昨晩、ムスメを抱きしめてみた。
唐突に思いついた。
寝入ったばかりのムスメは、私が多少体重をかけようと、びくともしない。
ちょっと寂しくなった。
なので、名前を呼んでみた。
全然起きない。
もっと寂しくなった。
なので、無理矢理起こしてみた。
ぱっと目を開けた。
起きたかと思ったのに。
起きたわけじゃなかったらしい。目を一瞬開けただけで、そのまま寝ちゃった。
ちょっと笑った。
笑ってみたら、寂しいのがすとんと落ちていった。
一人じゃなかなか笑えないけど
誰かがいればぱっと笑えたりする。
意地を張ったり、大げさに振舞ってみたり、
いろいろあるけど、
できるなら等身大で、
寂しいなら寂しいといえる人間でありたい。
嬉しいなら嬉しいといえる人間でありたい。
そして笑える時は素直に
笑える人間でありたい。
ムスメよ、眠りの邪魔をしてごめんな。苦笑
ありがと。
2008年11月7日金曜日
■懐かしく切ない匂いが重なってゆく
父母の家から帰宅したばかりの娘の身体からは、もう遠い昔、嗅ぎ慣れた祖母を思い出させる匂いがする。
多分これは、今の父母の匂いなのだ。
もうそんな、歳になったのだ、父母も。
いや。
祖母は私が中学二年のときに死んでしまった。祖母はまだ七十に手の届かない歳だった。
もう父はその祖母の歳を越え、母もその歳に近づいている。
だから本当は、祖母よりも父母の方が年老いているといってもいい。
三十と少しから癌を患い続けた祖母よりも。
でもどう見ても、数少ない写真の中の祖母の顔と母の顔をどう重ね合わせてみても、母の方が若く見えてしまう。それはきっと私が母の年齢を軽く見ているからなんだろう。
生きているうちに親孝行を。
そんなことを常々思う。
しかし現実には、実家へと娘を行き来させるのが精一杯だったりする。
でも。
父も母ももう年老いた。
あと僅かしか時間は残されていないのだ。
そのことを、
日毎に色濃くなるこの匂いが、私に教える。
多分これは、今の父母の匂いなのだ。
もうそんな、歳になったのだ、父母も。
いや。
祖母は私が中学二年のときに死んでしまった。祖母はまだ七十に手の届かない歳だった。
もう父はその祖母の歳を越え、母もその歳に近づいている。
だから本当は、祖母よりも父母の方が年老いているといってもいい。
三十と少しから癌を患い続けた祖母よりも。
でもどう見ても、数少ない写真の中の祖母の顔と母の顔をどう重ね合わせてみても、母の方が若く見えてしまう。それはきっと私が母の年齢を軽く見ているからなんだろう。
生きているうちに親孝行を。
そんなことを常々思う。
しかし現実には、実家へと娘を行き来させるのが精一杯だったりする。
でも。
父も母ももう年老いた。
あと僅かしか時間は残されていないのだ。
そのことを、
日毎に色濃くなるこの匂いが、私に教える。
■笑顔にだってなれる
いつの間にか雨が降り出し、そして止んだ。朝、アスファルトがしっとりと濡れている。空はどんよりと重く暗い。そんな中であっても、娘は半袖でいってきますと飛び出してゆく。
熱い紅茶を入れて、机へ。昨日の出来事振り返る。
久しぶりに人に対して腹を立てた。情けなくもあった。この歳にもなって平然と約束を放棄し、その上自分の親に頼んでもう時間もとうに過ぎた後に断りの電話を掛けてくる。その神経が信じられなかった。
一晩たってではどうなったかといえば。
腹はもう立たない。でもどうでもいいとまでは言えない。苦々しい気持ちが紅茶と共に口の中に広がる。
こんな時。
私より娘の方がドライだ。約束を破るような人とは距離を置く。当たり前の選択を当たり前に選び取る。そして、必要があれば黙ってじっと見ている。
私はといえば、その選択に躊躇いを覚え、迷ってしまう。同時にそういう自分を持て余す。何とも弱い。
この頃特に思う。心の病気を抱えている人と付き合うのには、よほどの距離感を持たねば無理だなということ。もっと細かく言うと、もはや病気とはいえない程度の症状にまで回復しているのに何かあればすぐかつての病気に逃げ隠れしようとする人とは、距離を持たねばならないということ。冷酷なようだが、自分の生活を守るためには、それが必要なんだと、事ある毎に痛感させられる。
私の周りには心の病を抱えた人が結構いる。そういう人との付き合いは別に苦でもない。私自身まだ薬を飲むことが日常に必要だし、病院通いも必要な身分だ。共感できる部分はたくさんある。共有できる部分もたくさんある。
しかし、病気に逃げるか逃げないかは別だ。同じ病気を抱えていても、それは個人で全く違う。ベクトルが違う。
私はここに甘んじているつもりはない。いつか克服する、いつか全てを解放すると信じて止まない。たとえ生きている間にそれが叶わないとしても、それを諦めるつもりは露ほどもない。だから、そうじゃない人との交わりは、こちらが呑まれない程度にしないと、自分がしんどくなる。
ずるいかもしれないが、自分がしんどくなってまでのつきあいを、もうしたいとは思わない。
私は回復したい。だからそれを諦めない。足枷になる関係は断つ。
それだけのことだ。そう、それだけのこと。
そこに迷いを覚えてしまうのは、私の弱さだ。私は私と娘との生活を、その安定を何よりも望んでいるのだから。私がその関係で不安定になったら、この小舟はどうなる? そんなこと、誰にでも分かり得る。
ここまで書いてきて、それでもまだ、迷っている自分がいることを私は痛感している。でももう、昔のように、関係の緒をひたすら持ち続けることは、しないのだろう。悲しいかな、そんなことをしていたら、私は、私たちの舟は沈没してしまうから。
だから手放す。
まだカップに残る紅茶はすっかり冷えた。今日一日くらいこの苦々しい思いは口の中広がったままかもしれない。でも。
我が娘のようにさらりとかわせないまでも、えいやっと断つことくらいはできるだろう。私にだって。
そう。私はちっぽけな人間だ。ちっぽけだから必死に生きてる。じたばたもする。でも、諦めの悪さだけはとびっきりだ。私は生き続けたいのだから。
こんな天気の日は、つい俯きがちになる。だから、娘を真似て鏡の中まっすぐ前を向いてみる。さぁ背筋を伸ばしてしゃんとして。
ほらごらん、その気になれば、笑顔にだってなれるよ。
熱い紅茶を入れて、机へ。昨日の出来事振り返る。
久しぶりに人に対して腹を立てた。情けなくもあった。この歳にもなって平然と約束を放棄し、その上自分の親に頼んでもう時間もとうに過ぎた後に断りの電話を掛けてくる。その神経が信じられなかった。
一晩たってではどうなったかといえば。
腹はもう立たない。でもどうでもいいとまでは言えない。苦々しい気持ちが紅茶と共に口の中に広がる。
こんな時。
私より娘の方がドライだ。約束を破るような人とは距離を置く。当たり前の選択を当たり前に選び取る。そして、必要があれば黙ってじっと見ている。
私はといえば、その選択に躊躇いを覚え、迷ってしまう。同時にそういう自分を持て余す。何とも弱い。
この頃特に思う。心の病気を抱えている人と付き合うのには、よほどの距離感を持たねば無理だなということ。もっと細かく言うと、もはや病気とはいえない程度の症状にまで回復しているのに何かあればすぐかつての病気に逃げ隠れしようとする人とは、距離を持たねばならないということ。冷酷なようだが、自分の生活を守るためには、それが必要なんだと、事ある毎に痛感させられる。
私の周りには心の病を抱えた人が結構いる。そういう人との付き合いは別に苦でもない。私自身まだ薬を飲むことが日常に必要だし、病院通いも必要な身分だ。共感できる部分はたくさんある。共有できる部分もたくさんある。
しかし、病気に逃げるか逃げないかは別だ。同じ病気を抱えていても、それは個人で全く違う。ベクトルが違う。
私はここに甘んじているつもりはない。いつか克服する、いつか全てを解放すると信じて止まない。たとえ生きている間にそれが叶わないとしても、それを諦めるつもりは露ほどもない。だから、そうじゃない人との交わりは、こちらが呑まれない程度にしないと、自分がしんどくなる。
ずるいかもしれないが、自分がしんどくなってまでのつきあいを、もうしたいとは思わない。
私は回復したい。だからそれを諦めない。足枷になる関係は断つ。
それだけのことだ。そう、それだけのこと。
そこに迷いを覚えてしまうのは、私の弱さだ。私は私と娘との生活を、その安定を何よりも望んでいるのだから。私がその関係で不安定になったら、この小舟はどうなる? そんなこと、誰にでも分かり得る。
ここまで書いてきて、それでもまだ、迷っている自分がいることを私は痛感している。でももう、昔のように、関係の緒をひたすら持ち続けることは、しないのだろう。悲しいかな、そんなことをしていたら、私は、私たちの舟は沈没してしまうから。
だから手放す。
まだカップに残る紅茶はすっかり冷えた。今日一日くらいこの苦々しい思いは口の中広がったままかもしれない。でも。
我が娘のようにさらりとかわせないまでも、えいやっと断つことくらいはできるだろう。私にだって。
そう。私はちっぽけな人間だ。ちっぽけだから必死に生きてる。じたばたもする。でも、諦めの悪さだけはとびっきりだ。私は生き続けたいのだから。
こんな天気の日は、つい俯きがちになる。だから、娘を真似て鏡の中まっすぐ前を向いてみる。さぁ背筋を伸ばしてしゃんとして。
ほらごらん、その気になれば、笑顔にだってなれるよ。
2008年11月6日木曜日
■「大好き」
娘の日記帳の終わりには毎日、「ママ大すき!」という言葉が書いてある。
自分が彼女の年頃、ママ大好きと声に出して言えたかといえば、私は言えない子供だった。家族全体が、捩れた愛情に沈黙を続けるしかない、まだ我が家はそんな家だった。家族全体が捩れ軋んで、見えない悲鳴を上げ続けていた。
でも。
ちょうど彼女の歳から三十年を経て。私たちは彼女を挟んでそれぞれに今、捩れを解き始めている。
長い長い年月がそこには横たわっていて、ひとっ飛びにどうにかできるものでは、ない。けれど。
解ききれないと諦めてしまえば全てはそこで終わる。
だから多分、諦めないのだろう、私たちは。生きている限り。
大好き。
今、娘のように声を上げて両手を差し出してそんなことを言えるほど、私はまだ素直にはなれない。
でも、多分、愛しているよと、その後姿に向かって、呟くくらいは、できる。多分、きっと。
だからいつかきっと。
自分が彼女の年頃、ママ大好きと声に出して言えたかといえば、私は言えない子供だった。家族全体が、捩れた愛情に沈黙を続けるしかない、まだ我が家はそんな家だった。家族全体が捩れ軋んで、見えない悲鳴を上げ続けていた。
でも。
ちょうど彼女の歳から三十年を経て。私たちは彼女を挟んでそれぞれに今、捩れを解き始めている。
長い長い年月がそこには横たわっていて、ひとっ飛びにどうにかできるものでは、ない。けれど。
解ききれないと諦めてしまえば全てはそこで終わる。
だから多分、諦めないのだろう、私たちは。生きている限り。
大好き。
今、娘のように声を上げて両手を差し出してそんなことを言えるほど、私はまだ素直にはなれない。
でも、多分、愛しているよと、その後姿に向かって、呟くくらいは、できる。多分、きっと。
だからいつかきっと。
■今一度並木道を振り返り、
写真展を今催している喫茶店の、最寄の駅を南に降りると、それは見事な銀杏並木がまっすぐ南へ伸びている。時期が来れば毎年、すっぽりと黄金色に色づいて、並木道を歩くと、それを眺める私たちは一寸した異世界へ誘われる。けれど今年、その色づきが非常に遅い。まるで色づくことを樹たちが忘れてしまったかのように、いまだ青々とした葉を茂らせている。季節と季節の、見えない境界線が少しずつ、歪んでいっているようで、私は一抹の切なさを覚える。
会場で誰かしらと会い、作品を挟んで話をする。この時の幸福感を言葉で表すのは難しい。たとえそれが作品の批判であっても、それらはいずれすべて、私の次の制作の原動力となる。
今日も数人の人との出会いを得ることができた。この時間を私にくれたすべてのものに、感謝を。
今頃娘は学童に向かっている時間だろう。私は写真の前にこうしていながら、娘のその姿を想像する。今日は幼稚園の子供たちに紙芝居を見せに行く日でもあった。無事成功したのだろうか。終わりの挨拶もちゃんとできただろうか。今から彼女の報告を聞くのが楽しみでならない。
帰り道。もうすっかり黄昏れた空。今一度並木道を振り返る。濃紺色の影々は今何を想う。そうだ、近いうちにまた樹を抱きに行こう。そして耳をそっと寄せて、あの何ともいえない内奥から沸き立つ音を聴くんだ。
会場で誰かしらと会い、作品を挟んで話をする。この時の幸福感を言葉で表すのは難しい。たとえそれが作品の批判であっても、それらはいずれすべて、私の次の制作の原動力となる。
今日も数人の人との出会いを得ることができた。この時間を私にくれたすべてのものに、感謝を。
今頃娘は学童に向かっている時間だろう。私は写真の前にこうしていながら、娘のその姿を想像する。今日は幼稚園の子供たちに紙芝居を見せに行く日でもあった。無事成功したのだろうか。終わりの挨拶もちゃんとできただろうか。今から彼女の報告を聞くのが楽しみでならない。
帰り道。もうすっかり黄昏れた空。今一度並木道を振り返る。濃紺色の影々は今何を想う。そうだ、近いうちにまた樹を抱きに行こう。そして耳をそっと寄せて、あの何ともいえない内奥から沸き立つ音を聴くんだ。
2008年11月5日水曜日
■一瞬一瞬を丁寧に生きていれば
梨木香歩氏の作品に出会ったのは、「春になったら苺を摘みに」が最初だった。淡々としていながらも丁寧なエッセイで、その世界観に一挙に引き込まれた。以来、彼女の作品が出るたび、本屋に走る。
あれはいつだったろう。今年の夏のはずなのだが、もう遠い昔に思える。
徹夜明け、仕事に出かけた後、時間を見つけて映画館へ。
「西の魔女が死んだ」を友人と観た。
実に原作に忠実に仕上がっていて、原作者梨木香歩氏のファンである私にとっても心地いい作品だった。
その友人と、家でU2のライブビデオなぞを見ながらそうめんをすする。
そうめんって何故あんなに食後におなかが膨れ上がるのだろう。蕎麦は食べている最中に満腹感を感じられるから適度なところで食べ終えられるのだけれど。そうめんはつるつると勝手に胃に滑り落ちてきてしまうから困る。友人も同じだったらしく、食後、おなかが苦しい、おなかが苦しいと、二人して繰言してしまった。
一日一日の小さな変化を楽しみたいから先のことを知る必要は私にはないのよ。と言った台詞が先の作品の中、祖母の台詞として出てくる。
私は思わず深く頷いてしまう。
不安があると、つい、先のこと先のことを知りたがって駆け足になってしまう。
でも、そんな必要は本当はないのだ。おそらくは。
一瞬一瞬を丁寧に生きていれば、じき、おのずと答えは出るのだろうから。
あれはいつだったろう。今年の夏のはずなのだが、もう遠い昔に思える。
徹夜明け、仕事に出かけた後、時間を見つけて映画館へ。
「西の魔女が死んだ」を友人と観た。
実に原作に忠実に仕上がっていて、原作者梨木香歩氏のファンである私にとっても心地いい作品だった。
その友人と、家でU2のライブビデオなぞを見ながらそうめんをすする。
そうめんって何故あんなに食後におなかが膨れ上がるのだろう。蕎麦は食べている最中に満腹感を感じられるから適度なところで食べ終えられるのだけれど。そうめんはつるつると勝手に胃に滑り落ちてきてしまうから困る。友人も同じだったらしく、食後、おなかが苦しい、おなかが苦しいと、二人して繰言してしまった。
一日一日の小さな変化を楽しみたいから先のことを知る必要は私にはないのよ。と言った台詞が先の作品の中、祖母の台詞として出てくる。
私は思わず深く頷いてしまう。
不安があると、つい、先のこと先のことを知りたがって駆け足になってしまう。
でも、そんな必要は本当はないのだ。おそらくは。
一瞬一瞬を丁寧に生きていれば、じき、おのずと答えは出るのだろうから。
2008年11月4日火曜日
■あの坂をのぼりきれば
身を起こしたのは午前五時。布団から出ると身体がぶるりと震える。部屋に横たわる冷気を振り払うようにして私は勢いよく顔を洗う。今日は晴れるだろうか。まだ眠っている娘を気にしながら私は窓を半分開ける。
徐々に徐々に空が明るくなってゆく。ふと気付けば。明かりをつけていた部屋の方が暗くなるほどの眩しい光。そこらじゅうで弾け飛ぶ光の粒。私はベランダのプランターたちに駆け寄る。東から伸びてくる光の筋が、葉々を包み込む。近づいて見つめれば、葉の細毛が白く輝いている。
相変わらずの半袖姿で玄関を飛び出していった娘の後を追うように、私も家を出る。もういい加減通い慣れた、歩道のない道ばかりが通る町へ出掛ける。通い慣れているけれど、それでも私は混んだ電車の中で今日も猛烈な所在無さに襲われる。この電車の中の何処に自分の場所を据えていいのか分からず、時間が進むにつれ激しくなる動悸を抱えながらひたすら窓の外を見つめる。こんな時は鞄の中に常に入れている本さえ手にすることができない。そして、自分の居場所を今日も得ることができぬまま、私は押し出されるようにしてようやく電車を降りる。
用事を済ませた帰り道はひとつ手前の駅で降りて私は歩く。歩き出せば、こんな暖かな日は上着などすぐに要らなくなる。
細い川を渡る小さな橋の上でいっとき立ち止まる。さやさやと流れる水は小さな漣を描き、海へと続いてゆく。相変わらず塵がところどころに浮かんでいるけれど、それでも流れ続ける。光が乱反射し、私の目を射る。見上げれば真っ白な空。こんな町中ではもちろん、まっすぐな地平線など望むべくもない。
それでも私はこの町が好きだ。生まれ育ったこの町。ちょっと裏道に入れば猫の額ほどではあってもまだ空地の残る、人と人が適当な距離をもって存在し得るこの町が好きだ。
そういえば娘が日記に書いてきた。明日は近くの幼稚園に行って紙芝居をするの。上手に読めるように今日はいっぱい練習するんだ。
今頃娘は教室で、練習しているんだろうか。紙芝居は手作りだと言っていた。どんな紙芝居に仕上がっているのだろう。
こんな季節だというのに10分も歩き続ければ額に汗の粒。でも大丈夫、あの坂をのぼりきれば。自然、深呼吸をひとつ。そう、もう大丈夫。安心してくつろげる我が家はもうすぐだ。
徐々に徐々に空が明るくなってゆく。ふと気付けば。明かりをつけていた部屋の方が暗くなるほどの眩しい光。そこらじゅうで弾け飛ぶ光の粒。私はベランダのプランターたちに駆け寄る。東から伸びてくる光の筋が、葉々を包み込む。近づいて見つめれば、葉の細毛が白く輝いている。
相変わらずの半袖姿で玄関を飛び出していった娘の後を追うように、私も家を出る。もういい加減通い慣れた、歩道のない道ばかりが通る町へ出掛ける。通い慣れているけれど、それでも私は混んだ電車の中で今日も猛烈な所在無さに襲われる。この電車の中の何処に自分の場所を据えていいのか分からず、時間が進むにつれ激しくなる動悸を抱えながらひたすら窓の外を見つめる。こんな時は鞄の中に常に入れている本さえ手にすることができない。そして、自分の居場所を今日も得ることができぬまま、私は押し出されるようにしてようやく電車を降りる。
用事を済ませた帰り道はひとつ手前の駅で降りて私は歩く。歩き出せば、こんな暖かな日は上着などすぐに要らなくなる。
細い川を渡る小さな橋の上でいっとき立ち止まる。さやさやと流れる水は小さな漣を描き、海へと続いてゆく。相変わらず塵がところどころに浮かんでいるけれど、それでも流れ続ける。光が乱反射し、私の目を射る。見上げれば真っ白な空。こんな町中ではもちろん、まっすぐな地平線など望むべくもない。
それでも私はこの町が好きだ。生まれ育ったこの町。ちょっと裏道に入れば猫の額ほどではあってもまだ空地の残る、人と人が適当な距離をもって存在し得るこの町が好きだ。
そういえば娘が日記に書いてきた。明日は近くの幼稚園に行って紙芝居をするの。上手に読めるように今日はいっぱい練習するんだ。
今頃娘は教室で、練習しているんだろうか。紙芝居は手作りだと言っていた。どんな紙芝居に仕上がっているのだろう。
こんな季節だというのに10分も歩き続ければ額に汗の粒。でも大丈夫、あの坂をのぼりきれば。自然、深呼吸をひとつ。そう、もう大丈夫。安心してくつろげる我が家はもうすぐだ。
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