実に鮮やかに描き出してくれる。
そして後半、こんなフレーズを見出すことができる。
「 甘いなりに多くの傷を受けながら、それでも生きることを引き受けるなら、自分のためでなく、それがだれかのためでもあるのなら、自分たちが最もしてほしくて、でも本当にあるのかずっと疑っていた、口にするのも恥ずかしい、例のアレが、そこには存在しているってことになるんじゃないだろうか。 」
これを、君はあなたは、物語の中で、どんなふうに読み、感じるのだろう。 これを書いている作者のことを考えてしまうと、ひねくれた私なぞは、どうしても、物分りの良すぎる大人の描いた物語じゃぁないか、などと嘯いてみたりしたくなる。
が。その実、私は物語が進むにつれ、涙をぼろぼろ零しながら読んでいたのだから、それこそ我が身を嘲笑うしか術がない。
そうだ。
物分りが良すぎようと、カッコつけすぎだろうとクサかろうと、キレイゴトだろうとたかが物語だろうと、そんなこたぁどうだっていいんだ。
じゃぁそんなあんたは君は私は、「例のアレ」を知っているのか、堂々と口にできちゃったりするような人間なのか、何より、「生きることをどうであろうといかなるときも引き受けているか」。
--------ただ、それに尽きるだろう。
何気ない文章で書かれているが、この部分はこの作品を読む上で非常に大切なことのような気がしてならない。
目には見えない傷、不確かな傷、誰とも共有することができない傷が、一体どのくらいあるのだろう。生きていればどうやっても傷だらけになる。傷つくたびに泣いていたら、恐らく一歩も動けなくなる。でも。
もしこんなふうに、包帯を誰かが巻いてくれたなら。どんなにほっとするだろう。見ないふり、気づかないふり、知らないふりをして通り過ぎなければならなかった傷たちも、それで癒される。見ないふりをしなくてもすむ。
少年少女たちが営む思春期の一場面を、著者は実に鮮やかに描き出してくれる。
そして後半、こんなフレーズを見出すことができる。
「 甘いなりに多くの傷を受けながら、それでも生きることを引き受けるなら、自分のためでなく、それがだれかのためでもあるのなら、自分たちが最もしてほしくて、でも本当にあるのかずっと疑っていた、口にするのも恥ずかしい、例のアレが、そこには存在しているってことになるんじゃないだろうか。 」
これを、君はあなたは、物語の中で、どんなふうに読み、感じるのだろう。 これを書いている作者のことを考えてしまうと、ひねくれた私なぞは、どうしても、物分りの良すぎる大人の描いた物語じゃぁないか、などと嘯いてみたりしたくなる。
が。その実、私は物語が進むにつれ、涙をぼろぼろ零しながら読んでいたのだから、それこそ我が身を嘲笑うしか術がない。
そうだ。
物分りが良すぎようと、カッコつけすぎだろうとクサかろうと、キレイゴトだろうとたかが物語だろうと、そんなこたぁどうだっていいんだ。
じゃぁそんなあんたは君は私は、「例のアレ」を知っているのか、堂々と口にできちゃったりするような人間なのか、何より、「生きることをどうであろうといかなるときも引き受けているか」。
--------ただ、それに尽きるだろう。
2007年7月11日水曜日
沈黙博物館/小川洋子
形見という代物を、一つでも持ってみると、それがどれほど重たく貴重な代物であるのか痛感する。私自身、形見というものを幾つか持っている。この本を読みながら、思わずそれらがしまってある場所に手を伸ばしたら、とても痛い目にあった。何が痛いのか。それは人それぞれかもしれないが、私の場合、そこで終わってしまった命の断面が、ありありとその代物に刻み込まれていて、そこに触れるのが痛いのだ。私の場合、恐らく、その形見というのが、病死や自然死のケースよりも自殺というケースが多いせいなのかもしれないが。ここで断たれてしまった命、その断面。飛び立った或いは墜落し飛び散った血飛沫が、なまなまと、ありありと、私の網膜に蘇ってくる。それが痛い。それでいながら、一方で、何処までも何処までも愛おしい。それは、かつて培った緒を形見という彼らが、まるで証のように顕しているから。
沈黙博物館は残酷だ。老婆が背負った仕事はあまりにも重い。何故なら、自らと緒を結ぶことが殆どなかった人間たちの生き様さえも記憶に留めなければならなかったのだから。それを紐解くという作業も、一体どれほどのものだったか。想像すると、思わず本を閉じたくなる。同時に、あぁこの「技師」というのは、この街に辿り着いた時点でもう、この世の人間ではなくなったのだな、と、私にはそう感じられた。 老婆を軸にしてその屋敷に集った者はみな、もうこの世とは離れてしまった人間たちに思えてならない。皆それぞれに背負った仕事。でもそれは、この世に存在しては恐らく為しえなかった仕事。
残念なのは、物語の後半だ。老婆の仕事を技師が受け継ぐ。その辺りのところが明確に描かれていないことで謎が謎を呼んでしまう。できるなら、ここできっかり、この場所が屋敷がそしてそこに集まらざるを得なかった登場人物たちが、なにゆえにここに行き着いたのか、私はそれが知りたかった。
後半の緩みは、作者の意図したものなのか。それを知る術は一読者の私にはないのだけれども、もしそれが意図したものであるのであれば。 それは、どちらにでも解釈できると同時に、そのどちらにも定義づけることができない、この世とあの世の狭間に沈黙博物館があるということか。
全ては、読み手に委ねられている。
沈黙博物館は残酷だ。老婆が背負った仕事はあまりにも重い。何故なら、自らと緒を結ぶことが殆どなかった人間たちの生き様さえも記憶に留めなければならなかったのだから。それを紐解くという作業も、一体どれほどのものだったか。想像すると、思わず本を閉じたくなる。同時に、あぁこの「技師」というのは、この街に辿り着いた時点でもう、この世の人間ではなくなったのだな、と、私にはそう感じられた。 老婆を軸にしてその屋敷に集った者はみな、もうこの世とは離れてしまった人間たちに思えてならない。皆それぞれに背負った仕事。でもそれは、この世に存在しては恐らく為しえなかった仕事。
残念なのは、物語の後半だ。老婆の仕事を技師が受け継ぐ。その辺りのところが明確に描かれていないことで謎が謎を呼んでしまう。できるなら、ここできっかり、この場所が屋敷がそしてそこに集まらざるを得なかった登場人物たちが、なにゆえにここに行き着いたのか、私はそれが知りたかった。
後半の緩みは、作者の意図したものなのか。それを知る術は一読者の私にはないのだけれども、もしそれが意図したものであるのであれば。 それは、どちらにでも解釈できると同時に、そのどちらにも定義づけることができない、この世とあの世の狭間に沈黙博物館があるということか。
全ては、読み手に委ねられている。
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