2005年2月17日木曜日

相手不在の恋愛~ 中沢けい著 「手のひらの桃 」を読む

 十代で書いた「海を感じる時」が群像新人文学賞を受賞して以来、マイペースで今も書き続けている作家の一人に、中沢けい氏がいる。どこにでも転がっている日常の、触覚や嗅覚に訴えてくる対象を掬い取り見事にそれを描き出す作家のひとりだと、 私は思っている。
 彼女の短編集のニ冊目で、もうかなり以前のものになるのだが「ひとりでいるよ一羽の鳥が」というものがあり、その中でもとりわけ短い作品で「手のひらの桃」がある。この作品が発表されたのは一九八ニ年の群像十二月号であるから、もうかれこれ十七年前になるのだが、この作品から感じる空寒い悪寒は、私たちが生活している今にもそのまま反映されている。
 数十頁という短いこの「手のひらの桃」という作品の中で、何より先に私の心をとらえたのは、主人公瑞枝の、中絶に対する意識であった。瑞枝は小説の終わりで元恋人であった泰との間に出来た子供を堕ろす。彼女は、妊娠したと気付いた時から、そうすることを決めていたのだった。ここで、ごく普通に考えたなら、妊娠するということ自体が特別なことであるはずだ。なのに、更にそれを中絶するなど、私たちにとってはまさに一大事で、軽々しく扱える事柄ではない。しかしながら彼女は、「最初から堕ろす」ことに決めているのである。そうすることに対して、彼女は、何の抵抗も、何の疑問も抱いていない。私はこの点に何より魅きつけられた。これは一体何故なのだろう。
 性行為に対し、彼女はこう感じている。「行為が終わってしまえば、それまで」、その後では「全てが汚らわしいものに見えてしまう」、と。「全てが汚らわしい」、そう、彼女には行為が終わった後では、その行為に付随し存在していたもの、行為を営む相手である泰も含めた全てのものが汚らわしく映ってしまうのである。そして、愛の行為の結晶であるはずの子供は、まさしくこの汚れの結晶となってしまったのである。そう考えると、彼女にとって子供を堕ろすということは、今まで泰ともってきた性行為によってついてしまった「汚れ」をおとすこと、清算することに他ならない。だからこそ、彼女は一寸もためらうことなく、中絶することを、ごく自然に、不思議にも決めることができるのである。
 ひるがえって、もしも彼女が、泰に対して愛情を感じていて、それゆえに性行為をもったのであったならば、それはどうだろうか。もしそうであったならば、性行為が終わった後でも彼女がそれを「汚らわしい」と感じることは決してなかったであろう。言うなれば、彼女にとって泰とは、恋した相手などではなく、単に彼女が持っていた性行為への興味や欲求を、うまい具合に満たしてくれただけの相手だったのだ。つまり、瑞枝の行為は恋愛感情と結びついた行為であるとはいえない。
 そうなると、私たちの考えている、相手との一体化を求めるための性行為というのは、彼女にとっては違ったものになってくる。彼女は行為それだけをとったなら、それを蜜のように甘いと感じている。それだけ彼女の肉体は、その行為に満足しているといえるだろう。しかし、その相手に彼女は恋愛感情をもってはいないのである。官能的にはいくら開放していても、心は完全に閉ざされているのだ。性行為において、相手との一体感を感じながら存在する私たちに対し、彼女は、決して溶け合うことのない相手と自分とを感じながら、存在しているのである。つまり、彼女にとっての性行為とは、精神と身体が互いに統合して相手と溶け合うというものとは全く別の、というよりもむしろ、相手によって、自分自身の存在を明確にするという類いの行為。「二人」ではなく、完全に一方の、自分自身の快楽に他ならないのだ。だから、泰に対して彼女がいくら「好き」を連発しても、それは彼女にとって、他人が向けてくる冷たい視線(いわゆる異端者に対してのそれ)から、自分を守るための「装い」、本来相手と一体化するためにもたれる性行為において、自己完結してしまっている自分の姿を隠すためのものでしかない。だからこそ、泰へ好きだと言ったことを思い出すと、それがそのまま、自分のずるさとして彼女自身に跳ね返ってくると感じたりするのだ。
 こんな彼女の背景には、彼女の少女期がある。他人から「感覚的ブス」と呼ばれ、周りに疎まれながら育つ彼女は、それゆえにひとり遊びを覚えてゆく。子供たちが、大勢集まってみな一緒に遊ぶということを覚える時期に、彼女はそうした体験をすることなく育っていってしまうのである。いつもみなの輪の外にいる彼女は、輪の中に入ることを望む。入るために、彼女はいつのまにか、自分の価値判断を捨て、他人のそれを持って生きていこうとする。しかし上手くその中に入ることはできない。そんな彼女の自閉的状態で生きる姿と、性行為において自己完結してしまっている姿とは、まさに向かい合っているのだ。
 こうして読んでくると、「手のひらの桃」、この題名が暗示していたものが、だんだんと浮かび上がってくる。たっぷりと甘い汁を含んで、齧りつくと汁がこぼれてしまう桃の実。泰と瑞枝に食べられてしまうその実。そして、その桃の果汁に濡れた泰の手が、瑞枝の中絶手術に必要な書類の端に、茶色い染みをつけてしまうのである。これはまさに、瑞枝と泰の性行為そのものといえるであろう。そして、そんな桃を、そういった(彼女の)自閉的状態を読むときに、私たちは、それが瑞枝だけに限られたものではないということを、決して見落としてはならない。現在(いま)生きている私たちの誰もが、この自閉的状態に陥る要素をもっており、今こうして瑞枝の状態を読んでいる間にも、些細なきっかけ一つで、読む側にいたはずの私たちが、読まれる側へとまわってしまう可能性、危険性は、充分にあるのである。つまり、私たちは、一つの恋愛においても、それを成就する、完全に相手と自分との一体感を持つということができないような状況へと陥っている、と、言えるのではないだろうか。

(※中沢けい「ひとりでいるよ一羽の鳥が」講談社文庫刊)