2008年11月30日日曜日

■冬風の歌が聴こえる

 昨日の夜、ホワイトクリスマスとアンバー・メイアンディナの苗が届く。接木して育てられたそれらの苗を、私は今朝、そっとそっと植え替える。春になったらどんな姿を見せてくれるだろう。いや、そもそも春までちゃんと無事に育てられるだろうか。少々不安。見上げれば空は澄んだ水色。白い陽光が空からしゃんしゃんと降り注いでくる。
 今日はどうしよう。本当は予定が入っていた。でもどうしても出掛けて人と会える気持ちになれない。そうしているうちに時間はどんどん過ぎてゆく。どうしようどうしよう。私はそれまで締め切っていたカーテンを思い切り開け、そして電話を掛けてみる。
 結局、約束は延期にしてもらい、今日は実家へ。近いうち母はインターフェロンの治療を受けるために入院する。その治療を受けると鬱に陥るらしい。そのことを母はとても気に病んでいた。そのことが私はひどく気がかりだった。
 実家のある町はとても静かだ。大通りから一本でも中に入ると車の音もすっと消える。人の足音や笑い声も消える。何もかもの音が消え去る。唯一聞こえるのは、各々の庭を走る風の音色。そんな具合だ。
 今日もそれは変わらなかった。しんしんと空気が落ちてゆく。それをひょいと拾い上げるかのように風が右から左へ走る。落ちてゆこうとしていた空気と走る風とがぶつかって、口笛のような音がついっと私の耳に届く。ああ、あの頃と同じだ。何も変わっていない。私はこの音をひとり、しゃがみこんで耳を澄まして聴いていたことがあったっけ。
 高台にある公園の樹木はみな紅葉しており、その中で二人の少女が遊んでいた。昔は私もああやって冬でも薄着で遊んでいたのだった。少女の影に自分を重ね合わせながら、私はしばし過ぎ去った時間の海を漂う。
 長い長い坂を降り、ようやく実家へ。昨日から実家へ遊びに来ていた娘が出迎えてくれる。

 母の不安がひしひしと伝わってくる。私も入院前は神経が張り詰めていた。できるなら入院なんてしたくない、逃げたい気持ちがあった。しかも今回の母の場合、自分の寿命に関係してくる入院だ。その張り詰め方は尋常じゃない。
 鬱症状に苦しむ間に読める本が欲しい。数日前母が私にそう言ってきた。だから私は三冊の本を本棚の奥から引っ張り出して、今日こうして持ってきたのだ。
「かんがえるカエルくん」「まだかんがえるカエルくん」「もっとかんがえるカエルくん」。いわむらかずお氏のカエルくんシリーズだ。趣味が全く異なる母と私とではもちろん読む本の類も異なる。だから、今回このカエルくんシリーズを持っていったとて、いらないと突き返されること覚悟で持参した。
 とりあえず一章だけ読んでもらえる?と頼む私に、母は本を開く。「これなら目が疲れてても読めるかも」。母がぽつんと言った。あぁよかった、本当によかった。私はほっとして言った。「じゃぁ入院中、とりあえずこの本持っていってみたらどうかな。読めるなら何かしら気がまぎれるかもしれないし」「そうね」。
 暗くならないうちに実家を後にし、娘と二人で帰宅。そこへ母からメールが届く。「本をありがとう。楽しみです」。短いメールだけれど。
 短いメールだけれど、私を喜ばせるにはもう十分すぎる長さだった。

 長い長い冬を越えて球根が花開かせるように、樹が緑芽吹かせるように、すれ違うばかりだった母とももしかしたら少し道が交叉するくらいには近づけたんだろうか。そうであることを、願いたい。
 機能不全家族なんて名称が、それでもいつか壊れてなくなっていくものなんだと、そんなことを信じさせてほしい。私は信じたい。

2008年11月29日土曜日

■素直に言えた「ありがとう」

 遅延のため混雑しつくしている電車に、何とか乗り込む。途中何度も逃げ出したくなるが、先の駅で親友が待っているという一事だけによりすがり、必死に目を閉じて我慢する。以前だったら間違いなく、私は電車から逃げ出していただろう。
 二人して写真展を見に行く約束。会場の喫茶店は馴染みの店。安心して座っていられる場所。そういえば、駅前の通りの銀杏がいい具合に色づいていた。きっともう来週くらいにはすっかり散り落ちてしまうだろう。その間を歩く人々はコートの襟を立てて。樹はみんな裸ん坊で。そうしてみんな冬支度。
 彼女はホットサンドとホットミルク、私はカレーとミルクティを頼む。その間に彼女は一点一点作品を見てくれる。こういうとき、本当にありがたいなぁと思う。見てくれる人がいるからこそ作品は作品として成り立つ。
 でも、行きの電車で疲れきってしまった私は、言葉が続かない。それに気づいたのか、彼女が、時間もあるし私の家の近くまで行こうか、と言ってくれる。それなら、と、別のルートを使って二人で横浜まで出ることにする。
 彼女は学生時代の通学路として、私は就職したての頃の一人暮らしをその沿線で過ごした。この駅はずいぶんきれいになっちゃったねぇ、あ、この駅はまだ古いままだね、などと会話しながら、気づけば二人ともうとうと。
 うとうとしながら、私はクリシュナムルティの言葉を思い出していた。

「自身にとっての光であることは、他のすべての人々の光であることだ。自身が光であれば、精神は課題や応答から自由になる。そのとき精神は全体的に目覚め、張りつめているからだ。この緊張にはなんの中心もなく、緊張している者もなく、したがってなんの境界もない。中心、つまり<私>がある限り、課題と応答がある。成熟したものであれ、未熟なものであれ、快楽的、あるいは悲しみに満ちたものであれ、必ず問いと応答がある。その中心はけっして自身にとっての光ではありえない。そんな光は思考がつくる人工的な光であり、多くの影がある。共感・慈悲は思考の影ではなく、光である。あなたのものでも他人のものでもない。」

「これらすべてに気づくことが、自己の活動の有様に目覚めることだ。この覚醒状態のなかには、中心も自己もない。自己同一化のために自己表現しようとする衝動は、混乱の結果であって、存在の無意味さを示している。意味を求めることは、分裂・断片化のはじまりだ。思考は人生に千の意味を与えることができる。事実与えている。めいめいが自分の意味を発明するが、それらは単に意見や確信にすぎないもので、どこまでいってもきりがない。生きることこそ、意味の全体なのだ。」

 (クリシュナムルティの日記より)

 彼女と別れるとき、素直にありがとうと言うことができた。そうさせてくれた彼女に私は深く感謝する。
 今夜はひとりで過ごす夜だ。娘は実家でじじばばと過ごしている。さて、何をして過ごそう。

2008年11月28日金曜日

■ルバーブのジャム作り(三)

 あれから数年、夏になるごとに彼女と文通した。私が高校を卒業して野尻湖に行くことがなくなっても、夏になるとルバーブの話を手紙でやりとりした。
 或る年、彼女からの手紙が先に届いた。「今年、故郷に帰ります。母の具合が悪いそうです。もう年老いた母を一人にしておくことはできません。あなたに会えなくなるのは寂しい。でも、ここのルバーブはあなたのものです。いつでも取りに来て、またジャムを作ってください」。
 以来私は、彼女とは会っていない。
 でも。
 私の手元には、彼女が残してくれたルバーブのジャムのレシピがある。ルバーブの茂みがある。日々開発が進んで、いつこの茂みもなくなってしまうか分からないけれども、今はまだ残っている。
 近いうち、娘を連れて私はあの場所へ行くだろう。娘に摘み方を教え、ジャムの作り方も教えるだろう。異国の友達に思いを馳せながら。
 コツは、短気を起こさないこと。ひたすらゆっくりじっくり煮つめること。筋だらけのルバーブだからこそ、ゆっくりじっくりが肝心なのだ。そしてルバーブの酸味を生かすなら、砂糖はひとつかみで十分。
 彼女が言っていたことを思い出す。「いいですか? これは我が家のレシピです。だから、あなたはどんどんアレンジして、自分の味を作ってください。それがあなたのレシピになります。ね?」。
 私が私のレシピを作ることができたら、それを娘に伝えることができるだろう。そして娘は娘で、新しいレシピを作るのかもしれない。そうやって、人から人へ、伝えられてゆく。甘酸っぱいルバーブのジャム。連綿と続く人の手の技と想い。

■あの雲の向こうには

 今朝は遅く起きようと思ったのに、いつもの通りに目が覚める。布団の中でしばらくごろごろしていたけれども、観念して起き上がる。とたんに冷気が私の体をくるむ。ぶるり。外はまだ雨が降っている。
 徐々に明けてゆく空。小雨になってゆく雨。
 昨日は変に重たい思いに囚われてしまっていた。そのせいで一日何となく苛々していた。こんなんじゃいけない、こんなんじゃいけない、と思えば思うほどに、その思いに雁字搦めになっていくようで、それが無性に腹立たしかった。
 喜怒哀楽のうちの怒の類の感情は、人のエネルギーをどんどん奪ってゆく。奪って奪って、その人のエネルギーが皆無になるまでも奪って、それでもって膨れ上がる。でも。
 今、余分に使えるエネルギーは、私にはない。私は私の生活をたてるので精一杯だ。だから、棚上げ。腹立たしいのも情けないのも全部、棚上げ。見えないところに。
 娘から、サンタ宛の手紙を受け取る。こっそり中身をみたのだが、数行の、これこれのプレゼントが欲しい、という文章の後に、「心のメモを五枚入れておきます」というのは一体何だろう。実際五枚の便箋が入っていた。しかしその便箋には一文字たりとも書かれていない。心のメモ…彼女はどんな心のメモをここに記したのだろう。すごく知りたい。でも聞けない。
 気づけば雨は上がり。雲はまだまだ空を覆い尽くしているけれども、それでもあの空の向こうは明るい陽光が溢れかえっているはずだ。それを信じて、私は今日も一日を過ごす。

2008年11月27日木曜日

■ルバーブのジャム作り(二)

 じきに、大鍋がぐつぐつぐつぐつ音を立て始めた。彼女は、大きな木べらでそれを丁寧にかき回してゆく。ゆっくりゆっくりかきまわす。
「ここでずるをしてはいけません。じっくりゆっくりルバーブがやわらかくなるのにつきあうのです」
 彼女はそう言って、ひたすらゆっくり、ゆっくり、鍋をかき回している。私はその様を眺めがなら、クッキーをまた一口齧る。
 どのくらい時間が経っただろうか。彼女が、さぁそろそろですよ、と言った。鍋を覗くと、繊維質に溢れたルバーブが、とろりんとやわらかくなっている。摘んだときの色味から少し沈んだ色になって、彼女の木べらのリズムに合わせて鍋の中を回っている。
「瓶をとってくださいな」
 そう言われて棚を見ると、ジャム入れにはちょうどいいだろう大きさの瓶がずらりと並んでいた。私はそれをひとつずつ彼女の手元に並べていく。
「さぁ、これでできあがりましたよ」
 彼女は実に丁寧に瓶の中にジャムをつめてゆく。きゅっと音が出るほどきつく蓋を閉め、さらに彼女は何か細工した。そのことを私は思い出せない。
「さっきぶつかってしまったお詫びです。おひとつどうぞ」
 彼女ができたてのルバーブのジャムを私に渡してくれた。
「あの。お願いがあるんですが」
「なんでしょう?」
「私、明後日の午後に帰らなければならないんですけど、明日、ルバーブを摘んでみたいんです。場所とか教えてもらえませんか?」
「おお、いいですねぇ、それでジャム作りしますか?」
「はい、家に帰ってぜひ。だからその、ルバーブが生えているところとか教えていただけると嬉しいんですが…」
「もちろん。じゃぁ明日、約束しましょう」
 翌日、私たちは待ち合わせ場所に二人とも早く着いた。そして、彼女の案内で茂みに入り込み、これがルバーブだというものをぽきぽき適当な長さに折っていった。あっという間に片腕に余るほどのルバーブを摘むことができた。きっとここは、彼女の秘密の場所だったんだろう。何故なら、昨日、この辺りのルバーブはだいぶ少なくなってきたと寂しげに話していたから。こんなに豊富にある場所は、間違いなく彼女の秘密の場所だったに違いない。
 そのままお礼を言って別れるつもりだった私を彼女は引きとめ、お茶に誘ってくれた。彼女の家に行くと、今度はミントティとルバーブのクッキーが用意されていた。
 私が一口ずつ大事にクッキーを齧っていると、彼女は昨日書いておいたんだというレシピのメモを私に渡してくれた。それからしばらく、私は彼女の故郷の話を聞きながら過ごした。気づいたら夕日が西の地平線に落ちてしまっていた。
「ありがとう。家に帰ったら早速作ってみます」
「あなたはまたここに来るのかしら?」
「はい、来年もこの時期にくると思います」
「来年…。もしそのとき私がここにいたら、ぜひまた一緒にルバーブを摘みましょう」
「はい!」
 彼女はにっこり笑って右手を差し出した。私も右手を差し出し、ぎゅっと握り合った。思ってもみなかった出会いを、ルバーブは呼んでくれたのだった。

2008年11月26日水曜日

■ルバーブのジャム作り(一)

 高校の頃、毎夏お遊びセミナーで野尻湖へ行った。お遊びセミナーだから、何をやってもたいていのことは許される。私は一人、野尻湖の周囲を散歩したり、野尻湖で泳いだりして時間を過ごすのが好きだった。
 二度目の夏のことだったと思う。私が野尻湖の周囲をてくてく歩いていたら、前方の茂みが揺れている。何だろう、どきどきしながら近づくとほぼ同時に、人が飛び出してきた。私たちは勢いよくぶつかった。
「おお、ごめんなさいね」
 彼女は外国人で、この近所の別荘に住んでいるのだという。彼女の腕には沢山のフキのようなものが束ねられていて、私はその行方が気になった。彼女の誘いに乗って、一緒に彼女の家にお邪魔することにした。
「それは何ですか?」
「あら、知らないですか?」
「はい」
「ルバーブといいます」
「ルバーブ…」
「これからルバーブのジャムを作ります。よかったら見ていきませんか?」
 ルバーブという茎の筋を彼女は丁寧にとってゆく。取り終えると五センチ程度の長さにざくざく切り、大鍋に入れてゆく。そして次に砂糖。ひとつかみの砂糖を鍋に入れると、彼女はとろ火で鍋を温め始めた。
「これでしばらく置いておきます。その間にお茶にしましょう」
 彼女が用意してくれたのはカモミールティとルバーブジャム入りのクッキー。当時の私にとっては初めてのものばかり。恐る恐る手を伸ばす。お茶を口に含むと、ほんのりした香りが口の中に広がった。そしてクッキーを齧ると、甘酸っぱい味が飛び込んできた。
「おお、少しずつ少しずつ食べてくださいね。すっぱいでしょう?」
 彼女は私のびっくりした顔を見て笑いながらそう言った。でもそのすっぱさは、決していやなすっぱさではなく、懐かしさを誘うすっぱさだった。
「私の故郷はイギリスです。私の故郷にはルバーブは沢山ありました。だからみんな、季節になるとルバーブを摘んでジャムを作るのです。何処の家にもそれぞれにレシピがあって、受け継がれてゆくのです。我が家のジャムは、お砂糖をできるだけ少なめにしてルバーブの酸味を生かしたレシピなんですよ」
 彼女は流暢な日本語でそう説明してくれた。

2008年11月25日火曜日

■祖母の思い出(三)

 祖母の葬式には、何百人という人があちこちからやって来た。私たちの知らない人も数多くいた。私と同じくらいの年の子も何人かいた。祖母の友達とは思えない、でも、じゃぁ誰なのだろう。私はあまりに不思議に思って、どういうつながりですか、と恐る恐る尋ねてみた。すると、三人の男子学生は、恥ずかしそうに、こう言った。「KYさんの俳句のファンで、それと、おはぎのファンで…」。そのときの私の気持ちを一体どんな言葉で言い表したらいいのだろう。あぁ、と思った。あぁおばあちゃん、と思った。

 今、娘を育てる立場になって、私は、何度かおはぎにトライしたことがある。でも、とてもじゃないが、おばあちゃんの作ってくれたおはぎは、作れない。そして、お店から買ってくるおはぎも、これもまた、私にとってのおはぎじゃない。もう、私のおばあちゃんのおはぎは、この世には、ない。
 ねぇ、おばあちゃん。おばあちゃんは確かに、短い人生だったかもしれないけど、でも、でもね、たくさんの人がおばあちゃんを覚えていてくれたんだよ。おばあちゃんは世間的に言えば一般人の代表みたいな人だったけど、でもね、おばあちゃん、おばあちゃんの生き様をちゃんと見ていた人たちがこんなにもいたんだよ。そしておばあちゃんにしかできないことが、こんなにもいっぱいあったんだよ。ねぇ、聞いてる?
 別に大義を成し遂げる必要なんてない。一つ一つ大切にして生きていればそれは必ず結果を残すのだということを、祖母は私に黙って教えてくれた。
 おばあちゃん。今どうしてる? 私は、私は今ここに在るよ。足掻いて足掻いて、倒れて怪我したりしながらも、それでも何とか生きてるよ。ねえ、これで、いいんだよね?

■散歩する母娘の姿に心が晴れる

 朝、何とも嫌な気分が抜けない。これではいけないと自転車に乗る。大通りを渡り線路を越えるとぱっと景色が明るくなる。どうしたんだろうと周りを見れば、これまで茂っていた銀杏の黄色い葉が、昨日の雨で半分以上散り落ちたせいだった。空が抜けるように広がり、足元は黄色い絨毯。そして。
 散歩している母娘の姿。その小さな娘さんが、散り落ちた銀杏の葉の中でも大きなものを一生懸命選びながら拾っている。よほどそれが嬉しいらしい。一枚拾うごとに母親ににっこり笑ってみせる。その姿が何ともいとおしく、それまで重たく私の心を覆っていた何かがすっと消える。
 誰かを怒る気持ち、誰かを恨んだり憎んだりする気持ちは、自分自身をひどく疲れさせる。そういう気持ちに囚われると、つい執着してそのことばかり考えずにはいられなくなる。よろしくない。喜怒哀楽の中でも怒は本当に、エネルギーを必要とする感情なのだなと痛感せずにはいられない。
 当分この件は棚上げにしておこうと肝に銘じる。エネルギーを浪費できるほど、まだ自分は回復していない。

 それにしてもいい天気だ。早朝空に波打っていた厚い雲は今はもうない。プランターの手入れでもしようか。

2008年11月24日月曜日

■祖母の思い出(二)

 一度か二度、私は祖母に頼んだことがある。ねぇおばあちゃん、一番最初に私におはぎを食べさせてよ、と。でも、祖母はからからと笑って、それはできないねぇと言うのだった。なんでと尋ねると、こういうものはね、みんなで食べるからいいんだよ。祖母はそう言った。小さい私には、それがまだ、よく分からなかった。
 今でこそ思う。本当は祖母は、おはぎに限らず、できるなら世界中の人と一緒においしくごはんを食べたかったんだな、と。生きられる時間が限られているからこそ願ったことは、生きているうちにたくさんの人と接し、たくさんの人の中に自分の思い出を残しておきたい、そういうことだったんじゃなかろうか。
 祖母は死ぬ前に繰り返し言っていた。どうせあなたは私を忘れてしまうんだろうね、私のことなんて忘れてしまうんだろうね。だから私は言い返す。忘れるわけないじゃない。私はおばあちゃんのこと絶対覚えてるよ。そうすると祖母は泣きながら言うのだった。私のきれいだったときのことを覚えててね。こんなぼろぼろになって骸骨みたいになった私のことは忘れて、私が元気だったときのことをちゃんと覚えててね。お願いよ。
 もっともっとたくさんのことをしたかった。もっともっとたくさんの人と出会いたかった。もっともっとたくさんの…。祖母はうわごとのようにそう繰り返した。まだ十四、五だった私は、神様を恨んだ。どうしてこんなに願ってる祖母を死なそうとするのか。若い頃から全身を切り刻まれ、それでも生きようと踏ん張っている祖母の命を奪うのはどうしてなのか。恨んで恨んで、果ては憎んだ。
 そうして二月の終わり、とてもとても寒い日に、祖母は死んだ。あれほど生きたいと足掻き願った人が、そうしてこの世を去った。

2008年11月23日日曜日

■祖母の思い出(一)

 私の祖母は、私が中学二年の時に亡くなった。三十二歳から身体のあちこちに癌ができ、そのたび闘ってきた祖母だったが、最後は全身に転移して、もうどうにもならなかった。
 そんな祖母だから、今思うと、生き急いでいたのだと思う。退院してくるととにかくあちこちに出掛けた。私の人生はどうせ短いのだから、今のうちに楽しんでおかなくちゃ、と言いながら、あれやこれやにトライした。
 そんな祖母との思い出の中でも、私は、おはぎを覚えている。祖母のおはぎは、真ん中にあんこ玉、外側もあんこで包まれている、という具合で、あんこの二重奏になっていた。あんこ好きの私にはたまらない一品で、祖母がおはぎを作ってくれると聴くともうわくわくしながら食べるそのときを待っていたものだった。
 しかし。祖母は、山ほどのおはぎを作り上げると、それを大きなお盆に乗せて、近所に配りに行ってしまう。私たちの分を予め取り分けておいてくれるわけではない。だから私は慌てて祖母の後を追う。でももうその頃には、祖母の掛け声を聞いて集まってきた近所の人たちが山のように祖母を取り囲んでおり、私はもはや祖母に、おはぎに、近づけない状態であった。
 おばあちゃん、おばあちゃーん。あぁどうしたの。おはぎ食べたい。あんたは一番最後。みんなに配ってからね。いつもそうだった。祖母はそう言ってすたすたと歩いていってしまう。そしてまた、或る程度歩くと、「おはぎできましたよぉ」と大きな声で近所の人に声をかけるのだった。
 みんなおいしそうにはぐはぐおはぎを食べている。おばあちゃんはえらい人だねぇ、こうやってみんなにおはぎを配ってくれるんだから。と、誰かが私に声をかける。おばあちゃんのおかげでおいしいおはぎがいつも食べられるよ、ありがとなぁ。と、誰かが私に声をかける。私はもう誇らしいやら恥ずかしいやらで何も言えなくなって、黙って祖母の後をついて歩くだけだった。
 「あぁ今日もすっかりなくなった」。祖母はそう言ってにっと笑う。おぼんにはもう、一つか二つきりしかおはぎは残っていない。全く残っていないこともあったっけ。二つあるときはひとつずつ、一つしかないときは半分つ、祖母とおはぎを分け合って、食べながら帰り道を歩いた。

2008年11月22日土曜日

■裏山(続)

 そんな裏山も、開発の波をよけては通れなかった。私が小学六年生になる頃、突然、トラックが何台も裏山に沿って並んだ。そして、裏山を飾っていた蔓草や木々を、どんどんどんどん刈り倒していった。それはもう、あっという間の出来事だった。
 私のあけびの木はどうなったのだろう。私のぶどうはどうなったのだろう。あの野鳥の巣はどうなってしまったのだろう。あそこに張ってあった見事な蜘蛛の巣はどうなっただろう。私はトラックに乗ってきた人たちが出すがなりたてるような音に耳をふさぎながら、ぐるぐるぐるぐる考えた。でも、考えてもそれらは、音にかき消され、私の胸にちくちくと刺さった。
 何日もしないうちに、裏山は丸裸になった。私の居場所だったあの樹も、そこにはもうなかった。あぁもう、私がひとりきりで安心して過ごせる場所はなくなったのだと、あの時知った。木の葉々や枝々のこすれる音が奏でる音楽も、風が通り抜ける時に聞こえる口笛のような音も、みんな死んだ。空はもう秘密の空ではなく、ただのあけっぴろげの、からっぽの空になってしまっていた。みんな、死んだのだ。

 あれから約二十五年、実家に帰った折に、時々裏山のあった場所へ行ってみる。今そこには太い道路が通り、両脇もきれいに整えられ、宅地に変わろうとしている。あと数年もすればここも町のひとつになるのだろう。裏山があそこにあったことなど、もう誰も覚えていることはないのかもしれない。
 でも。
 私は覚えている。ひとりきりで過ごす時間がどれほど大切でいとおしいものであるのかを教えてくれた裏山のことを、私は決して忘れることはない。あの日口に含んだあけびの味も、指先を紫に染めながら食した野ぶどうの味も、そして何より、あの樹の枝の座り心地を、私は今もありありと覚えている。
 隣にいる娘が尋ねてくる。ママ、何を見てるの? うん、あそこにね、昔山があったの。山? あそこ平らだよ。うん、でも、ママがあなたくらいのときは、まだあそこは山だったの。ふぅん。そこでね、ママは楽しい時間を過ごしたんだ。
 今も胸に残る。あの心地よさ。今も耳に残る。山の奏でる音楽。今も。ありありと目に浮かぶ。あそこには、裏山があったんだ。

2008年11月21日金曜日

■裏山

 最後に通った小学校の裏には、小さな山があった。近所の人たちはみなそれを、裏山裏山と呼んでいた。人の手が殆ど入っていない、放置された域だった。
 そのせいだろうか、私はその山に分け入って一人で時間を過ごすことがとても好きだった。
 人影は何処にもない。いるのは野鳥や虫ばかり。道らしい道などないから、木々の枝々を手で抑えながら奥へと進む。途中、季節になると、あけびや柿の実、ぶどうの実などがあって、それらを適当に摘んで進む。そうしててっぺんに行くちょっと手前に、腰掛けるのにちょうどよい太さの枝があり、私はその枝を自分の場所にしていた。
 その枝に座って、ただ時間を過ごす。空想癖のあった私には、たまらない場所だった。枝に座って幹に寄りかかり上を見上げると、枝の間からちょうど空がぽっかりと丸く見えた。雲の流れる様もそこからなら色濃く手に取るように見て取れた。いくら時間があっても足りないくらいに、その場所は居心地がよかった。
 或る時はリコーダーを持って、或る時は日記帳を持って、私はひとりでそこへ通った。そして好きなだけリコーダーを吹き、好きなだけ日記帳にあれやこれやを書きとめ、私はひとり笑ったり悲しんだりしていた。私が、ひとりでいられる時間がこんなにも楽しいと知ったのは、この裏山でだった。(続)

■美しい朝焼け

 今朝もきれいな朝焼けだ。そして、目の前の大通りの並木はみな、枝をおろされ裸ん坊に変わっている。冬支度だ。これからしばしのおつきあい。そして春になればまた、彼らはそれぞれにそれぞれの枝をあちこちから伸ばしてくる。
 今日は娘の学校行事がある。音楽会だ。数日前から、きっと来てね、絶対来てねと娘は繰り返し言っている。もちろん行くつもりだ。今年は歌とリコーダーが担当らしい。
 写真のブログの方で、思わぬ写真に感想がつく。こんなことを言うのは変かもしれないが、こんな写真にこういう感想がつくとは、と意外な感が拭えない。自分が見る目と他人のそれとはこんなにも違うのかと改めて実感。それにしても、この年になって英語を勉強したいと思うようになるとは。私は英語が大の苦手、大がつくほど嫌いだ。しかし。写真を通して世界の様々な人たちと会話しようと思ったら、英語が必須になる。今、友人になった海外の女の子にあれこれ手ほどきをうけながら必死になって勉強している。我ながら滑稽な姿だと思う。でも同時に、ちょっと楽しい。
 音の活動の方でもいろいろな変化が出てきた。今、ちょうど、いろんなものが動く時期なのかもしれない。
 波に乗れるのかどうか。この勢いに自分が飲まれるのかどうなのか。そんなどきどきが、私の最近を覆っている。

2008年11月20日木曜日

■母が作ってくれた服(続)

「もうママの作った服、着たくない」
「なんで?」
「…」
「なんで? あなただけの服なのに」
「みんなにいじめられるからいやだ! もう絶対着ない!」
 私がそう叫ぶように言った時の母の顔を、私は一生忘れることはないだろう。悲しいとも辛いとも違う、堪らない言葉を浴びせられた、そういう表情だった。
 しまったと思った。母の気持ちは私なりに分かっているつもりだった。母はいつだって私の為にと作ってくれている。そのことを私は知っていた。知っていたのに。私は、それを拒絶したのだ。母を、拒絶したのだ。
 母は何も言わず、席を立った。その背中はとても小さく、これまで見慣れている母の背中とは全く違うものだった。
 次の日、私の洋服ダンスには、二着の買ってきたのだろう服がかけられていた。私はもうどうしていいのか分からなかった。一体私は何を着て学校に行けばいいのだろう。買った服、母の作った服、どちらも、もう自分は着ることができない気がした。学校なんてなければいいのに、と心底うらんだ。
 私は結局その日、どちらの服を着て学校へ行ったのか、果たして学校へ行けたのか、正直覚えていない。でも、気づけばそう、私の服は、買ったものばかりに変わっていった。私もやがてそれに慣れ、いつか、母の作った服のことを忘れるようになっていった。
 それが。
 私に娘ができ、母が孫娘にと持ってきた洋服を見て。私ははっとした。
 それらは全部、かつて私が着たあの服たちだった。
 母は何も言わない。私も何も言わない。そのことを私たちは今も何も、言葉交わしたことはない。
 娘は何も知らず、私の服を着て、今学校へ通っている。私のように服のことでいじめられたりすることもなく、楽しげに。むしろ、洋服に縫い付けられている名前が私の名前だと気づくと「わぁ、ママの服だ!」と喜んで、何度でも着るのだった。そんな時私は、何も返事ができない。
 母よ、親というのは切ないものだね。何処までも何処までも切ない。けれど、それdも愛する者のため、それを忍んで抱えて呑み込んで、生きてゆけるものなのだね。
 今改めて言うよ、心の中で。母さん、ありがとう。

2008年11月19日水曜日

■母が作ってくれた服

 かつて私の母は服飾デザイナーだった。家にはデザイン画や布、ボタンなどがいつでも山ほど積まれていた。
 そんな母は、子どもの私の服を全部自らデザインして作った。ワンピース、ズボン、スカート、シャツ、何もかも。だから私の洋服ダンスには、基本的に店から買ってきた洋服は存在しなかった。どれもこれも、母手作りの服だった。
 小学校時代、引越しを多く体験した私は、引っ越すたびいじめにあった。そして、何処に行っても最後につつかれるのが、母の服、だった。
「なんだそのダサい服」
「きもわるー」
「だっさーい」
「汚いからこっちに寄るな!近寄るなよ!」
「変な奴には変な服がよく似合うんだな」
 徹底的にこけにされた。果ては、私の服をひっぱり脱がせ、それを校庭の真ん中にわざと放る生徒もいた。
 最初は、母の作ってくれた服に悪口を言うな、と突っ張っていた私だったが、何処へ行っても同じ襲撃に遭うことに、だんだん疲れていった。やがて。
 やがて私は、母の手作りの服を着ているから自分はよりいじめられるのだ、と思い込むようになっていった。
 そして或る日。私は母に言った。
「もうママの作った服、着たくない」
(続く)

■紺色から珊瑚色へのグラデーションの朝

 紺色から珊瑚色へのグラデーションが、それはもう見事な朝。
 数日前から家の前の通りの街路樹たちの、枝伐採が始まっており、今見下ろすと、うちの前がちょうど今日からのようだ。明日にはこの枝葉たちとはお別れ。また春になるまでのしばしの別れ。来年会う子たちはどんなふうに伸びるのだろう。どんなふうに空を目指すのだろう。それを考えると、なんだか今からわくわくしてきてしまう。
 このところちゃんと写真を撮りに行っていない。そろそろ撮りに行かないと飢える。時間を見つけて体調のいいときに撮りに行こう。
 昨日は後期の写真展の展示替えを無事に終えた。これであとは、年末まで一気に駆け抜けるだけだ。

 それにしても今年もいろいろあった。厄年じゃないはずなのだが、いろいろあった。特に人間関係では苦労した。
 来年は、それが少しでもなくなるようにしたい。だから今は沈黙の時間。写真展で会う人と以外は極力独りでいるようにしている。エネルギーをためておかないと、この先駆け抜けてゆけないから。
 それにしてもいい天気だ。こんな日は、鼻歌でも歌いたくなる。

2008年11月18日火曜日

■みしらず柿(続)

 でも或る年。木箱は届かなかった。翌年も届かなかった。そして私たちは父母に尋ねた。今年も柿届かないんだね。
 あぁ、おじさん、去年亡くなったからね。
 父母は、そう言った。

 私たちは知らなかった。柿は毎年送られてくるもので、止むことはないと思い込んでいた。父が生きているのだから同い年のおじさんも生きていると勝手に思い込んでいた。けれど。おじさんは若くして癌に侵され、さっさと天国に旅立ってしまっていた。
 柿はもう二度と届かない。そう知らされてから、私たちは急に、その柿が食べたくなった。箱の下の方はとろん、上の方は少し硬い柿の実。種がひとつも入っていないその柿の実。
 ねぇ、あれ、何ていうんだっけ。
 何?
 あの種がない柿のことをさ、何て言うんだっけ。
 みしらず柿だよ。
 もう二度と食べること、ないのかもしれないね。
 多分、きっと。

 あれから二十年近くの時間が流れる。私も弟も、みしらず柿をいまだ食べることはない。
 命はいずれ消えるもの。どんなに元気にみえた人でも、ふいに消えてなくなってしまうもの。みしらず柿はおじさんの、命の証のひとつだったんだ。あぁ。
 おじさん、ねぇおじさん。聞こえていますか。あの柿はおじさんの柿だね。他の誰のものでもない、みしらず柿は私たちにとって、そう、おじさんの柿だったよ。ねぇ、おじさん。

2008年11月17日月曜日

■みしらず柿

 父の友人である松永のおじさんから、毎秋送られてくるものがあった。オレンジ色の柿が詰まった大きな木箱だ。箱は届いてから日陰で半月くらい置きっぱなしにされる。色づき始めた柿は、枝からもがれてこの木箱に詰められる時、日本酒を一升分くらいどぼどぼとかけられて来る。渋柿だった実は、その箱の中でお酒をいっぱいに吸い込んで、渋みを失う代わりに甘くやわらかくなっていく。暗いところに置きっぱなしにされるのは、渋柿がお酒を十分に吸い込むまで待つためだ。
 木箱にマジックペンで書かれた日付通り、二週間待って箱を開けると、台所中がぷうんと甘く発酵したお酒の香りで満たされる。箱の周りに新聞紙を敷いて、そこにやわらかく甘くなった柿の実をそおっと並べてゆく。とりあえず一度全部柿の実を外に出すためだ。実にかけた酒は下の方に溜まるから、下の方に詰められた柿の実の方がお酒を吸い込みやすい。つまり、下に並んだ柿の方が早く、果肉が橙色に透き通ってくる。指で強く掴んだりしたら潰れてしまいそうな、大事に手のひらで包んでやらなければいけないくらいにやわくなっている柿の実。でもこうなった時こそが、父やおじさんに言わせると、食べ頃なのだそうだ。そんな柿の実はナイフで皮を剥くことはできない。その代わりに、半透明の実のヘタの周りに果物ナイフで切れ込みを入れ、ヘタを取る。それでできた穴から、スプーンで実をすくって食べる。
 父はその食べ方を、さも得意げにやってみせる。他の家族はみな、ぎこちなく、途中で皮が破けてしまったりするのに、父の実の皮は最後まで破けることなく食べ終えられる。それは実においしそうな食べ方だった。
 毎年毎年送られてくる柿の箱。食べ終えるのにこれまた半月くらいかかるほどの量で、父以外の家族は、少々閉口していた。そんなふうに多少嫌われることがあっても、柿の箱は、毎年毎年送られてきた。それはずっと、送られてくると私たち姉弟は思い込んでいた。

2008年11月16日日曜日

■ブランコとあの子(続)

 ブランコ乗りたいの? あの子が小さな声で聞いてきた。
 返事ができず、私がじっとしていると、あの子は座り込んでいた私の手を引っ張った。そして、私をブランコに再び座らせた。
 あの子は隣のブランコに座り、こうやるんだよ、とばかりにブランコを漕ぎ始めた。その時私がどうしたのか、正直覚えていない。あの子とブランコが描く線が美しくて、ただそれに見惚れていたような気がする。
 飛び降りる時に、下に飛び降りるんじゃなくて、前に飛び出すんだよ。あの子が言った。ブランコより前に飛び出すんだよ。見てて。そう言ってあの子はもう一度飛んだ。
 このあたりの、自分に関しての記憶が私にはない。あの子の描く放物線の美しさばかりが印象に残っている。でも多分、その間に、私は彼女からいろいろと教えられたのだ。次の記憶は、私がブランコから飛び出すところから始まっている。
 ほら、そこで飛ぶんだよ、前に飛ぶんだよ。あの子の声にしたがって、私は懸命に前に飛んだ。でも、また後ろからブランコが襲ってくるんじゃないかと思って私は身を小さく屈めた。
 大丈夫だよ、ブランコより遠くに飛んだんだから、ぶつからないよ。あの子が笑った。私も笑った。あたりはもう、確か、深く暗く闇が広がっており、でも、私たちの声はとてもとても、明るかった。
 それから。公園に行くと、あの子は私をブランコに誘ってくれるようになった。気づけばブランコは、私たちの場所になっていた。私たちはお互いに何を喋るわけでもなく、ただブランコを楽しんだ。ブランコから飛ぶ瞬間を共に味わった。着地するときの心地よさを共に味わった。それは永遠に続くかのように思えた。
 或る日、あの子がブランコに乗る前に、ぽつりと言った。今度引越しするんだ。何処にいくの? ここから遠い町。いつ? あさって。それだけ言葉を交わすと、私たちはただ黙ってブランコに乗った。いつにもなく長く長く、ブランコを漕いだ。そして、飛んだ。
 じゃぁね。またね。バイバイ。
 あの子はそれ以来、公園には来なかった。二つのブランコは、もう、一緒に揺れることはなかった。私もしばらく、ブランコには乗れなかった。
 千晶ちゃん。あの子の名前は千晶だった。一度も千晶ちゃんと呼んだことはなかったけれど、私はあの子の名前を今も覚えている。今頃どうしているのだろう。もしかしたら、もう子どもがいて、その子どもにブランコを教えているのかもしれない。そんな時あの子は私を思い出してくれるだろうか。私を思い出さないまでも、こんな日々があったことを思い出してくれるだろうか。
 千晶ちゃん。もう会うこともないだろう人だけれども、私の記憶の中に、ずっと生きている。ブランコの思い出の中に。

2008年11月15日土曜日

■ブランコとあの子

 小さい頃、私はブランコが怖かった。地に足のつかない場所に座り、それがゆらゆら揺れることが、たまらなく恐ろしかった。
 でも、友達はみな、楽しげに乗っている。上手い子は、ブランコがくるりんと一回転してしまいそうなくらいまで高く漕ぐ。それが、怖いと同時に私にとってたまらなく羨ましかった。
 だから或る時、誰もいなくなった夕暮れの公園で、私はブランコに座ってみた。あの子がやっていたように足で思い切り地を蹴って揺らしてみた。ぐわんぐわん。ブランコは前後に揺れる。ぐわんぐわん。そしてここであの子は飛び降りたんだ。体操選手のように見事に。ほら、えいっ。
 ゴチン。
 無事に飛び降りたと思った直後、私の後頭部は、後ろから戻ってきたブランコに直撃された。今思えば飛び降りた場所が悪すぎたのだと分かるが、その時は何故なのか分からなかった。目から火花が散った。ものすごい衝撃で私は舌を噛んだ。口の中にうっすら、血の味が広がった。
 突然涙がごうごうと零れた。たった一人の公園で、私は声も上げずにただ泣いた。痛いのと情けないのとで私はぐるぐる巻きになっていた。もういい、ブランコなんて乗れなくたっていい。そう思い、走って帰ろうとした時、ばしんっと目が合った。公園の入り口にあの子が立っていた。
 あの子は黙ってブランコと私に近づくと、隣のブランコを揺らし始めた。そして揺れがある程度の高みに達したとき、ぽーんと飛んだ。ゆるい放物線を描いて、彼女はきれいに着地した。私はその間、身動きひとつとることができなかった。

■ネガは楽譜、プリントは演奏

 銀鼠の雲が空一面を覆っている。
 どうしたことだろう、窓を開けても全く寒くない。ぬるい。この季節になんでこんなにぬるいのだろう。なんだか気持ちが悪い。
 昨夜は少し写真の整理をしていた。昔焼いた状態とは今気持ちが違っているものについては分けてみた。結構な量になる。
 「ネガは楽譜、プリントは演奏」と言ったのは誰だったか。その主の名前は忘れてしまったが、この言葉は決して脳裏から薄れることはない。
 いろいろな写真を見て回ったが、自分のような写真を作る人がいないことを、最近痛感する。つまり、写真の基本はネガに忠実に焼くことであって、私のようにネガとプリントとがまったく別物になることはない。写真界に生きる人たちから「写真の基礎に忠実に!」と再三言われた。しかし、私の気持ちが別の方向に動くのだから、もうこれは仕方がない。
 私はネガを版画の版のように用いる。ネガを用いて版を用いて、新たな像を印画紙に浮かび上がらせる。白く白く飛ばすときもあれば、黒く黒く焼きこむこともある。つまりそこで、いらない像を消し、いらない像を潰す。それだけのこと。
 必要なものだけしか印画紙の上には残らない。私はそれをよしとしている。それだけの話。
 独学で写真を始めたのは11年前のちょうどこの時期だった。最初はただ「焼く」、ただ「プリントする」ことしかしなかった。ネガの像が印画紙に忠実に浮かび上がることが面白かったからだ。
 でも今は違う。ネガの情報から、今の私に必要な部分だけを切り取って、それをプリントする。だからどうしても、「写真の基本」「写真の基礎」からは外れてゆく。
 昨日は疲れてそれ以上の作業ができなかった。今夜にでも作業しようか。現像液のあの独特の匂いが、私は結構好きだ。なんとなく、今ならまた新しい写真を作れそうな気がする。

 徐々に徐々に雲の向こうが明るくなってゆく。けれど雲はこれっぽっちの隙間もなく空を埋め尽くしている。こんな空を見上げると、私は窒息しそうになる。

2008年11月14日金曜日

■そう、本当に大好きなんだから

 窓を開けたまま日中を過ごす。薄手のシャツ二枚で十分過ごせるほどのあたたかさ。光があちこちで弾ける。風がやわらかく項を撫でて過ぎる。
 父母が年を重ねるごとに頑なになってゆく。私はそれを、少し離れて見つめている。些細なことで怒鳴り声の電話をかけてよこす父も母も、それでも私の父母であり、いずれは私が世話をすることになるのだろう。どうしたらこの人たちともっと近づけるのだろう。いや、もっと適切な距離でもってお互いにお互いの領分を侵略することなくつきあってゆけるのだろう。三十数年あの人たちの子どもをやっていても、正直、いまだに分からない。それでも、私は彼らを愛している。あの人たちがそれをいくら否定してこようとも。
 久しぶりに家でゆっくり過ごす。あれこれ片付けているうちに、ひょいと思わぬものが出てきた。その昔の娘との交換日記だ。
「おいしいおべんとうをつくってね。ままのことだいすきだよ」
「いじわるとかされたらママにすぐいうんだよ。ママがとんでいくからね」
「むんくのさけびのえっておもしろいね。へんなかおだよ、まま」
「きょうはママがねぼうしちゃってごめんね。こんどからきをつけるね」
 全部ひらがなだ。2006年8月から10月にかけての二ヶ月のものだった。すっかり忘れていた、彼女が一年生の夏に交換日記をやっていたことなんて。
 あの頃娘がとある被害にあって、いろいろ大変だったのだった。二人暮らしにようやく慣れたというのにやってきた災難だった。だから確か、交換日記を始めたのだった。
 日記帳の最後は、娘の絵で終わっている。娘と私とが手をつないで笑っている絵だ。この絵を最初に見たときの気持ちなど、私はもう、忘れてしまっていた。
 日記帳をそっと閉じ、パラフィン紙に包んで本棚にしまった。彼女が大きくなったら、もしかしたらプレゼントするかもしれないししないかもしれない。まだどちらか分からないけれども、捨ててしまうことはとてもできそうにない。
 そうやって片づけをしながら過ごした午後はあっという間に過ぎ。今、外はすっかり暮れ落ちている。娘もやがて学童から帰ってくるだろう。そうしたら。
 今日は、彼女に言われる前にちゅうをしながら言ってやろう。「ママ、あなたが大好き」。そう、本当に大好きなんだから。

■今、東雲色が地平線を染める

 昨日からのあたたかさがまだ残っている。午前五時。まだ外は暗い。
 暗い中、プランターの前に座る。窓から零れる部屋の明かりで、岩緑青色の若葉たちが浮き立つ。
 私は冬を越える植物が好きだ。春蒔きの一年草よりも、冬を越えるものたちの方がより人間に近い気がする。とてもよく似ている気がする。人間にとっての困難を冬に、喜びを春にたとえたら、樹たちの辛抱強さは見習うべきものがたくさんある。色も手触りも異なる一個一個の球根たち。ひとつとして同じ樹皮はない同じ枝ぶりもない樹たち。私たちのように悲しみや喜びを声に出して叫ぶでもなく、ただひっそりと立つこれらの生き物。
 彼らの奏でる音を、音楽にできたらどんな音色になるのだろう。いつも思う。
 まだ空は留紺色。でもじきにその紺色が僅かずつ薄らいでゆく。私はその予感を秘めたこの時間が好きだ。予感が膨らんで膨らんで、すぅっと息を吐き出し始める瞬間がたまらなく好きだ。それは深呼吸に似ている。
 思い出した。「深呼吸の必要」という本があった。黄色い表紙の本だ。その中には煌くような言葉たちが詰まっていた。久しぶりに読み返そうか。

 「きみが生まれたとき、きみはじぶんで決めて生まれたんじゃなかった。きみが生まれたときにはもう、きみの名も、きみの街も、きみの国も決まっていた。きみが女の子じゃなくて、男の子だということも決まっていた。」「きみが生まれるまえに、そういうことは何もかも決まってしまっていたのだ。きみがじぶんで決められることなんか、何ものこされていないみたいだった。」「ところが」「つまり、きみのことは、きみが決めなければならないのだった。きみのほかには、きみなんて人間はどこにもいない。きみは何が好きで、何がきらいか。きみは何をしないで、何をするのか。どんな人間になってゆくのか。そういうきみについてのことが、何もかも決まっているみたいにみえて、ほんとうは何一つきめられてもいなかったのだ。そうしてきみは、きみについてのぜんぶのことを自分で決めなくちゃならなくなっていったのだった。つまり、ほかの誰にも代わってもらえない一人の自分に、きみはなっていった。きみはほかの誰にもならなかった。好きだろうがきらいだろうが、きみという一人の人間にしかなれなかった。そうと知ったとき、そのときだったんだ。そのとき、きみはもう、一人の子どもじゃなくて、一人のおとなになってたんだ。」(「深呼吸の必要」長田弘)

 東の空が明けてきた。今、東雲色が地平線を染める。

2008年11月13日木曜日

■ろうそくを三本立てて

 三鷹の病院へ友人をお見舞いに。入院以来、何も食事がとれていないと聞いていたので、途中で何を買おうかと悩む。けれど結局、彼女の誕生日ケーキにも代わる小さなレアチーズケーキを買い、私は先を急ぐ。
 「元気そうでしょ」「うん、ちょっと目が虚ろだけど」「ははは」。私たちは飲み物をそれぞれ買って喫煙所へ。そして。
 「じゃーん」。私は家から持ってきたろうそく三本を彼女に見せる。「も、もしかして…!」「もしかしてだよーん。一日早いけど、お誕生日祝いしよう」「うわぁ!」。
 買ってきたレアチーズケーキを出して、そこに三本、ろうそくを立てる。ろうが落ちないように気をつけながら火をつけて、ハッピィバースディの歌を歌う。彼女が素直に喜んでくれるから、私もとても嬉しくなる。
 病院内でのこと、今の心持ちなどを話してくれる彼女。早く退院できるといい。待ってるからね、と、約束し、病棟を出る。
 その足で国立へ。初めてお会いするのに初めてという気がしない。あれやこれやお話しているうちに私がうつらうつらしてしまう。全く、初対面の人の前で何やってるんだ、と自分を叱咤してもその勢いは止まらず。まぶたが半分下りてきてしまう。
 そしてその方は心配してか、帰り道、わざわざ遠回りして私の最寄の駅まで送ってくださる。殊勝なお方だ。ありがとうございます。また後期の展覧会でお会いしましょうと言い交わしお別れする。
 用事を二つこなすことは、今の私にはちょっとしんどかったのかもしれない。自分では全く気づかなかったけれども。でも、今日二人に会えてよかった。まだ頑張れる、まだやれる、と上を向く元気が出てきた。二人に感謝。
 さぁあとは。娘が帰ってくるのを待つだけ。そしたら彼女の勉強につきあい、夕食。あぁ献立何も考えていなかった。何にしようか。スパゲティとサラダで誤魔化すか。

■太陽が笑ってるから

 窓から漏れてくる光で目が覚めた。今日は雲が切れている。東からのびてくる陽光に、私はひどくほっとする。そういえば久しぶりなんだ、朝に光と出会うのは。
 今日は三鷹の病院へお見舞いに、そしてその足で国立の会場まで行き約束の人と会う予定だ。私にとってはちょっと慌しい。
 三鷹に入院している彼女と出会ったのは何年前だったろう。もう十年近くになる。彼女が私の体験記を読んで、以来、足繁く通ってくれたのがきっかけだった。正直に言おう。私は最初彼女が苦手だった。何故そこまで慕ってくれるのか、全然理由が分からなかったからだ。その頃の私はまるではりねずみのように、警戒心の塊だったから。
 しかし。彼女を写真に撮ってみて分かった。彼女の中に大きな大きなまだ癒えない傷があり、その傷が私の体験と共鳴しているのだ、と。それが分かってから、急に私と彼女との距離は縮まった。そして今日に至る。いまや、私にとって彼女は、なくてはならない友になっている。
 もう一人は、今日初めてお会いする方。毎年写真展に足を運んでくださっている貴重な方だ。
 今日が晴れた日でよかった。微かに残っていた憂鬱さも、朝の風と光に溶けてなくなった。これで心置きなく二人に会える。
 起きてきた娘が言う。「ママ、顔が笑ってる」「そう?」「なんか面白いことあった?」「面白いことはないけど。太陽が笑ってるから」「そうなんだ」「そうなんだよ」「へへへ」「へへへ」。
 さぁ出掛ける準備。と、その前に娘のおにぎりだ。炊きたてのご飯にちりめんじゃこを混ぜてきゅっと握ろう。

2008年11月12日水曜日

■この憂鬱もいずれは消えてなくなるもの

 朝からのだるさが今ひとつ抜けきらない。とはいっても一日は回っていく。気づけば娘が学校から勢いよく帰宅する時間。
「ママ、今日、好きな人が帰るの待っててくれたんだよっ」
「へぇ、そんなこともあるんだ」
「荷物用意してたら一人になっちゃって、でもそしたら、廊下で好きな人が待っててくれたの」
「すごーい!」
「へっへっへー」
「よかったじゃん」
「うん! じゃぁ行ってくる!」
それだけ言い残し、彼女は学童へと飛び出して行った。
 その勢いにつられて、私は椅子から立ち上がる。とりあえず部屋の掃除をしてみよう。その次はプランターに水遣り。その次はお風呂場掃除。その次は。トイレ掃除がいいか。
 思いつくままとにかく片づけを為してみる。こういうときは余計なことを考えず一心不乱に動けるものを為すのがいい。
 そうしてひとつひとつ片付けてゆくうち。なんとなく背中が軽くなり、なんとなく肩が軽くなり。ようやくひとつ、深呼吸できるくらいになっていた。
 もし太陽が出ていたら、もう西に傾く時間。私はベランダに出て伸びをする。西の空も東の空も南の空も、みんな灰色一色。微かに雨も降っている。この雨はこのまま強くなるのだろうか。それとも止んでくれるのだろうか。明日は写真展の会場で人と会う約束がある。雨が止んでくれると助かるのだが。
 何度省みても思う。昨日はちょいと頑張りすぎた。でもそれなら、今日休んで明日また歩き出せばいい。それだけのこと。
 そしてこの憂鬱とも適当につきあえばいい。いずれは消えてなくなるだろうから。

 さて。夕飯は何にしよう。私は冷蔵庫を覗く。そうだな、けんちん汁でも作ろうか。ご飯はわかめと鮭の混ぜご飯にして。多分そうすれば彩りも明るくなるよね。

■叫ぶか叫ばないかは本人が決めればいい

 NHKの人から取材を受けたのが昨日。そのせいか、ひどく疲れて朝もまともに起きることができなかった。鏡の中の疲れた顔を見て、少し頑張りすぎたのかもしれないと反省する。
 聞かれたのは、だいたい性犯罪被害者の回復に必要なことについて。でも、根本的な考えがひとつ違っていた。それは、被害者の回復に被害に遭った事実を社会に向かって叫ぶことが必要かどうかという考え。取材側は、すでにアメリカで活躍なさっている大藪順子氏を取材しており、その考え方によると、叫ぶことが必要だという。社会に訴えることが必要なのだという。しかし。
 それはアメリカでの話だ、と私は強く感じる。アメリカと日本とでは社会状況があまりに違う。それを飛び越えて、一様に、叫ぶことが必要だと私は思えない。実際、私の周りには、叫ばないことを選択した人たちが何人もいる。
 では叫ばないでどうするのかといえば、そこから改めて社会との関わりを築き直すことが必要になる。それはひどく疲れる作業ではあるけれども、どのみちこの作業は、叫ぶ叫ばないを関係なくどちらの側にも必要な作業だ。被害を受けることによって一度瓦礫のように崩れた社会との関係性を再構築する。たとえば単純に家の外に出ること。習い事をするでも散歩するでも仕事をするんでも何でもいい。とにかく外に出てみること。そして外に出て誰かと話すこと。話さないなら話さないで何かを為すこと。そこで何かしらの関係が生まれる。それが絆になる。その細い細い絆をひとつひとつ増やしていって、社会との太いパイプを再びつなぎ直す。
 被害を受けたことのない人にとっては至極当然な、というより、当たり前に為していることだから、そういった人から見たら何を言っているんだといわれるかもしれないが、そのごくごく当然の自然のところ、人間性の基盤のところを破壊されてしまったら、そこから築き直すしかないのだ。
 築き直すために叫ぶことが必要か否か。それは、個人が決めればいい。一様に叫ぶことが必要だと訴えるのはおかしい。どちらを選んでもそれは、正しい選択だ。叫ばないことを弱いと、間違っているとみなすのはおかしい。
 そのことを懇々と訴えるのは、今の私には疲れる作業だった。今思えばそうだった。
 結局取材側は、そういう回復の過程もあるのですか、と半信半疑の様子で帰っていった。自分の力不足を少々嘆く結果に終わる。
 しかし。
 それでも思う。叫ぶか叫ばないかは被害に遭った本人が決めればいい。犯罪被害でも特に性犯罪被害に関しては私はそう思う。実際私は叫んだことによってさらに傷ついた。そういう現実を無視して欲しくない。

 どんよりと曇った空。今の私にとても似ている。今はそう、この疲れた心を休めることだけ考えよう。

2008年11月11日火曜日

■さぁ気分を切り替えて

 久しぶりに用事があってみなとの方へ。高架下をくぐるとまっすぐに海へとのびる銀杏並木の通りに出る。あぁここはだいぶ色づいている。黄金色とまではいかないけれども、ほぼ全体が黄色に輝いている。そこだけぽっと灯りがついたかのよう。そういえば銀杏の匂いはもうない。そういう季節なのか。
 家を出てくる前、二年前の日記帳をふと開いて読んでみた。いたるところに、自分を傷つけている記述が残っていた。そうか、二年前はまだまだ破壊的行為の真っ只中に私はいたのだな。たった二年、されど二年、そう、大きな二年だ。
 そして、樹は変わらずそこに在った。二年前も今も。もう少し自転車でまっすぐ走れば、右手にモミジフウの樹が。クリスマスの時期には娘を連れてその実を拾いに来よう。今年は幾つの実を拾い集めることができるだろう。
 用事を済ませた帰り道、ふと公園に立ち寄る。この公園には池がある。行ってみると、鳩が水辺でごろりと横になっているところだった。向こう岸に猫がいるというのに、呑気な光景だ。
 池は重たげな雲を映しているせいか、海松色と苔色を静かに混ぜたような色合いをしている。澄んだ水面には葉を落とした桜の枝々の姿がくっきりと映っている。ふみゃぁという声に驚いて振り返ると、半野良猫が餌欲しさに数匹集まって来ている。あぁ、ごめん、私はごはん持っていないのよ。声に出して言ってみるが、彼らには全然通じない。何も持っていない手をぱらぱらと振ってみせる。すると、がっかりしたような表情をして彼らは立ち去る。ここには猫おばさんが定期的に通ってきて餌を遣るから、多分、その人の友達とでも思ったのだろう。時計を見る。やっぱり。猫おばさんがそろそろやってくる時間だ。
 私は立ち上がり、自転車に乗り直す。それにしても今日は寒い。このまま冬に突入するのだろうか。それともあと一度くらい暖かさを戻す日があるのだろうか。
 そうだ。家に帰ったら、パン作りをしよう。明日の朝食は久々に手作りパンで。じゃぁ夕飯は? 確か昨日のスープの残りがあったはず。
 みゃぉ。猫の鳴き声に振り返る。でも、姿は見えない。多分つつじの藪の中に隠れているのだろう。おまえたちの待ち人はきっともうすぐやってくるよ。じゃぁね、ばいばい。
 私は心の中でそう言い、ペダルを漕ぎ始める。家まではあと約五分。さぁ気分を切り替えて。俯きがちなときほど視点を変えてみること。何事も視点を変えれば、新しい側面が見えてくる。

■こんな時はいつもよりいっそう強く

 天気予報は曇りのち雨。六時を過ぎても薄暗い。雲の向こうに陽光の気配はあまり感じられず。常緑樹の街路樹の枝々が、南東からの風にゆらゆらと揺れている。
 そういえば、今年もそろそろ街路樹の枝おろしの時期だ。毎年11月下旬にそれは行われる。その後はこんなふうに風に揺れる枝や葉の姿も見られなくなるのだと思い出したら、なんだか目が離せなくなった。風の気配。枝の描く妙線。葉の啼く音。
 いつもより早起きした娘が何かを思い出しながら指を折っている。何を数えてるのと尋ねると、昨日ちゅーした回数、と答えが返ってきた。で、何回ちゅーした? うんとね、五回かな。…五回もちゅーしてるのか、ちょっと多いね。多くないよ、全然、もっとちゅーしたいもん。なんでそんなにちゅーしたいの? わかんないけど、ママの顔見てるとちゅーしたくなる。…そうなんだ。ママはしたくならないの? うーん、ママは…ちゅーしなくてもちゅーしてるような気分だから。何それ? うーん、つまりさ、ママはいつでもあなたのことを考えているってことだよ。
 せっかくだからと今日は娘と一緒にプランターを覗く。毎日覗いている私にはそんなに変化があるように思えなくても、時々しか覗かない娘にとっては大きな変化がそこにある。うわぁママ、これは赤ちゃんの手だねぇ。ラナンキュラスだよ。これはひげ、うーん、違った、トゲだ。ムスカリだね。これ、あかんべぇしてるみたいだね。それねぇ今年初めて植えたイフェイオンだよ。なんかかっこわるいよ。確かにね、かっこ悪いね。べろべろべろーん。ははははは。
 朝のひとときはあっという間に過ぎる。その時娘が言った。
 ねぇママ。今年サンタさん、何人来てくれるの? え? サンタさんだよ。サンタさんって一人だよ。違うよ何人もいるんだよ。なんで? ゆかりちゃんが言ってた。おじいちゃんサンタ、おばあちゃんサンタ、パパサンタ、ママサンタ、おじちゃんサンタ、おばちゃんサンタ、でね、ゆかりちゃんのところは四人は少なくとも来てくれるらしいよ。…あらまぁ。いいなぁ、うちはママサンタ一人だけじゃん。うーん、本物サンタも来るよ。何処から? 空から。じゃぁうちには二人? うーん、そういうことになるねぇ。つまんない。…。もっとサンタさん来てくれればいいのに。そうだねぇ。パパサンタとかさぁ。…そうだねぇ。まぁうちは、ママがママパパサンタだからしょうがないのか。何だそれ。ふふーん。
 それだけ言うと、娘はさっと部屋の中に戻り漫画を読み始める。
 私は。
 私はベランダから身を乗り出し、街路樹たちをふわりと眺める。枝よ揺れろ、葉よ泳げ、こんな時はいつもよりいっそう強く。

2008年11月10日月曜日

■こうしている間にも時は流れて

 病院からの帰り道には花屋が何軒かある。その一軒にあの花があった。外国のとある国の国花。
 以前その花を写真にして店に飾っておいてもらった時、黒い肌の青年が教えてくれたのだ。これは僕の国の国花です。と。

 どうしてこの花がここに?
 いや、花屋さんに並んでいたの。一番最初に私の眼に飛び込んできたからその花を買って家で写真に撮ってみたのがこれなの。
 僕の国の国花が日本では花屋さんで売っているなんて…!

 それから彼は、この花にまつわる話をあれこれ私に聞かせてくれたのだった。それは私のまったく知らない話ばかりだった。
 その花が今また、花屋に置いてある。そういえばあの青年は今頃どうしているんだろう。日本が好きだからできるだけ日本で勉強を続けたいと言っていた。今もあの町に住んでいるのだろうか。
 昨日の薬が残っているせいか、足元も意識もふらふらしている。いつもならこの駅から家まで歩いて帰るのだが、今日は断念。バスで帰ることにする。
 同じバスに乗り合わせた障害児が、奇声を上げ続けている。周囲の人たちがちらちらとその児童を見やる。ちょうど私の前の席にその児童と母親とが座っているため、その視線は私にも突き刺さるように感じられる。
 こんな時。どうしようもなく申し訳なさを覚えるのだ。
 こんな妊娠の状態では、障害を持った子供が産まれる可能性は高いですよ。と、私はかつて言われたのだった。それでも、とごり押しして、無理をして、産んだのが今の娘だ。娘は幸いにしてひとつの障害も持っていなかった。それはこれっぽっちの幸運だった。
 そして今、私はまたどうしようもない申し訳なさ、罪悪感に駆られている。この子供の隣に座っているのは私だったのかもしれない。そう思うと、私は、自分はなんて幸せなのだろう、なんて幸運だったのだろうと思ってしまうのだ。健康な我が子に恵まれた、そのことに、心底安堵してしまうのだ。そんな自分が、悔しいくらいに情けない。でも、どうしようもない。これが現実。
 家に辿り着いて数時間、ただいまぁと玄関から大きな声が飛び込んでくる。娘だ。私にチューをしてにかっと笑うと、じゃぁ行って来ますと駆け足で今度は学童に出掛けてゆく。再びひとりになった私は、本棚を少し、片付けることにする。

 チッチッチッチ。ひとりきりの部屋に小さく時計の音が響く。こうしているうちにも時は刻々と過ぎてゆく。

 そしてもう黄昏。夕飯は何にしよう。シチューがいいか、鍋がいいか。どちらにしても、身体がぽくぽくしてくるような、あったかいものがいい。

■濃灰色の朝

 まだ雨の残る今朝。濃灰色の帳がこの町にすとんと下りている。今日が何日で何曜日であるかということをしばし放念していた私は、部屋の中うろうろと歩き回る。時間を遡り、飛び散った記憶のパーツを掻き集め、組み立て直す。そしてようやく納得する。今日は月曜日、病院の日。
 どうして記憶が飛んだんだったろう。それを改めて思い出し、私は苦々しい思いをかみ締める。

 親というのは、たいていが愛情過多なのではないだろうか。子の為に子の為にと先走り、自分なりの愛情を子に注ぐ。しかし、それが愛情であるうちはいい。愛情が束縛(過干渉)に変貌し、支配に変貌してゆく。しかし本人たちはそのことを決して受け入れることはない。むしろ、それを良しとしてしまうことさえある。しかしそれこそが、愛情という名のもとに行われる子に対する支配であるということ。たとえば親に監禁され、数年を過ごしたことのある者なら誰にでもそれが分かり得るだろう。
 そんな世界では、たとえば、こんなにも一所懸命やっているのに、こんなにもこちらは努力しているのに、愛しているのに、どうしてそれを分かろうとしないんだ。そんな台詞は日常茶飯事になる。やがてそれらさえ声に出されることはなく、無言の圧力、無言の支配に変わる。それでもそれらは常に「愛」のもとに為されていると彼ら権力者は胸を張って主張する。
 久しぶりに昨夜親からの圧力に晒されて、私は慌てた。自分が築いてきた足場ががらがらと崩れる音を聞いた。そして今朝。
 足場はぐらぐらと揺れてはいるけれど。それでも骨組み程度は、まだ、残っていることに気づいた。
 まだ、大丈夫。まだ、やれる。この足場はまだ、生きている。

 机に向かおうとして、気づく。私のキーボードの上に、小さなぬいぐるみが二つ、ちょこねんと座っている。あぁ、娘がやったのだ。娘お気に入りのカエルのぬいぐるみが二つ。並んで座っている。
 昨日私は不覚にも、娘の前で涙してしまったことを思い出す。その後頓服を飲んだのだった。多分娘は、私を気遣って、このぬいぐるみを私が一番に触れる場所に置いてくれたに違いない。
 ありがとう、娘よ。
 ねぇ娘、私はあなたにとって、どんな親なんだろう。私が親から強制されてきたような関係を、私はあなたに強制していやしないだろうか。私はいつもそのことに怯えているんだ。どうか、少しでも違う関係を、あなたと私が結べていますようにと、すがるように祈っているんだ。

 いつの間にか時計が六時半を指している。そろそろあなたも起きてくる頃。そうしたらいつものハグを。そして少しでも何かおしゃべりしよう。その前に私は、プランターの緑たちに水を遣るつもりだ。

 あぁ世界が、あの頃のように反転してしまいませんように。
 私が周囲からの支配に負けることなく、この地にすっくと立っていられますように。

2008年11月9日日曜日

■細い細い雨降る日

 天気予報では昨日から今年一番の冷え込みになるでしょうと繰り返していた。確かに寒い。雨もぱらぱらりと降り出した。けれど私は傘を持つのが面倒でそのままバス停へと走る。
 バスの終点にあたる町で降りる。その町は相変わらず賑わっており。人と人が次々交差する。私はその速度に追いついていっていないのか、そもそも合わせていけていないのか、つい誰かの鞄や肩にぶつかって立ち止まってしまう。歩けば歩くほど人と交差しなければいけない当然のことに、私は途方に暮れる。
 それでも何とか目的の文房具屋に辿り着く。そこで私はいつもの決まったノートを買う。いや、買おうとして財布を広げて気づいた。お金が足りない。
 もう、しゃがみこむくらいの脱力感。直後、思わず嗤ってしまった。何をしているんだろう、私は。次々こみ上げてくる嗤いをどうにか抑えながら、私はレジの列を外れ、ノートを元の位置に戻す。
 素直に帰ろう。こういう日は多分、とことんついてない。素直に家に帰ろう。こういう日はおとなしく家にいるに限る。

 雨は降り続いている。細い細い雨が。乗り直したバスの窓ガラスに雨の粒が線を描く。幾筋も幾筋もそれは描かれてゆく。向こう側がやがて、その筋に滲んでゆく。

 部屋に戻り、私は一番に煙草を取り出す。ベランダの縁に座り、火をつける。煙がひゅるひゅると灰色の空へと吸い込まれてゆく。それはまるであらかじめ決められた道筋であるかのように、ひゅるひゅる、ひゅるる、と。
 左手に並ぶプランター。私は心の中今日の顛末を球根の芽たちに話して聞かせる。芽たちは一様に、けらけらと笑っているかのように吹き付けてきた風に揺れる。確かにばかげてる。たった105円だけれども足りない財布を大事に持って、そのことに気づかずいそいそと出掛けた私の姿は、ちょっと笑える。出掛けたりせず、今日はこうやってゆっくりと、植物と話したり雨を眺めたりしておくんだった。焦って行為するとろくなことがない。その証拠。
 でも。
 ひとつだけ思いがけないことがあったよ。人ごみの中にあの子を見つけた。もう五年は経つだろう、彼女と縁遠くなってから。でも全然変わっていなかったよ。相変わらず町を闊歩していた。その背筋はぴんと伸びていて、どこから見てもそれはすっと立つ樹のようだったよ。
 縁遠くなった理由など、もう忘れた。ただ、私と彼女の道はいっとき交差し、やがて別れていくものだったというそれだけだ。
 ねぇ、私は、この五年でどんなふうに変わったろう。どんなふうに変わらずにいただろう。自分では自分のことが一番見えない。私はあなたたちの目にはどんなふうに映っているのだろう。

 呼び鈴がひとつ鳴る。あぁ娘が帰ってきた。いとしいいとしい我が娘が、年老いた父母の匂いをたっぷり纏って。さぁおかえり、娘よ。

■今、風が吹いた

 ひとり眠れない夜。気付けば明け方になっていた。といってもそれは時計の上だけ。窓の外はまだまだ夜闇の中。
 私は寝床を這い出して、ベランダに出る。そして三つのプランターのもとへ。
 じっと見つめる。空に手を伸ばす小さな手たち、若緑色の芽たちをただ見つめる。
 見つめていると、耳の内奥から声がしてくる。それは日本語ではなく、英語でもなく、多分世界のどの言語とも異なっている、声としか表しようのないもの。その声たちが、時に小さく細く、時に大きく太く、語りかけてくる。それはどこか、人の心臓の音に似ている。
 私はいつの間にか目を閉じて、その音に身を任す。
 今は。
 無理に笑顔になる必要はない。無理に大丈夫なふりをする必要もない。変に頑張る必要もない。肩に背中に腹に足に張り付いていた不要な力を、抜けるだけ抜いて、いい。それを咎める者など、今は何処にもいない。
 一粒、涙が出た。一粒、頬を伝って土の上に落ちた。
 ふと思い出して、中島みゆきの「肩に降る雨」を歌ってみた。
 そうしたらそれまで強張っていた体から力がすっと抜けて、私の周囲張り詰めていた糸という糸がすべてふっと解けて、ようやく、とくん、と、鼓動が聞こえた。
 その時、突然電話がなる。こんな朝早くに誰からかと慌てて電話機の表示板を見る。親しい友からだ。

 もしもし。
 もしもし。生きてるかい?
 あぁびっくりした、こんな時間に。どうしたの? 何かあった?
 いや、何にもないんだけど、何となく空見てたら、空にあんたの顔が浮かんだ
 あいやー、私の顔が?
 ん。何かあったろ?
 …
 何かあったな?
 大丈夫。今、大丈夫になった。
 …。
 うん、ちょっと落ち込んでたけど、今、大丈夫になった。
 そっか。ならOK。
 そっちは? 踏ん張ってる?
 足掻きまくりヨ。
 ははは、同じだ
 そうそう、同じよ、そんなもんさ

 恐らく時間にしたら、三分も話してはいない。けれど、彼女が伝えたいこと、私が伝えたいことの全ては、十分に伝わった。多分、きっと。
 電話を置いて、再びベランダに出れば。
 明るくなってはいるものの、一面雲に覆われた空。でも、この雲の向こうは太陽が燦々と輝いているはず。

 今、風が吹いた。さぁ今日も、一日が、始まる。

2008年11月8日土曜日

■静かな夜。樹はそこに在て、私もここに在る。

 「海辺をさまよいながらこの瞑想の流れに出会ってみたまえ。しかし出会っても追いかけてはならない。あなたが追いかけているのはすでに過去の思い出であって、それはもはや死物にすぎない。丘から丘にさまよい歩いて、あなたのまわりのすべてのものに、生の美しさと苦痛を語らせ、ついにあなたが自らの悲嘆に目覚め、終焉させるようにしてみたまえ。瞑想は根であり、花であり、そして果実である。植物の全体を果実、花、幹、そして根に分けてしまうのは言葉である。このような分離の中では行為はついに不毛に終わる。愛の行為とは全的な把握にほかならない。」(クリシュナムルティの瞑想録/ジッドゥ・クリシュナムルティ著)

 思春期の頃、思ったことがあった。言葉を知りたい。言葉を知り尽くしたい。私の心の奥の奥まで、正確に表現し尽くせるだけの言葉を知りたい。
 自分の思いなのに正確に表現できないことが悔しかった。表現しようとすればするほど何かが違うように思えて、そのことが私を余計に憤らせた。誰かと何かを話していて、その時に話したそばから自分の思う通りに伝わっていないことを知るほど、もどかしくて仕方なかった。私の思いを正確に伝えるためには、正確に残すためには、言葉が必要なのだ、言葉がなければ生きていけない、ありとあらゆる言葉を知って、それを使って私は私の内奥を表現し尽くしたい。そう思っていた。
 でも。そうやって何処までも何処までも言葉を追いかけて、知ったのは、言葉は所詮言葉でしかないということだった。そこに言葉が在る、存在する、というその時点で、そのモノの新鮮さは瞬時にして失われ、つまり私の中にそれまであった脈打つ音は消え去り、化石のような何者かが残されるだけなのだった。
 言葉ですべてを語り尽くすことは出来ない。言葉でいくら細部をこと細かく表現したとしても、私はその時点で、表現したかった筈の何者かの全体像を失ってしまっている。そのことに気づいたのは、ずいぶん歳を重ねてからだった。

 今娘の成長を間近で見つめていて、気づくことがある。それは、彼女の成長が次々に私に見せるその姿が、私を癒すというそのことだ。
 彼女が泣く。笑う。へこむ。喜ぶ。そういった姿をこうして一歩離れたところから見つめていると、彼女の姿のずっとむこう側に、何かの姿がふっと浮かぶことがある。すると私の中で何かがすっと流れ去ってゆく。そしてその後に残るのは、小さな小さな光る石、ただ一つ。
 その光もやがて消え、ただの石になったとき、私はその石を拾う。拾って、この掌の上で転がしたり握ったり。そして私はさよならをする。
 そういえばこんなこともあったね、あんなこともあったね、と。
 でももう大丈夫。私はあんなこともこんなことももう手離しても大丈夫。歩いていける。だから、さようなら。
 疵、というそれらが、こんなにもあたたかく見送ることができるものだとは、知らなかった。もっと痛くて辛いものだと思ってた。いや、そもそも、見送ることができる代物だなんて、これっぽっちも信じたことはなかった。
 でも。
 見送ることができるのだな。こんな私にも。

 静かな夜。樹はそこに在て、私もここに在る。

■なんとなく

昨晩、ムスメを抱きしめてみた。
唐突に思いついた。

寝入ったばかりのムスメは、私が多少体重をかけようと、びくともしない。

ちょっと寂しくなった。
なので、名前を呼んでみた。

全然起きない。

もっと寂しくなった。
なので、無理矢理起こしてみた。

ぱっと目を開けた。

起きたかと思ったのに。
起きたわけじゃなかったらしい。目を一瞬開けただけで、そのまま寝ちゃった。

ちょっと笑った。

笑ってみたら、寂しいのがすとんと落ちていった。

一人じゃなかなか笑えないけど
誰かがいればぱっと笑えたりする。

意地を張ったり、大げさに振舞ってみたり、
いろいろあるけど、

できるなら等身大で、
寂しいなら寂しいといえる人間でありたい。
嬉しいなら嬉しいといえる人間でありたい。
そして笑える時は素直に
笑える人間でありたい。




ムスメよ、眠りの邪魔をしてごめんな。苦笑
ありがと。

2008年11月7日金曜日

■懐かしく切ない匂いが重なってゆく

 父母の家から帰宅したばかりの娘の身体からは、もう遠い昔、嗅ぎ慣れた祖母を思い出させる匂いがする。
多分これは、今の父母の匂いなのだ。
もうそんな、歳になったのだ、父母も。
いや。
祖母は私が中学二年のときに死んでしまった。祖母はまだ七十に手の届かない歳だった。
もう父はその祖母の歳を越え、母もその歳に近づいている。
だから本当は、祖母よりも父母の方が年老いているといってもいい。
三十と少しから癌を患い続けた祖母よりも。

でもどう見ても、数少ない写真の中の祖母の顔と母の顔をどう重ね合わせてみても、母の方が若く見えてしまう。それはきっと私が母の年齢を軽く見ているからなんだろう。

生きているうちに親孝行を。

そんなことを常々思う。
しかし現実には、実家へと娘を行き来させるのが精一杯だったりする。
でも。

父も母ももう年老いた。
あと僅かしか時間は残されていないのだ。
そのことを、
日毎に色濃くなるこの匂いが、私に教える。

■笑顔にだってなれる

 いつの間にか雨が降り出し、そして止んだ。朝、アスファルトがしっとりと濡れている。空はどんよりと重く暗い。そんな中であっても、娘は半袖でいってきますと飛び出してゆく。

 熱い紅茶を入れて、机へ。昨日の出来事振り返る。
 久しぶりに人に対して腹を立てた。情けなくもあった。この歳にもなって平然と約束を放棄し、その上自分の親に頼んでもう時間もとうに過ぎた後に断りの電話を掛けてくる。その神経が信じられなかった。
 一晩たってではどうなったかといえば。
 腹はもう立たない。でもどうでもいいとまでは言えない。苦々しい気持ちが紅茶と共に口の中に広がる。
 こんな時。
 私より娘の方がドライだ。約束を破るような人とは距離を置く。当たり前の選択を当たり前に選び取る。そして、必要があれば黙ってじっと見ている。
 私はといえば、その選択に躊躇いを覚え、迷ってしまう。同時にそういう自分を持て余す。何とも弱い。

 この頃特に思う。心の病気を抱えている人と付き合うのには、よほどの距離感を持たねば無理だなということ。もっと細かく言うと、もはや病気とはいえない程度の症状にまで回復しているのに何かあればすぐかつての病気に逃げ隠れしようとする人とは、距離を持たねばならないということ。冷酷なようだが、自分の生活を守るためには、それが必要なんだと、事ある毎に痛感させられる。
 私の周りには心の病を抱えた人が結構いる。そういう人との付き合いは別に苦でもない。私自身まだ薬を飲むことが日常に必要だし、病院通いも必要な身分だ。共感できる部分はたくさんある。共有できる部分もたくさんある。
 しかし、病気に逃げるか逃げないかは別だ。同じ病気を抱えていても、それは個人で全く違う。ベクトルが違う。

 私はここに甘んじているつもりはない。いつか克服する、いつか全てを解放すると信じて止まない。たとえ生きている間にそれが叶わないとしても、それを諦めるつもりは露ほどもない。だから、そうじゃない人との交わりは、こちらが呑まれない程度にしないと、自分がしんどくなる。
 ずるいかもしれないが、自分がしんどくなってまでのつきあいを、もうしたいとは思わない。
 私は回復したい。だからそれを諦めない。足枷になる関係は断つ。
 それだけのことだ。そう、それだけのこと。

 そこに迷いを覚えてしまうのは、私の弱さだ。私は私と娘との生活を、その安定を何よりも望んでいるのだから。私がその関係で不安定になったら、この小舟はどうなる? そんなこと、誰にでも分かり得る。

 ここまで書いてきて、それでもまだ、迷っている自分がいることを私は痛感している。でももう、昔のように、関係の緒をひたすら持ち続けることは、しないのだろう。悲しいかな、そんなことをしていたら、私は、私たちの舟は沈没してしまうから。
 だから手放す。

 まだカップに残る紅茶はすっかり冷えた。今日一日くらいこの苦々しい思いは口の中広がったままかもしれない。でも。
 我が娘のようにさらりとかわせないまでも、えいやっと断つことくらいはできるだろう。私にだって。

 そう。私はちっぽけな人間だ。ちっぽけだから必死に生きてる。じたばたもする。でも、諦めの悪さだけはとびっきりだ。私は生き続けたいのだから。

 こんな天気の日は、つい俯きがちになる。だから、娘を真似て鏡の中まっすぐ前を向いてみる。さぁ背筋を伸ばしてしゃんとして。
 ほらごらん、その気になれば、笑顔にだってなれるよ。

2008年11月6日木曜日

■「大好き」

娘の日記帳の終わりには毎日、「ママ大すき!」という言葉が書いてある。
自分が彼女の年頃、ママ大好きと声に出して言えたかといえば、私は言えない子供だった。家族全体が、捩れた愛情に沈黙を続けるしかない、まだ我が家はそんな家だった。家族全体が捩れ軋んで、見えない悲鳴を上げ続けていた。
でも。
ちょうど彼女の歳から三十年を経て。私たちは彼女を挟んでそれぞれに今、捩れを解き始めている。
長い長い年月がそこには横たわっていて、ひとっ飛びにどうにかできるものでは、ない。けれど。
解ききれないと諦めてしまえば全てはそこで終わる。
だから多分、諦めないのだろう、私たちは。生きている限り。

大好き。
今、娘のように声を上げて両手を差し出してそんなことを言えるほど、私はまだ素直にはなれない。
でも、多分、愛しているよと、その後姿に向かって、呟くくらいは、できる。多分、きっと。
だからいつかきっと。

■今一度並木道を振り返り、

写真展を今催している喫茶店の、最寄の駅を南に降りると、それは見事な銀杏並木がまっすぐ南へ伸びている。時期が来れば毎年、すっぽりと黄金色に色づいて、並木道を歩くと、それを眺める私たちは一寸した異世界へ誘われる。けれど今年、その色づきが非常に遅い。まるで色づくことを樹たちが忘れてしまったかのように、いまだ青々とした葉を茂らせている。季節と季節の、見えない境界線が少しずつ、歪んでいっているようで、私は一抹の切なさを覚える。

会場で誰かしらと会い、作品を挟んで話をする。この時の幸福感を言葉で表すのは難しい。たとえそれが作品の批判であっても、それらはいずれすべて、私の次の制作の原動力となる。
今日も数人の人との出会いを得ることができた。この時間を私にくれたすべてのものに、感謝を。

今頃娘は学童に向かっている時間だろう。私は写真の前にこうしていながら、娘のその姿を想像する。今日は幼稚園の子供たちに紙芝居を見せに行く日でもあった。無事成功したのだろうか。終わりの挨拶もちゃんとできただろうか。今から彼女の報告を聞くのが楽しみでならない。

帰り道。もうすっかり黄昏れた空。今一度並木道を振り返る。濃紺色の影々は今何を想う。そうだ、近いうちにまた樹を抱きに行こう。そして耳をそっと寄せて、あの何ともいえない内奥から沸き立つ音を聴くんだ。

2008年11月5日水曜日

■一瞬一瞬を丁寧に生きていれば

梨木香歩氏の作品に出会ったのは、「春になったら苺を摘みに」が最初だった。淡々としていながらも丁寧なエッセイで、その世界観に一挙に引き込まれた。以来、彼女の作品が出るたび、本屋に走る。

あれはいつだったろう。今年の夏のはずなのだが、もう遠い昔に思える。
徹夜明け、仕事に出かけた後、時間を見つけて映画館へ。
「西の魔女が死んだ」を友人と観た。
実に原作に忠実に仕上がっていて、原作者梨木香歩氏のファンである私にとっても心地いい作品だった。
その友人と、家でU2のライブビデオなぞを見ながらそうめんをすする。
そうめんって何故あんなに食後におなかが膨れ上がるのだろう。蕎麦は食べている最中に満腹感を感じられるから適度なところで食べ終えられるのだけれど。そうめんはつるつると勝手に胃に滑り落ちてきてしまうから困る。友人も同じだったらしく、食後、おなかが苦しい、おなかが苦しいと、二人して繰言してしまった。

一日一日の小さな変化を楽しみたいから先のことを知る必要は私にはないのよ。と言った台詞が先の作品の中、祖母の台詞として出てくる。
私は思わず深く頷いてしまう。
不安があると、つい、先のこと先のことを知りたがって駆け足になってしまう。
でも、そんな必要は本当はないのだ。おそらくは。
一瞬一瞬を丁寧に生きていれば、じき、おのずと答えは出るのだろうから。

2008年11月4日火曜日

■あの坂をのぼりきれば

 身を起こしたのは午前五時。布団から出ると身体がぶるりと震える。部屋に横たわる冷気を振り払うようにして私は勢いよく顔を洗う。今日は晴れるだろうか。まだ眠っている娘を気にしながら私は窓を半分開ける。
 徐々に徐々に空が明るくなってゆく。ふと気付けば。明かりをつけていた部屋の方が暗くなるほどの眩しい光。そこらじゅうで弾け飛ぶ光の粒。私はベランダのプランターたちに駆け寄る。東から伸びてくる光の筋が、葉々を包み込む。近づいて見つめれば、葉の細毛が白く輝いている。
 相変わらずの半袖姿で玄関を飛び出していった娘の後を追うように、私も家を出る。もういい加減通い慣れた、歩道のない道ばかりが通る町へ出掛ける。通い慣れているけれど、それでも私は混んだ電車の中で今日も猛烈な所在無さに襲われる。この電車の中の何処に自分の場所を据えていいのか分からず、時間が進むにつれ激しくなる動悸を抱えながらひたすら窓の外を見つめる。こんな時は鞄の中に常に入れている本さえ手にすることができない。そして、自分の居場所を今日も得ることができぬまま、私は押し出されるようにしてようやく電車を降りる。
 用事を済ませた帰り道はひとつ手前の駅で降りて私は歩く。歩き出せば、こんな暖かな日は上着などすぐに要らなくなる。
 細い川を渡る小さな橋の上でいっとき立ち止まる。さやさやと流れる水は小さな漣を描き、海へと続いてゆく。相変わらず塵がところどころに浮かんでいるけれど、それでも流れ続ける。光が乱反射し、私の目を射る。見上げれば真っ白な空。こんな町中ではもちろん、まっすぐな地平線など望むべくもない。
 それでも私はこの町が好きだ。生まれ育ったこの町。ちょっと裏道に入れば猫の額ほどではあってもまだ空地の残る、人と人が適当な距離をもって存在し得るこの町が好きだ。
 そういえば娘が日記に書いてきた。明日は近くの幼稚園に行って紙芝居をするの。上手に読めるように今日はいっぱい練習するんだ。
 今頃娘は教室で、練習しているんだろうか。紙芝居は手作りだと言っていた。どんな紙芝居に仕上がっているのだろう。

 こんな季節だというのに10分も歩き続ければ額に汗の粒。でも大丈夫、あの坂をのぼりきれば。自然、深呼吸をひとつ。そう、もう大丈夫。安心してくつろげる我が家はもうすぐだ。

2008年11月3日月曜日

■もうすぐだ。私の愛する真冬はもうすぐ

 いつ雨が降り出してもおかしくないような雲模様が朝からずっと続いている。こんな日は空が低すぎて、息をするのが少し苦しくなる。誰にも見つからないように、誰にも知られぬようにこっそり息をしないといけないかのような錯覚に囚われる。だから私は今日少し窒息気味だ。
 朝、仕事絡みで話をした人からヒントを得て、私はあれやこれや自分の写真を引っ張り出す。昔のものと今のものを見比べてみたり、どうしても納得いかなければ焼き直してみたり。そして写真の出来上がりに葛藤する。
 文章でも写真でも音楽でも、簡潔・明瞭がいい。ただ、私は削ぎ落としすぎる。削ぎ落としすぎて、余白ができる。その余白が本体を映えさせ得るときと、逆に本体を潰すときとがあることを、私はすっかり失念していた。そのことを痛感させられる。当たり前だが、何でも削ぎ落とせばいいというわけではないのだ。そうなったら、一度、基本に立ち返る必要があるのかもしれない。写真で言えばそう、私が削ぎ落としてきた中間の部分を、中間の部分そのままに残しておくことも、大事なのかもしれない。

 洗濯物を干そうと窓を開けて気付いた。ラナンキュラスの芽が開いている。それはまだまだ小さな小さな葉体だ。まるで赤子がその小さな手を空に向かって精一杯伸ばし広げているかのよう。右の人差し指でそっと、輪郭を撫でてみる。葉がぷるりと震える。あぁこんな時、太陽がさんさんと照っていれば。私は低く垂れ込める空を見上げ、葉と同じようにぷるりと肩を震わす。
 でも。

 もうすぐだ。私の愛する真冬はもうすぐ、やって来る。そしてこの球根や裸樹と共にきっとこの冬も私は越えてゆく。

2008年11月2日日曜日

■セピア色の喫茶店

 娘の留守の日曜日。ぽかんと空いた日曜日。私は通い慣れた喫茶店へ足を運ぶ。途中古本屋に立ち寄り、適当に一冊を選ぶ。その喫茶店は、入り口の扉がちょっと小さい。だから入り口を潜るようにして中へ入る。ミルクティを頼んで、私はしばらく小窓の外を眺める。
 駅前でお祭りをやっているせいだろう。りんご飴を舐めながら歩く人、たこ焼きを口に投げ入れながら歩く人、そんな姿が行き来する。小さな子供は、自分の頭より大きな綿菓子の袋を大事そうに抱えている。
 店にはこの前来た時一緒になった女性客が持ってきた、ストロベリーチョコレート・コスモスという色の花が細い細い花瓶に飾ってある。何とも深みのある色合い。それが、この喫茶店の、少し煤けた壁や椅子とほどよく調和している。
 一人の客は私だけ。本を広げてみたものの、しばし、他の客たちのおしゃべりにこっそり耳を澄ます。

 「B型の人ってほんとマイペースだよね。好きなことしかしないって感じ」
 「そうなんじゃないの」
 「この前突然「葬式に出るんだけど喪服が皺だらけだからアイロンかけて」って頼まれた、B型の人から」
 「何それ、で、どうしたの」
 「かけてあげたよ」
 「頼む方もおかしいけど、かけてあげるのもおかしいんじゃないの」
 「えー、そうかな、だってたいしたことではないし、別にいいと思ったんだもの」
 「そういう相手を嗅ぎ分けるのがうまいのもB型かもしんないな」
 「そういうもんかなぁ」

 「ねぇ、明日どこ行く?」
 「明日は日帰り温泉でも行こうか」
 「わぁ、いいなぁそれ」
 「近場なら大丈夫だろ」
 「嬉しい!」
 「今日は早めに帰ろう」
 「うん」

 「トツさん、久しぶり!」
 「おお、久しぶりですねぇ」
 「俺、毎日ここ来てたんだよ、全然会わなかったけど」
 「ちょっと身体壊してたんですよ」
 「あら、大丈夫なの」
 「ええ、もう大丈夫。ただの風邪だったみたいで」
 「朝晩冷えるからねぇ」
 「熱とかはなかったんですけどね、おなかが何とも。あと鼻水」
 「そうだったんすかぁ。いやぁ会えてよかった」
 「ははははは」

 それぞれがそれぞれに、とても楽しげな表情で会話を続けている。あまり耳をそばだてすぎると、自分も一緒に笑い出してしまいそうになるから、私は慌てて本に目を落とす。濃い目のミルクティが、とてもおいしい。
 あっという間に一冊を読み終える。「福音の少年」。そういえば、かつてこの登場人物である少年たちのような関係を、私は誰かと結んだことがあったっけ。もう遠い記憶にうずもれた相手を、後姿で思い出す。そう、あの人だった。そして私たちはどういう終わりを迎えた? 私はだいぶ冷えつつあるミルクティを口に含みながら、やわらかく当時のことを思い返す。まだ十五、十六の、ちょっと触れられるだけで痛みを覚える年頃だった。

 帰り道、私もお祭りの賑わいに紛れてみようかと思ったが、やめた。なんだか娘に悪い気がして。
 今日はこのまま帰ろう。そして娘に電話しよう。明日会えるね、と。

■今頃部屋ではアオツメクサが咲いている

 朝一番に娘と自転車で街を走る。昨日のあの重たげな雲は何処へいったのやら、今朝は冷えてはいるがとても気持ちのいい空だ。自然、漕ぐ足も軽やかに動く。
 昨日嗅いだ銀杏の匂いを思い出し、娘と共に並木の下に行く。娘が途端に悲鳴を上げる。
 何この匂い。
 ギンナンの匂いだよ。ほら、ここに落ちて潰れてるのがある。
 この匂いキライィ。
 ふふ。まぁ好きな人はあんまりいないよね。でも。
 でも、なぁに? ママは好きなの?
 好きってわけじゃないけど。秋の終わりを教えてくれる匂いだよ。
 うーん。でも、この匂いヤダ。
 ふふふ。

 私たちは海の公園まで走り、ひとしきり小さな飛沫をあげる波を眺め、家路につく。
 途中、ふと鮮やかな青色を道端に見つける。アオツメクサだ。もう少しで見落とすところだった。私たちは自転車を止め、一輪二輪、摘んでみる。もったいないからこれだけね、と視線を交わし、ふふふと笑って再び自転車を漕ぐ。そろそろ時間だ。

 週末娘はたいてい私の実家へ遊びに行く。決まった時間に電車に乗せないと、実家から電話がかかってくる。待ち侘びているのだ、じじばばが。
 ほら、髪の毛結って。歯磨いて。支度はできたの? 娘を急かしながら私はたびたび時計を見やる。そろそろ電話が鳴る。その前に家を出ないと。
 ママ、準備できた! 娘のその声で玄関を二人して飛び出す。休日の朝からなんでこんなに急いでるんだろうねと苦笑いしながら、私たちは駅までの道を走り出す。
 ねぇママ。夜にはちゃんと電話ちょうだいね。うん、わかった。絶対だよ。うん、約束。じゃぁね、ママもいってらっしゃい。じゃぁまたね。
 電車の窓越し、お互いに姿が見えなくなるまで手を振り合う。しばしの別れ。私は仕事場へ向かう。

 今頃部屋では、アオツメクサがひっそりと、咲いている。