2004年5月19日水曜日

MARUSCHKA DETMERS

  MARUSCHKA DETMERS、彼女と初めて出会ったのは、マルコ・ベロッキオ監督「肉体の悪魔」であった。当時、街角に張ってあったポスターを見、私はこの映画を見ることに決めた。理由は単純だ。ポスターに立った彼女の落ち窪んだ目が私の琴線に引っかかったからだ。それはメイクのせいで落ち窪んでいることははっきり分かった。が、そんなことは問題ではなかった。彼女の目が孕む妖艶な何かに、私は引っ張られたのだ。
 映画を見にゆくと、その映画自体はまさに、イタリアそしてフランス映画の匂いがむんむんの、こってりとした両国合作映画だった。でも私は、そんなことをまったく忘れ切るほどに彼女にのめりこんだ。次はこの映画館で上映されるらしいと知れば、テープレコーダーをこっそり鞄に忍ばせてその映画館へ飛んでいった。彼女の声、映像のバックに流れる弦楽器による微妙な旋律、そして最後の最後、彼女のあの微笑と涙と共に流れる古典ギリシャ語とを録音するために。今そのテープを数えてみると、合計で12本ある。まったく呆れる酔狂ぶりである。
 「肉体の悪魔」はラディゲが原作者だ。新潮文庫から今も出ていると思う。監督マルコ・ベロッキオは、この原作を、一体どう解釈したらこんな脚本になり得るのかと思うほどに壊し、再構築させている。見様によっては、主人公(原作では主人公は男性だが、この映画ではマルーシュカ・デートメルス演じるジュリアが主人公となっている)は狂人のように見える。婚約者がいながら若い学生と通じ合い、婚約者との新居となるはずのベッドの上で抱き合い、彼女はその若者の性器を切り落とす真似さえしてみせる。そして、床中にあらゆるものをひっくり返し、その中で彼女は笑いながら踊り狂う。しかし、彼女は本当に狂っていたのだろうか。もし今私が誰かにそのことを問われたら、否と答えるだろう。
 あちこちの男と通じ合い、同時に彼女は病んだ心を癒そうと必死にあがく。その有様が極端に描かれているから、見ている私たちはその極端さに引きずられがちだが、私は思うのだ。繰り返し繰り返しこの映画を見て、最後に思ったのだ。これは狂女の姿ではない。私たちの姿だと。
 正直に生きることは、この世界では実はとても難しい。あちこちで軋轢がおきる。そんなことをしたら、それに対して一つずつ責任をとっていかなければ周囲は収まらない。だから私たちは、適当に頭を下げ、自分の気持ちを半分隠して、にっこりしながら、ぺこりと頭を下げながら生きてゆく。それがこの世界だ。この世界をうまく渡ってゆく方法だ。しかし、それがもし上手にできなかったら? ジュリアは多分、普段隠している私たちの本性だ。その化身だ。それはとても不器用で、切なくて、哀しくて、もしかしたら見ている者の目を逸らさせるかもしれない。すべてを自ら失った後、彼女が最後の最後に見せるあの微笑は、だからなおさらに美しい。自ら選び取った道、生き様を、彼女の微笑は受け入れようとしているように、私には見える。
 そして私は恋に堕ちた。マルーシュカ・デートメルスという女優に。彼女のあの目は、私の胸を貫いてしまった。女性が女性に惚れるとは。でも私は惚れたのだ、彼女に。
 以来、彼女が出演する作品が上映されると知るたび、あちこちに飛んでいった。「夏のアルバム」(ダニエル・ヴィーニュ監督、)はもちろん、「赤と黒の接吻」(エリック・バルビエ監督)、それから監督名は忘れたがジェラール・ドパルデューと共演した「ふたり」、そしてビデオで「カルメンという名の女」(ジャン=リュック・ゴダール監督。ちなみに、私はゴダールさんはあんまり好きではない)、ジェーン・バーキンと共演していた「ラ・ピラート」など。
 そして。
 私が一番心に残っているのは、メハナム・ゴーラン監督作品「ハンナ・セネシュ」を演じたマルーシュカ・デートメルスだ。(この映画パンフレットでは、彼女の名はマルーシュカ・デトメールと訳されていた。)
 ハンナ・セネシュとは、第二次大戦時を生きた一人のユダヤ人という実在の人物で、監督は1964年にすでにハンナの家族に接触し、映画化したいと申し入れていたという。

「ハンナ・セネシュの物語は戦争アクションではない。ハンナはスリリングなスパイ行為を鮮やかにやってのけたわけではない。かといって詩を書く若い理想主義者の女性の話でもない。彼女は詩を書くナイーブな娘だが、命を賭けて危機に挑み、自分の考えに反することには決して屈することがなかったのだ。そしてもちろん空挺部隊の連中の話でもない。ハンナは他の情報部員と訓練を受け、数名と共に任務を授かったが、その事実が物語の核ではないのだ。それらはひとつひとつの要素であって、その集合体としての複雑なハンナの人間性を、ゴーランは描きたかったのである。
(中略)
 もちろんゴーランは自己犠牲を美化しているわけではない。またハンナはむしろ、逮捕される前に自殺できるにも関わらず、自殺せずに生きることを選んだ女性だ。」
(映画パンフレットの解説より引用)

 私は多分、死ぬまで、この映画の法廷シーン、ハンナの処刑シーンを、忘れることはないだろう。そのくらい鮮烈で強烈だった。彼女が法廷で、一言一言、人間であることは一体どんなことなのか、生きるということはどういうことなのか、そして、誇りというものは何であるのかを淡々と述べてゆくとき、それは私の中で永遠の問いに変わった。私が人間であるということはどういうことなのか、生きるということはどういうことなのか、そして私が私自身であるというその誇りは一体どういうものなのか。
 いわれなき罪をきせられ、処刑されるそのとき、彼女は白い雪の中で、その雪と同じ白いブラウスを着、立っている。銃声が辺りに響き渡り、彼女の体が雪の中に倒れ込んでゆくとき、彼女の目は天を向いている。開かれたままの目は、最後に何を見たのだろう。
 誰が悪いわけではない。誰というたった一人の特定の誰かが悪いわけではない。人間が起こしてゆく戦争は、多分、人間から人間性を奪う行為なのだ。それでも人間は戦争を止めることはできない。多分永遠にこの世界の何処かで戦争は為されてゆくだろう。でも、ならばせめて。
 人間が人間であることを忘れないでほしい。人間が人間であるからこそできることを忘れないで欲しい。自分を守ろうとするのは人間の常だ。それが当然だ。でも、ならば、誰かの屍の上に今自分は立っているのだ、それが私たちの地面を支えているのだということを決して忘れてはいけない。
 マルーシュカ・デートメルスは、この作品が制作されることを知った時、監督に直訴しに行ったという。「私こそハンナ・セネシュだ」と言って、そうしてこの役を勝ち取った。それだけに、彼女の真摯な演技は、周囲のベテラン演技者たちの間からも際立って見える。もうここには、かつてセックス・シンボルとマスコミにこぞって揶揄された彼女はいない。いるのは、髪の先まで、瞳の色まで役にのめりこませ、自身をその役の化身とさせずにはおかない彼女である。
 映画として、「ハンナ・セネシュ」は詰め込みすぎたように思われる。ここまで詰め込むならいっそ、映画の時間を倍にして、もっとつっこんで描いてほしかったと私は贅沢なことを望んでいる。しかし。
 それでも、映画の中で、マルーシュカ・デートメルスは輝いていた。凛然と。
 だから要するに。
 私は惚れているのである。彼女に。もうこれは、ぞっこんである。他に何も言いようがないほど。彼女を超える女優とは、一体いつ出会えるだろう。自分でそのことを問うてみても、首を傾げたくなるくらいに。私は彼女に惚れている。

2004年4月20日火曜日

「浜田知明作品集」 求龍堂 15,000円

 浜田知明氏の作品で私が初めてこの目にしたものは、「初年兵哀歌(歩哨)」(1954年作)であった。比較的小さな絵の前で、私はしばし立ち止まらずにはいられなかった。こんなにも静かな、いや、無音の世界なのに、なんて哀しいのだろう、なんて切ないのだろう、何故こんなにも。そんな思いが、私の心中をいっぱいに満たし、同時にそれは、ぐるぐると私の中で回っていった。以来、折を見つけては氏の作品を見に行く。見に行くことが叶わなければ、その時はこの作品集のページをめくる。
 彼の版画作品は、切実である。どこまでも誠実で、そして切実である。この本の解説部分でこんなことが記されている。

 「彼の銅版画へ向かったいきさつは、後から聞いても明快で説得力がある。従軍中に直面した不条理を告発すると心に決めた彼は、人間心理の深層にまで照明をあてて「戦争」を描くための方法を模索する。テーマは決まっていたのである。「是が非でも訴えたいものだけを画面に残し、他の一切を切り捨てた。色彩を捨て、油絵具という材料を捨て、そして白黒の銅版を択んだ。」」

 たとえば「不安」(1957年)という銅版画では、空一杯を埋め尽くす爆撃機から、身を隠すように必死に生き残ろうと、小さな箱の中で息を潜める人間の姿が描かれる。恐らくは全員が全員、焼夷弾に焼かれ焦がされ、死に絶えるだろう状況の中で、それでも必死に行きようと、ある者は耳を塞ぎ、ある者は膝を抱え頭を抱え込み、ある者はもうほとんど絶望しているかのように呆然としている。戦争を実際には知らない私であるが、氏の作品を見ていると、今見ているこの瞬間にも焼夷弾が頭上からどっさり降ってきて瞬時に死んでしまうのではなかろうかというような錯覚を抱かずにはいられなくなる。
 たとえば「噂」(1961年)は、前出の戦争をテーマにしたものではなく、まさにどこにでも転がっているだろう日常の一断面を見事に描いている。部屋中に浮遊する幾つもの口、ひそひそ話をしている口もあれば、まるで自慢げに何かを話しているだろう口、明かに誰かの悪口を言っているのだろう形の口もある。それらが部屋中に浮遊しているのだ。部屋の中、座った三人に顔はない。顔の代わりにそこに描かれるのは口である。
 彼の作り出す世界はだから、非常に明快である。日常をテーマにとったものであっても、戦争をテーマに取り上げたものであっても、すぱっとその光景を断じてカタチにしている。だからこそ、私たちに分かりやすく、同時に口を挟む余地など残さない、そうしたエネルギーが画面からこちらへとぐんぐん伝わってくる。
 そんな彼は、銅版画家であると同時に彫刻家でもある。彼の彫刻は、私から見るととても不思議である。奇妙と言ってもいいかもしれない。彫刻を始めた頃、彼はよく自分の銅版画をほぼそのままに再現していた。ここで敢えて「ほぼ」と言ったのには理由がある。たとえば「檻」(版画1978年、彫刻1983年)という作品があるが、共に檻の柵の間から手を伸ばし、助けを求めているのだろう人物がそこにはいる。が、版画作品では別におかしくも何ともない助けを求める手が、彫刻作品では異様に大きく作られている。それはそのまま、外に出たいという誰かの願いの大きさでもある。やがて氏は、彫刻は彫刻として独立して作品を作り始める。たとえば「風景」(1995年)という作品があるが、これはまさに戦争の一光景をまざまざと立体化したものと私には思える。細長い台座の一番向こうに、銃が逆さまに突き立てられ、そしてその下に横たわるのは、もう骸骨化した名を持たぬ誰かである。服も肉体も何もかもを失いながら、彼の靴が、靴だけが、帰りたいと訴えかけるようにこちらを向いている。この彫刻を見つめていると、そこから、「帰りたい、国に帰りたい」という声を今この耳で聞いているような気がして来る。もうそれは、どうしようもなく切実な、途方もなく切実な願いとして。
 浜田氏は、1994年には熊本県立美術館で、1996年には新宿小田急美術館他巡回で、そして2000年には神奈川県立近代美術館別館で個展を催している。90歳を目前としながらも、その活動は今も尚続けられている。この作品集は氏の、1993年までの作品集だ。氏を知っている人はもちろん、全く知らない人も、一度ぜひ目を通していただきたい。何故なら。
 そこには、私たち人間の切実な生きる姿があるからだ。何度も何度も死を意識し、もう死ぬしか自分には術はないと唇を噛み締めながら思い続けそうして戦争から生きて帰った氏の、だからこそ切実な、生の詩である。テーマが戦争であれ日常であれ、それらは私たちに語りかけてやまない。これでいいのか? これで本当にいいのか? これが人間ってものなのか? 私たちは自分が人間であることをどこまで誇りに思えるのか? と。

2004年4月6日火曜日

再生への道/野沢尚「深紅」講談社文庫

 予め断っておくと、私は野沢尚氏の作品をこれまで読んだことも見たこともなかった。この「深紅」が初めてである。いつもの如くぶらり立ち寄った本屋で平積みされていたのを手に取り、帯の「犯罪被害者の深き闇を描く衝撃のミステリー」という言葉を見てとった瞬間、買うことを決めた。理由は簡単だ、自分がかつて犯罪被害者の一人になった体験をもっていたから。他に何もない。
 ニ章を過ぎた辺りからだったろうか、私は急激に小説の中に引きずり込まれてゆくのを感じた。これはミステリーなんかじゃない、人間小説だ、その思いが、読み進めるほどに大きくなってゆくのを、私はとめることができなかった。
 一家惨殺という悲劇から一人生き残らされてしまった主人公奏子が、加害者の遺族である未歩の存在を知ることによって、彼女へと憎悪を爆発させる。いや、爆発させるというよりも、年月を経ることによって己の中でどす黒く煮詰まっていった憎悪を一滴一滴滴らせ、未歩へ向けて、自分の背負ってきた何もかもを復讐と言う形で返そうと試みる。が。
 その過程で、奏子は思い知ってゆく。自分が一体何を望んでいるのか、何をしようとしているのか、そして本当はどうしたいのか。本著は、その彼女の、再生への物語だ。
 どうやっても消えない、家族を殺された悲しみや憎しみ、同時に抱かざるを得なかった自分だけ生き残ってしまったというどうしようもない罪悪感、それらへの防御として彼女は、「黒い芯」を無意識のうちに己の中に形作った。友人を作っても、恋人とセックスをしても感じない、振動しない、微動だにしないその黒い芯の正体。彼女はそれを、未歩を追い込めてゆく過程でようやく悟る。「感覚中枢の角のひとつひとつを削り取って、鋭敏なものを減らしていく。あぁそうか、と奏子は思い当たる。これが黒い芯の正体だ。
 目の前に繰り広げられるものに傷つかないように、あえて感覚を鈍くさせてきた。そうしてできあがったのが、この黒い芯なのだ」。
 そして奏子はぎりぎりのところでパニックを起こし、その中で自ら呟くのだ。生きたい、と。

 悲しい。なぜこんなにも悲しいのだろう。
「やっぱり、殺人者の娘も殺人者になるしかないのか」
 諦め、開き直って、明るい声で未歩は言う。
 全ては「血」が支配するのだろうか。逆らえないのだろうか。滅ぼされた家族を追いかけるように奏子が自分を滅ぼそうとしているのも、逆らえない「血」の仕業なのだろうか。
「生きたい…」
 奏子は呻いた。
「何か言った?」
「そんなものに操られないで、生きたい…」

 そして彼女は、魔の四時間の再現というパニックの中で、自分が今できることを見出してゆく。早くこの「四時間」を終わらせて、未歩を止めにいかなければならない、と。

 「憎悪と血の連鎖を断ち切るのは誰の役目なのか。早く答えろ。誰も未歩のことを罰しようとは思っていない。私も、私自身を罰する必要などもうない。憎しみはこれで充分だ。私と未歩はこの八年、充分すぎるくらい苦しんできたのだから。」
 そして彼女は走る。まだ震えふらつく身体に鞭打ちながら、彼女は走る。彼女が走るこの道は、何処へつながっているのだろう。
 そしてこの物語は、終わりを迎える。自ら近づき、未歩に復讐の刃をむけた奏子が、もう二度と彼女には会わないと心に決める。彼女とキスをしたとき、奏子は何を思っただろう。

「奏子は抱きしめたい衝動に駆られた。お互いの体が折れそうなくらい抱き合って、「私たち、生きていけるよね」と、できれば確認しあいたかった。」

 でもそうする前に未歩は離れ、そして彼女たちは別れてゆく。それぞれの帰る場所へ、帰るべき場所へ。これからを生き紡いでゆくべき場所へ、と。

 誰だって恐らく、生きていればきっと一度は思うのだ。大きな裂傷を負わざるを得なくなった時、思うのだ。自分がこうむった傷に匹敵するものを相手に与えてやりたいと。自分はこれほどに傷ついたのだ、それが分かるか、分かるもんか、私はもうこれでは生きていけない、これ以上ここで生きているのは辛すぎる、でも死ぬその前に、おまえにも分からせてやる、同じ目に遭わせてやる、私がこうして背負わなければならなかった傷をおまえも背負え、と。奏子が心弱かったのではない、人間なら恐らく、誰しもそう思うのだ。
 そして、その思いが己の中で勝ってしまった時、私たちはきっと、第二の奏子になっている。しかし。ここからが違う。
 第二の奏子になってしまった時、果たして奏子がそうしたように、途中で己を省みることができるかどうか。そこで気付くかどうか。それが問題なのだ。
 そうやって傷を連鎖させてゆくことに何の意味があるのか。憎しみや怒り、悲しみを連鎖させることに一体何の意味があるのか。それよりも何よりも、理不尽にも背負わされた荷物を自ら引き受けながらもここから生きてゆく、ということが、どれほどに大切なものであったか。--------それらのことに、私たちは気付けるかどうか。

 これは一人の人間の、再生への物語だ。奈落の底に突き落とされ、それでもなお生きようと足掻き、その中で一度は自らも刃を握り振り下ろそうとまでした人間が、血反吐を飲む思いで立ち上がり、そして明日へと自分を、生きるということを明日へつなぎ得た、一人の人間の、再生の物語だ。
 そう、奏子は私の中にも、あなたの中にもいる。今はまだ、そこまでの体験を経たことはないし、そこまで追いこまれたことはないからと高を括っていても、いつ私たちの上にそういった体験が墜落してくるか分からないのだ。そうなったとき、私たちはきっと知るだろう。同じ立場に立ったとき。自分はどちらを選ぶのか。何を選ぶのか。どうやって残されたその先を、生きてゆくのかを。
 それがきっと、私たちが人間であることの、価値の一つだ。

2004年3月23日火曜日

「不思議な少年」マーク・トウェイン作 岩波文庫

 「ハックルベリ・フィンの冒険」や「トム・ソーヤーの冒険」でよく知られるマーク・トウェイン。しかし晩年には、前述の著作からは想像のできないような、暗さと人間不信、そしてペシミズムに彩られた作品を生み出している。その中の一冊、「人間とは何か」という本は生前匿名で、なおかつ私家版として少数出版したマーク・トウェインであったが、その「人間とは何か」を小説として具現化したものが、この「不思議な少年」に当たるのではないかと思われる。
 この本は、正直、心地よい本ではない。三人の少年とサタンと名乗る少年とが出会う始まりのシーンからして、読んでいると首の後ろをがしがしと掻き毟りたくなる衝動に襲われる。自分は天使だとのたまうサタン少年が、まるで魔法のようにしてその手から生み出した動めく人形たちを一気に潰し、血まみれになった人形たちが泣き叫ぶのを見下ろしながらこう言うのだ。「ぼくたち(天使)はいまだに罪なんてものは知らない。第一、罪を犯すことができないんだよ。ぼくたちは汚れってものを知らないんだ。」「つまり、ぼくたちは、悪をしようにもできないのだよ。悪を犯す素質がない。だって、悪とはなにか、それが第一わからないんだからね」。
 そう言いながらサタンは、残酷極まりないことを少年たちの前で幾度も幾度も繰り広げる。人間というものがいかに愚かしい生き物であるのかを、これでもかというほど見せつけてゆく。
 私は、この本に描かれているものに対し、不愉快さを隠せないし、多分、そもそも、人間に対するスタンスが著者と私とではあまりに違っていて、議論し合う同じ土台に立っていない。
 しかし、今この時代に久しぶりに読み返したからだと思うが、ひっかかる部分が幾つかあった。
「君主制も、貴族政治も、宗教も、みんな君たち人間のもつ大きな性格上の欠陥、つまり、みんながその隣人を信頼せず、安全のためか、気休めのためか、それは知らんが、とにかく他人によく思われたいという欲望、それだけを根拠に成り立っているんだよ」
「戦争を煽るやつなんてのに、正しい人間、立派な人間なんてのは、いまだかつて一人としていなかった。ぼくは百万年後だって見通せるが、この原則ははずれることなんてまずあるまいね。いても、せいぜいが五、六人ってところかな。いつも決まって声の大きなひと握りの連中が、戦争、戦争と大声で叫ぶ。すると、さすがに教会なども、はじめのうちこそ用心深く反対を言う。それから国民の大多数もだ、鈍い目を眠そうにこすりながら、なぜ戦争などしなければならないのか、懸命になって考えてみる。そして、心から腹を立てて叫ぶさ、『不正の戦争、汚い戦争だ。そんな戦争の必要はない』ってね。すると、また例のひと握りの連中が、いっそう声をはりあげてわめき立てる。もちろん戦争反対の、これも少数だが、立派な人たちはね、言論や文章で反対理由を論じるだろうよ。そして、はじめのうちは、それらに耳を傾けるものもいれば、拍手を送るものもいる。だが、それもとうてい長くはつづかないね。なにしろ扇動屋のほうがはるかに声が大きいんだから。そして、やがて聴くものもいなくなり、人気も落ちてしまうというわけだよ。すると、まもなくまことに奇妙なことがはじまるのだな。まず戦争反対の弁士たちは石をもって演壇を追われる。そして、狂暴になった群衆の手で言論の自由は完全にくびり殺されてしまう。ところが、面白いのはだね、その狂暴な連中というのが、実は心の底で相変わらず石をもて追われた弁士たちと、まったく考えは同じなんだな------ただそれを口に出して言う勇気がないだけさ。さて、そうなるともう全国民------そう、教会までも含めてだが、それらがいっせいに戦争、戦争と叫び出す。そして、あえて口を開く正義の士でもいようものなら、たちまち蛮声を張り上げて、襲いかかるわけだね。まもなく、こうした人々も沈黙してしまう。あとは政治家どもが安価な嘘をでっちあげるだけさ。まず被侵略国の悪宣伝をやる。国民は国民でうしろめたさがあるせいか、その気休めに、それらの嘘をよろこんで迎えるのだ。熱心に勉強するのはよいが、反証については、いっさい検討しようともしない。こうして、そのうちには、まるで正義の戦争ででもあるかのように信じ込んでしまい、まことに奇怪な自己欺瞞だが、そのあとではじめてぐっすり安眠を神に感謝するわけだな」

 これらのサタンの台詞に、今立ち止まる人はどれだけいるだろう。今の、アメリカ主導のイラク攻撃のあれやこれやをどうしても思い描かずにはいられないのは私だけだろうか。あれから一年を迎える。先日のニュースでは、帰還した米国兵士たちの中に精神障害を病む者たちがかなり多くいることが報じられ、イラクでの体験から自ら軍を退役する者たちのインタビューなども流れていた。
 私は。
 イラクへの進軍が果たしてよかったのかといえば、そもそもそこから間違っていたような気がしている。しかし。じゃぁどうすればよかったのか。翻って、同時多発テロというものを一体どう捉えればよいのか。いや、私はあくまで日本国民であり、アメリカの事情は多分、ほんの一片しか知ってはいない。その日本国民として、たとえば自衛隊云々のことについて、自分はどう考えるのか。アメリカに追随せずにはいられなかった日本という島国の立場をはじめ、そもそも自衛隊というものの存在について、考え始めたらきりがない、次々に、考えねばならぬことは増えてゆく。そして情けないことに、私はそれに追いつききれていない。全くといっていいほどに。
 本著の終盤で、マーク・トウェインはサタンにこう言わせている。

「つまりいえば、笑い飛ばすことによって一挙になくしてしまうことだが、そうしたことに気がつく日がはたして来るのだろうかねぇ? というのはだよ、君たち人間ってのは、どうせ憐れなものじゃあるが、ただ一つだけ、こいつは実に強力な武器を持ってるわけだよね。つまり、笑いなんだ。権力、金銭、説得、哀願、迫害------そういったものにも、巨大な嘘に対して起ち上がり、いくらかずつでも制圧して------そうさ、何世紀も何世紀もかかって、少しずつ弱めていく力はたしかにある。だが、たったひと吹きで、それらを粉微塵に吹き飛ばしてしまうことのできるのは、この笑いってやつだけだな。笑いによる攻撃に立ち向かえるものはなんにもない。だのに、君たち人間は、いつも笑い以外の武器を持ち出しては、がやがや戦ってるんだ。この笑いの武器なんてものを使うことがあるかね? あるもんか。いつも放ったらかして錆びつかせてるだけの話だよ。人間として、一度でもこの武器を使ったことがあるかね? あるもんか。そんな頭も、勇気もないんだよ」

 私はこの台詞を読んだ折、頭をぶち叩かれた気がした。

 これはあくまで私の考えであり、それはとても偏っていると思う。それを予め断った上で、思うことを幾つか述べるならば。
 戦場写真を目の前にした折、何が切ないといって、それは、戦場を生活の場とする子供たちの笑顔だ。もちろんそこで暮らすのは子供だけではない、私と同じくらいの女性もいれば、私の母を思わせるような年頃の女性もいる。その人たちが戦火にさらされながらも必死に生き、そしてなおかつ笑顔を失わずに暮らす、それらの姿ほど、私の琴線を震わせるものは他にない。
 これらの笑顔を守るために、人は、それぞれの立場で争いを為す。今為されているイラクでの争いだって、アメリカはアメリカの笑顔を守るため、日本は日本の笑顔を守るため、恐らく、為していることなのだろう。しかし。
 笑顔を守るためと称して笑顔を殺してゆく潰してゆく、これは、あまりにおかしな構図ではないのか。
 これを書きながらニュースをちょっとチェックした折、目に付いた。「<イラク戦争>米の元テロ対策担当者が糾弾本を出版」。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040323-00001045-mai-int。あぁこんな動きも今は起こっているのかと、しばしボールペンを口にくわえて見ていた。
 私は、あまりに無知で、また、長いこと我関せずで過ごしていたために、何が正しくて何が悪いのかといった自分なりの意見を今持ち合わせていない。
 ただ、この「不思議な少年」の中の台詞、「それらを粉微塵に吹き飛ばしてしまうことのできるのは、この笑いってやつだけだな。笑いによる攻撃に立ち向かえるものはなんにもない。だのに、君たち人間は、いつも笑い以外の武器を持ち出しては、がやがや戦ってるんだ。この笑いの武器なんてものを使うことがあるかね?」という言葉は、重く重く、私の心にのしかかってくるのを、感じずにはいられない。
 私たちは多分、サタンの言うとおり、あまりにたくさんの残酷な武器を用い過ぎた。これでもかというほど用いてしまった。その結果は一体どうであったか。それらを用い過ぎた後に残ったものは何であったか。
 マーク・トウェインの言う通り、もしも、笑いというのが私たちが持つ唯一の本来の武器であるならば。今私たちにできることは何なのだろう。

2004年3月18日木曜日

「自画像は語る」粟津則雄 新潮社刊

 以前「自画像との対話」という本を紹介したが、自画像に関してもう一冊、私が手放せない本がある。それは、粟津則雄氏の「自画像は語る」である。
 ここでは「自画像との対話」のちょうど二倍、三十六人の作家について述べられている。その中で、エゴン・シーレ、フィンセント・ファン・ゴッホ、ポール・ゴーギャン、エドワルド・ムンク、アメディオ・モディリアニ、ジョルジョ・デ・キリコ、萬鉄五郎、パウル・クレーなどについては二冊ともにそれぞれ触れられている。これらを読み比べる、というだけでも非常に面白い。
 本著の序で粟津氏がこう述べている。

「私が、若年の頃から自画像というものに特別な興味を覚えてきたのも、私を落ち着かせてくれぬこの感触と相応じるところがあるようだ。日常の生活においては、何がしかの不安や惑乱を覚えはしても、程なく何となく忘れてしまうものだが、自画像においては、この内的な対話そのものが、本質的な表現の動機として働いているからだ。自画像も肖像画の一種には違いないが、こういう意味で、それは、たまたま自分自身をモデルにしただけのものと言うことは出来ない。もちろん、他の人物を描こうが、静物を描こうが、風景を描こうが、そこには画家の個性が否応なく現れるのだが、自画像においては、それぞれの内部の劇の構造そのものが、それぞれの資質に応じて独特のかたちで立現れるものだ。」
「とういわけだから、自画像は、それぞれの画家の、自分自身を相手とした内的な劇を表わすばかりではなく、彼らそれぞれにとっての世界像もおのずから示している。」

 これらを読み終えた後、私たちは何を思うだろう。幾つもの自画像を前にした後、私たちは自らをどう捉えるだろう。自分を見つめるということは、自分と世界との関係性を凝視するということに他ならない。己内部の均衡、世界と己を結ぶ緒の有様。日々をただ過ごしていたのならば恐らくは見過ごすばかりだろうが、そんな私たちであってさえ、世界と常に関わり、己と世界との関わりの間で懸命に均衡をとろうと無意識が働いているはずなのだ。
 今、私に、そして君に、自己と対峙するだけの勇気はあるだろうか。そこに何が存在していても、それがどんな姿をしていても、受け容れるだけの勇気があるだろうか。
 そんなことを、本著は、読み手に語りかけてくる。

2004年3月12日金曜日

掛井五郎版画作品集 1984-1991 Green Graphics Book刊(彫刻家掛井五郎氏の版画作品集、1984年から1991年に制作された版画作品が掲載)

 掛井五郎氏の彫刻作品を私が初めて目にしたのは、今からちょうど十年前のことになる。天井の高い画廊の、あちこちに起立する像。それは、みな、どっくんどっくんと息づいていた。頭も胴体も手も足も、それぞれ自由気ままに、膨らんだり縮んだり。ボリュームもコンポジションも、これでもかというほど大胆に踊っていた。それはまるで、彫像みなが「生のダンス」を踊っているかのような光景だった。あぁなんて生き生きと踊っているんだろう、私も一緒に踊りたい。見る者に、そう思わせずにはいないような、そんな吸引力が、掛井五郎氏の彫刻にはあった。
 幸運にも、美術雑誌編集者時代、最後に掛井五郎氏を取材する機会に恵まれた。仕事を辞める前にぜひとも取材したい作家の一人だったから、あの時の取材の光景は、今でも私の心の中、鮮やかに刻まれている。
 取材は確か二日間に渡った。一日しか最初は予定していなかったのだが、話をしているうちに、ぜひとも氏の制作現場に立ち会いたいという、まったくもって贅沢な私の欲求を、先生が快諾してくださったおかげだ。
 二日目、私は工房へお邪魔した。氏は、そこに着くなり、机の上に用意されていた銅版の前に立ち描き始めた。大きなバラ色の銅版の横にはいつも持ち歩いて目に付いたもの全てを描きとめているというスケッチブックを置いてあるけれども、氏はまったくそれを見る様子もない。両の手でしっかりとニードルを握り、ぐいっぐいっと銅版に線を刻んでゆく。その勢いには全く迷いがみられない。下絵がないどころの騒ぎじゃない。私が呆然とその姿を見守っていると、あっという間に一枚目が完成した。間髪いれずに氏は次の銅版に手を伸ばす。自分が思うまま、まるで子供が一心に砂遊びに興じるかのように、氏はそうやって気が済むまで何枚でも描いてゆく。
 擦り上がった作品は、どの線もみな、今にも紙からはみ出してきそうな勢いでたからかに踊っていた。
 1930年、掛井氏は五人兄弟の末っ子に生まれた。兄四人のうち二人が戦死、帰ってくることのできた二人の兄のうちの一人は戦争のため精神がすっかり荒みきっていた。掛井氏は、生前絵が大好きだったという戦死した三男の遺志をつぐという意味でも、最初は絵描きになろうと思っていたのだという。その心を変えたのが、19歳の時の木内克氏の彫刻との出会いだった。以来木内克氏に師事し、彫刻家の道を歩み始める。
 今では、彫刻だけではなく、油絵も版画も制作する。「僕は、彫刻をやっているときは彫刻に、版画を作ってるときは版画に恋愛してるのよ」と言っていたずらっ子のように笑う。そんな掛井氏は、だから、一つのものに集中し、抉り、突き詰めるのが素晴らしい作家の姿勢とみなされがちな日本芸術界からは、多分大きく外れている。
 しかし。
 この生き生きとした息吹はどうだ。見る者を巻き込んで踊り出す作品の勢いはどうだ。これらの作品を前にしたら、そんなせせこましい偏見などどうでもよくなる。
 「モネが晩年に辿りついた世界っていうのは、アンフォルメルのようだよね。あの、普通すぎる風景! 夕焼けってきれいでしょ、そういうきれいなものは一人では見ていられないんだよ、誰かと一緒に見ようよって気持ちになる。そういうのが芸術なんだよ」
 この掛井氏の言葉が、彼が生み出す作品のすべてを語っていると私には思える。
 しかし、ただ楽しげに踊り狂っているわけではないのだ。そこには、彼が歩んできた痛みや怒り、哀しみ、実に様々なものがこもっている。哀しくて辛くて痛くて、でもだから、大きな声で歌おうよ、喜びの歌を歌おうよ、今自分がここに生きてるってことを思いきり歌おうよ。彼の作品を目の前にすると、私には、作品たちがそんなふうに言っているように思えてならない。上澄みだけではないのだ、生きてるってことはきれいごとじゃすまされない。でもだからこそ、生というのは美しいのだ、と。私は、彼の作品から、そんなことを教えられる。
 日本人の、現存する作家で、これほどに真っ向から生を謳い、生を愛する作品、作家というものを、私は他に知らない。

2004年3月9日火曜日

DIDIER SQUIBAN 「BALLADES」

 私は海が好きだ。これでもかというほど好きだ。今でもはっきり覚えている。海を初めて目の前にした時、あぁ私はここで死ぬんだ、と思った。それは感傷などではなく、むしろ満足や恍惚に似たもので、私はここで死ぬことができる、という思いは、私をあたたかく満たした。けれども当時カナヅチだった私は、海とどうしても友達になりたいんだと言って体育の先生を捕まえ無理矢理指導を乞うたのだった。泳げるようになり、潜ることが得意になった頃は、大人になったら海女になるんだと真剣に考えてもいた。学生の頃はだから、毎日海に寄り道した。海面に光の道をつけ、やがてぽとんと水平線に落ちてゆく太陽。それを合図のように、がらりと色を変え音を変える海。一日たりとて同じ姿はなかった。常に常に、変化し、それは私に、不変のものなど実はこの世の何処にもないのだということをそっと教えた。
 このアルバムは、海をテーマに作られているのだという。ディディエ・スキバン。聞いたこともない名前だった。が、海という言葉に惹かれ、私は買った。
 早速聞いてみる。ジャズの要素を多分に含んだピアノの音色。私は正直に言うと、ジャズはあまり好きではない。長年クラシックピアノを弾いてきて、どっぷりクラシックに慣れ親しんだ私には、ジャズのあの独特な匂いがどうも身体に馴染まないというのが理由だ。しかし、スキバンの旋律は、そんな私の耳にあまり違和感なく滑り込んでくる。それは、そこに海があるからだ。夜闇が徐々に白んでゆき、やがて燃えるような太陽が顔を出して水平線を一直線に割ってゆく、あのときの海の光り輝く様。雨雲がずんとのしかかってくるようななかで、まるで幼い子供のように雨粒と戯れはしゃぐ波の様。朗々と、今という一瞬一瞬を舌の上でじっくり味わうように横たわる様。降り注ぐ昼間の光をくすぐったいといわんばかりに弾ける波の様。声に出しては何も言わないけれども、そこに在て、じっとこちらを凝視する海の色。私の知っているありとあらゆる海が、音となってこのアルバムの中に詰まっている。もちろんその中には私の知らない海もあって、あぁこんな雄々しい、或いはこんな柔らかな海もあるのか、と、私は音の中で立ち止まったりする。また一方で、私の知っている海はもっとどす黒く、鉛のようで、前に立つ私を威嚇し飲み込まんとするような荒々しさがあったよと、言ってみたくなったりもする。
 海はよく、生きとし生けるものの母だと言う言葉を耳にするが、このアルバムには、母なる海だけじゃない、父としての海も幼子としての海もいる。海をただ一日、或いはただ一時、眺めただけでは知り得ない姿。海を肌で感じ取っていなければ生まれないであろう音が、ここには詰まっている。
 あなたにとって海とは何か。もし、毎日を営んでゆく中で海という言葉を海という姿を心に浮かべることが一瞬でもあるのなら、あなたにもこの音たちは何かを語りかけてくるかもしれない。
 何かをしながらではなく、このアルバムをかけたときには、余計なことは何もせず、ただ黙って、この音たちに身体を任せていたい。そう思ってしまうような、一枚である。

2004年3月4日木曜日

「自画像との対話」黒井千次著 文藝春秋刊

 自画像とは一体何であろう。

 自画像というものが生まれるまでの絵画というのは(風景画であったり肖像画であったり)、あくまで制作者と対象との関係の上に成り立っていた。つまり、制作者と外界である世界との関わり、その接点の在り方を示すものとして、絵画は存在していたといえる。
 しかし、自画像はこの点で大きく異なる。描く(描かれる)対象と制作者とが一つに重なり合っているからだ。ひとたび絵が完成したならば、その絵画は客観的に存在してしまうものであるにも関わらず、である。
 人は、自分で己の姿を見ることは当然の如くかなわない。それを唯一可能にさせるのが鏡である。恐らく君も私も、今日これまでの間に一度は鏡に映る自分の姿を目にしていることだろう。それはもしかしたら、睡眠不足で腫れぼったい顔をしていたかもしれないし、もしかしたら昨日の幸せな夢をいっぱいに吸い込んで晴れやかな顔をしていたかもしれない。どちらにしても、それが私たちがこの眼で捉えられる自分たちの顔である。そして、その顔は、姿は、実は虚像なのだ。鏡が映し出す虚像。どこまでいっても虚像は実像にはなり得ない。しかし、私たちが自分を確認するには、この虚像を頼りにするほかない。
 美術界に、独立した作品としての自画像が現れたのは、十六世紀頃からだという。また、金属鏡に代わって精密に像を映し出すガラス鏡が発明されヨーロッパに普及したのも、十六、七世紀であったそうだ。つまり、ガラス鏡の出現・普及の時期と、自画像の誕生の時期とは、ほぼ重なり合っている。鏡を覗くという行為、それは自分を見つめるという行為である。自画像を描いた作家たちは、一体どれほどにこの鏡を見つめたことだろう。同時に、どれほどにこの鏡から眼を逸らしたことだろう。自分というものは、自分自身であるからこそ近く、同時にこれでもかというほどに遠い存在といえる。近いからこそ見えず、でもだからこそ知りたい、最も親しく、同時に遠い存在。
 私たちは鏡を見る。そこに在る、鏡の中の自分。あくまでもそれは虚像。しかし、それが唯一自分の眼で捉えられる自分の姿。
 つまり、自画像を描くということは、自分の眼では決して捉えることのできない、実像としては捉えることのかなわない自分というものを描き出す行為。見えないものを見ようとする、画家の自己凝視、自己発見の行為であるといえる。
 そして著者は指摘する。そうした自画像はとても危険な絵画であるのだ、と。

「自画像は、何よりもそれを描く本人にとって危険な絵画といわねばならぬ。自己を外界に向けて曝そうとするためである。と同時に、描く本人をもまた、危険な人間とせずにはおくまい。おそらく自己を深く掘る人は、他人をも掘り、外界をも掘削する」。

 この本の中には、十八人の画家たちとその自画像とが紹介されている。この十八人の画家とそして自画像と相対するとき、私たちはそこに何を見出すのであろう。苦悶か、葛藤か、それとも恍惚の表情か。
 それらは、すべて自分にはね返ってくることを私たちは忘れてはならない。その自画像は恐らく、作者であり、同時に、見る私たち本人であるからだ。何故なら、その像の中に何かしらを見出すのは、恐らく私たち自身の内にそれが存在しているからだ。
 君は君であって私は君ではない。
 しかし、君の中に私が何かを見出すとき、それは、私の中にも存在する。君の中にそれを私が見出すのは、私がそれを持っているからに他ならない。
 画家はカンバスの上に自分を曝した。それが自画像であり、そこには汚物も憎悪も歓喜も、人間を形作る要素が至るところに散りばめられていることだろう。そしてまた、そんな絵と向き合う時、私たちは否応なくそこに自分を見出す。カンバスの上に曝されているのは、決して作者自身だけではないのだ、それを見る私たちもが、曝されている。
 自画像と向き合うこと、とはまさに、私と「わたし」との対峙である。

 あなたは今、この一枚の自画像の内に、一体何を見るのだろう。

2004年3月2日火曜日

「かんがえるカエルくん」「まだかんがえるカエルくん」「もっとかんがえるカエルくん」 いわむらかずお作 福音館書店

 カエルくんとその友達のネズミくん。ふたりはいろいろ考える。
 たとえば。
「よるがくるね」
「よるはどこからくるの?」
 かんがえているカエルくん
 よるをさがしているネズミくん
 よるをさがしているふたり
「じめんのしたからよるはくるんだ」
「そっか」
「そらはあかるいけど、じめんはくらい」
「あのきのねもとからよるがくる」
「あのくさのねもとからよるがくる」
 かんがえている
 よるをさがしている
「だけど どうしてよるはくらいの?」

 彼らのやりとりは、そうやって続く。何処までも何処までも。ふたりの「なぜ」「どうして」は、とどまるところを知らない。そしてふたりの「なぜ」「どうして」は、とてもとても素朴なのだ。え? 言われてみると…と、大のオトナが言いたくなるくらいに。
 オトナになると、多分あちこちで、知っているふりをする。たとえば先に挙げた夜を、私たちはどう説明するだろう。少なくとも、地面の下から夜が来るとは、誰も考えまい。よる→くらい→くらいのはじめん→じめんからくるのだ、なんて、間違っても言うまい。ましてや、夜はどうして暗いの、なんて子供に聞かれれば、「太陽が沈んだからだよ」と、夢もへったくれもないようなことをすっと言ってしまうのがオチだろう。朝が来て昼が来て、やがて夜が来て。そしてまた太陽が昇ればそれが朝なのだ。大人は多分そうやって、一日を順々に捉える。そこに疑問の余地は、多分、ない。オトナにとって、それは、知恵であり、術なのだ。
 でも、オトナじゃない、コドモにとっては違う。そんな知恵なんて、術なんて、クソ食らえだ。
 だからこの本をひらくと、いたるところで、ふふふと笑えてしまうのだ。そうそう、そうだよね、と。言われてみればそうだよね、何故だろう、どうしてだろう、と。
 一日を上手にやりくりするために、人はいろんな習慣を作る。それに自分を慣れさせ、極端な表現かもしれないが、或る意味自分をベルトコンベアの上に乗せて、生き易いよう、生き易いようにリズムを作る。ひとつひとつのことに立ち止まっていたら、きりがないから、できるだけ上手に、楽に生きられるように。
 でも、そんな毎日に、疲れることもある。あまりにいろんな規則を作って、あまりに自分を枠にはめて、そうやって歩いてゆくのは楽かもしれないけれども、同時にちょっとつまらない。だから立ち止まる。立ち止まって、いつもは見過ごしている空を見上げたり、いつもなら目にもとまらない看板に立ち止まってみたり。そうやって見てみると、自分の周りは、あれ?どうして?が散りばめられていることに気付く。
 なぜ? どうして?
 だから、当たり前に過ごしている毎日に立ち止まりたくなったとき、私はこの本を開く。そしてふふふと笑う。そうそう、と相槌をうつ。そして本を閉じ、空に向かって、風に向かって、深呼吸する。
 そう、この本たちは、私の大切な、深呼吸の為の本である。

2004年3月1日月曜日

L'oeuvre de Camille Claudel catarogue raisonne カミーユ・クローデル作品カタログ レゾネ/監修レーヌ=マリー・パリス

 これは私の偏見かもしれないが。芸術家が男性でなく女性である場合、純粋にその女性芸術家の作品・実績にスポットが当てられることは少ないと思われる。作品にではなく、むしろ、その人生、生き様にこそ光が当てられ、人々の注目を集めることの方が多いと言える。カミーユ・クローデル(Camille Claudel,1864~1943)の場合もそうであろう。

 オギュースト・ロダン(Auguste Rodin,1840~1917)の弟子であり、共同制作者であり、そして愛人であったカミーユ。そして、詩人、劇作家かつ外交官であったポール・クローデル(Paul Claudel,1868~1955)の姉カミーユ。後半生はパラノイアに陥り、精神病院へと収容されることとなったカミーユ。
 彼女の復興運動が興っても、女性であることやその激しい生き様にこそスポットは当てられ、彫刻家としての彼女が知られるようになるまでには長い道程を要した。今もまだ、私から見ると彫刻家カミーユ・クローデルとしての知名度は、まだまだ足りないように思う。つまり何処までも「人間あるいは女性カミーユ・クローデル」であり、「彫刻家」という冠は、何処かに置き忘れられてしまったかのような。
 しかも、ようやく作品について述べられる機会を与えられれば、今度はロダンとの比較ばかり。ロダンの影響下でのカミーユ彫刻ばかりが取り上げられるという始末。
 確かに、あの時代、ロダンの彫刻は衝撃であった。脅威であった。その影響はフランスに留まらず世界へ伝播し、日本にも当然の如く伝わった。日本近代彫刻家たちの多くが、ロダンを父と、師としてあがめたような時期もあった。そのロダンの愛人ともなれば、ロダンの影響をどれほど強く受けたかとみられることは、いたしかたがないともいえる。また、ロダンは、彼の作品制作の主要部分の殆どを、弟子カミーユに委ねていた事実もあり、ロダンの作品とカミーユの作品に、その主題に、幾つもの接点が見出せるのも事実である。
 しかし。カミーユ・クローデル、彼女の彫刻には、ロダンと出会う以前に、そのロダン的要素とでもいうべき力強さ、女とは思えぬほどの大胆さがすでに宿っていたことを、私たちは忘れてはならない。それは、ポール・デュボワの有名な言葉、まだロダンの存在はもちろんその彫刻のことも全く知らずにいた年頃のカミーユに向かって「君はロダン氏に習ったのかね?」といわしめた実力が、十分に証明してくれよう。それだけではない、彼女の初期の試作品についての唯一の証人、マティアス・モラールは、次のように語っている。「実際、特筆すべきことは、この初期の試作品が動きの点でも形式の点でも、荒々しい激しさを証明していることである。…これはまさに、ロマンティックなドラマである」。そうした彼女の資質は、最初の師アルフレッド・ブーシェのもとで見事に開花したものであって、そこには決して、ロダン彫刻と彼女の彫刻とを結ぶ接点はない。また、この頃のカミーユに関してのマティアス・モラールのさらなる記述をみれば、「この時期から、マドモワゼル・カミーユ・クローデルはフォルムに大きな配慮を払うようになり、解釈し、知性と高貴な感性をもってそれを洞察するようになる。彼女の忠実な手から創り出される作品は、決して心自体を裏切ったり縮小したりすることはないであろう。これから後、彼女が私たちの目の前に鮮やかに表現していくのは、自然の悲劇的な、あるいは抒情的な美なのである」とある。また、カミーユ彫刻研究の第一人者として知られるレーヌ=マリー・パリス氏は、カミーユがロダンの工房に下彫工として入った頃には、彼女はすでに自分自身の作品の作風を確立していたと証言している。
 つまり。彼女のロダン的要素は、彼女に生来備わっていたものであり、それがロダンのもとで眩しいほどに洗練されたとこそ考えるべきなのではないだろうか。「カミーユ・クローデルの作品は、(ロダンとの)訣別と否定によってではなく、掘り下げ濃縮することによって師(ロダン)の影響を脱しようとする弟子の、必死の努力を明らかにしている」(レーヌ=マリー・パリス)。
 これは、あくまで私の観だが。パリのロダン美術館を訪れた折、私はその門に立ち美術館を目の前にした時、眩暈を感じた。館が叫んでいるのである。いや、館の中からこちらへと、幾つもの声が突き刺さってくる、そんな錯覚を覚えた。それはとても息苦しく、地を這うような、苦しみにも似た、そう、呻き声だった。館に入って、そこで私は呻き声の正体を知る。ロダンの彫刻が、館にひしめくありとあらゆる彫刻が、うめいているのである。苦悶に悶えているのである。
 一方、ロダン美術館の中の小さな一室、カミーユ・クローデルの部屋としてもうけられたその一室に入ると、突然あたりはしんと静まり返る。それまで私の耳にぐわんぐわんと押し寄せて来た一切の声が消えるのである。そして知る。あぁ、ロダンの彫刻が外へと叫ぶのならば、カミーユの彫刻は内へ内へと向かう声、ひそひそと小さくおしゃべりする彫刻なのだなということを。それは、まったく対極といっていい。ロダンの彫刻、そしてカミーユの彫刻が持つその性質の異。
 そんな二人の彫刻を前にして、当時こう思ったことを今でもはっきりと覚えている。ロダンの彫刻が見る者に感動を与えるものであるならば、カミーユの彫刻は、共感を与えるものなのではないか、と。
 そして、私がカミーユ彫刻を見つめるときに興味深いと思うことの一つはこの点にある。なぜなら、こうした「共感」というものは、当時西洋にはない感覚であったからだ。「いつも何かはっと驚かされたり、面白がらせていることを求める我々には、あの親密な共感---もしこう言ってよければ、あの魂の潤いというものが欠けているのです」(ポール・クローデル「朝日の中の黒い鳥」より引用)。余談かもしれないが、ロダンを師と仰ぎ、その言葉を聖書のように愛したとして知られる日本の近代彫刻家の一人である佐藤忠良氏が1981年にロダン美術館で個展を開き大成功を収めた折、それを評したル・モンド誌美術記者がこんなことを記している。「(佐藤の彫刻は)淡々として美しい命の表現だ。ロダンというよりカミーユの結晶だ」。そして。もう一度この日本の近代彫刻史を省みてみると。ロダンを師として、父として敬い慕った何人もの日本の彫刻家たちが、徐々に徐々に、ロダン彫刻から離れていったことを思い出さないだろうか。ロダンの彫刻を、ただ荒々しいばかりだ、と、或いは叫ぶばかりで余計な肉をつけすぎた肥満児のようにさえ見える、と。そうして彼らは、たとえば高村光太郎など、それまでの作品からふわりと離れ、まるで工芸と思えるような領域へと立ち戻っていった。内へ内へと囁くような小さな彫刻へと。
 そうした歴史や事実を省みるとき、私は、思うのである。日本の近代彫刻の師は、実はロダンではなく、カミーユ彫刻ではなかっただろうか、と。荻原守衛たちがロダンの工房を訪れた頃、カミーユはロダンの工房の下働きをしていた。そしてその当時、アトリエには、山のように弟子たちの彫ったものが散乱していたという。そのことを思うとき、守衛たちは実は、ロダンの作品というよりもカミーユの彫ったものたちに心惹かれていたのかもしれない、と。
 そんなふうに私は夢想しつつ、カタログをめくる。そこにあるのは、決して大きな声を出さない、ねぇねぇ、こっちよ、と、耳元で囁いてくるような作品たち。それは、とてもここちよい響きを、私の内にもたらしてくれるのである。
 カミーユ・クローデル彫刻をそうやって、いくつもの角度から捉えた一冊が、この本である。日本でカミーユ・クローデルに関する本といえば、おそらくみすず書房から出ているレーヌ=マリー・パリス著「カミーユ・クローデル」などが挙がるだろう。が、私はあえて、この、カタログレゾネの方を推薦したい。その作品ひとつひとつを、もう一度、その目に捉えてみてほしい。その人生よりも、彫刻家カミーユ・クローデルの作品群をこそ。

2004年2月26日木曜日

「朝日の中の黒い鳥」ポール・クローデル著、内藤 高訳、講談社学術文庫

 1920年代、外交官として日本で過ごしたポール・クローデルは、日本を訪れるずっと以前から姉カミーユ・クローデルの影響もあって日本文化へ非常な興味を持っていた。その彼の目から見た大正時代の日本、日本で生まれ育った日本人では見落としてしまいがちな、日本ならではの風土と文化が語られているのが「朝日の中の黒い鳥」だ。
この著作は、1927年、クローデルが日本を離れてまもなく、エクセルシオール社から出版されたのが初めでその後何度か版を重ねているが、この文庫本は、1965年にガリマール社から発行された「クローデル散文集の中に収められているものを底本として訳出されている。
 彼は外交官として日本に滞在する間、実に多くの日本美術を探求し、各地を旅行して回った。そして、かつて日本を訪れた幾人もの芸術家や文学者、哲学者たちがおこなったような、日本の光景を自分の感情の赴くままに軽妙にセンチメンタルに描写するのではなく、彼自身が実際にそこに身を置いた様々な情況や旅行や日々の中での会話、読書などから、日本の文化を、日本人という民族を、実体験として理解し、掴み取り、ここに記している。
 本著の中から幾つか引用したい。

「日本人の生活とは、ちょうど旧家の子供が家の古くからの祭りに加わるように、この厳かな暦の運行に加わることなのです。日本人は自然を服従させるというよりも、自らがその一員となること、自然がとりおこなうさまざまな儀式に参加することへと向かいます。自然を見つめ、それと同じことを繰り返し、自然がもつ言葉と自然の衣裳を補い完全なものにしてやる。日本人と自然とは同時に生きているのです。人間と自然との間にこれほど密接な理解が存在し、これほど明瞭にお互いがお互いの刻印を宿し合っている国はありません。」

「われわれヨーロッパ人の観念とはすべてを言うこと、すべてを表現することです。枠の中はいっぱいに満たされており、それを満たしている様々な事物の間に打ちたてられる秩序、線や色彩の構成から美というものが生まれます。これに対して、日本では書であれデッサンであれ、一枚の頁の中でもっとも重要な役割は常に余白の部分に委ねられています。あの描かれた小鳥、木の枝、魚などはある不在の場に挿絵を添え、この場の存在を示す役割しか果たしていません。想像力の働きがその場に喜びを見出すのです。」

「日本人の精神がそのもっとも本質的な特性の中でもとりわけ、たとえば忍耐心や注意力のような特質に磨きをかけてきたとしてもどうして驚くことがあろう。意志のこれほど巧みで厳しい訓練、壊れやすい神経組織の上にこれほどピンと支えられた監視力、精神をこんなにも繊細で入念に行動に適応させる能力、これらのものを一体他のどの国に見出すことがあろうか。」

 これは、クローデルがその当時日本文化そして日本人に対して抱いた礼讃のほんの一部である。これを読むとき、私たちは気付きはしないだろうか。これらクローデルがたたえた日本国が持つ独特な美質や日本人の気質は、今現代を生きる私たちにとって、もうすっかり過去の遺物になっていやしないかということを。絵画や版画といった美術品に特に特徴的に現れてくる余白は、かつて、日本文学においても「余白の美学」として立ち現れたものであった。しかし、今、私たちを取り囲むこの現状、現実社会を省みるとき、それは一体何処に存在しているのだろう。過剰なほどに言葉にし、表現し、意志表示をしなければ存在さえ容易に無視され下手すれば押し潰されてしまう性急な社会。それでいながら、差し迫った問題を後回しにし、或いは見ないふりをし放棄する、その結果、幾つもの問題が山積みになったまま腐臭を放っている。そうなった現状に自らも加担していたにも関わらず、周囲を批判するばかりで、己の責任は何処までも回避してゆく。そこから生じる慢性的な疲労感にすっかり覆われた人々の心は、物質的欲求にその殆どが占められ、想像力の働く隙間など、もはや殆ど残っていない。

 彼は本著最後に収められている、離日後に書いた「日本への惜別」でこう述べている。

「こうした陰鬱な情景に、さらにおそらくもっとも先行きを不安にする事柄を付け加えなければならぬ。日本の大学に関することである。日本の大学は比較的数が多く沢山の学生が通っているが、毎年限られた就職口に大量の学生を吐き出し、多くの落伍者を生んでいる。これらの若者たちは非人間的な勉強と非常な犠牲を払ってどうにかこうにか卒業免状を手にするに至るのである。…中略…ヨーロッパ風の服装をした若者たちのうす汚れてしまりのない姿は、この国にもともと存在していた衣服の厳粛さ優雅さ清潔さと好対照をなし、東京でもっともみすぼらしい光景の一つである。これらの飢えたる人々はどうなるのか。」

 「とりわけ極東の国々における現在の局面がもつ本質的で根本的な重要性を理解するとき、日本がその高慢さ、その伝統、迷信的習慣、その名誉、そして今日まで極東における権利を構成してきたものすべてを後に捨ててさらに生き長らえるためには、いったいどのように対処していけばいいのか。たえず飢饉に脅かされている何百万の人々を、平和で民主的な国にどのようにして変えていくのだろうか。
 そのことを待ちながら私が別れを言わなければならないのは古い日本、私がかつて長く暮らし強く愛したあの古い日本に向かってである。」

 彼の、日本に対して抱いた不安はおおむね的中したといって過言ではないと私は思っている。自分の周囲、身の回り、その日常を省みれば、それは容易に明白になる。別に私が今更声を大にしていわずとも、殆どの日本人がそれは実感していることに違いない。日本は日本であることをいつのまにか恥じるようになり、もともと持っていた物真似の巧みさを使って欧米を追いかけ、そうしてくる中で、次々、自らの衣を脱ぎ捨て焼き捨ててきた。それは、いいかえれば、日本人であることを捨てるに等しいことでもあった。でも、それをすすんでやってきたのが日本人である。その結果在るのが、今のこの世の中なのだ。

 そしてもうひとつ、私がおもしろいと思った部分が幾つかある。それは、「この動く大地の上では、日本人は…自らをできるだけ小さく、できるだけ軽くする(ことで生きてきた)」「そして、日本人は自分の家と家財道具を周囲の状況に合わせてきたように、自分の心もそれに合わせてきた」「(大震災に襲われ廃墟の下に埋もれた犠牲者たちの声も)「助けてくれ!こっちだ!」というような差し迫った叫び声ではなかった。「どうぞ、どうぞ、どうぞ」(お願いします)という慎ましい懇願の声だった」などとクローデルが示す日本人的気質だ。これは、クローデルが示したときは、日本人の美点であったはずだ。しかし、この日本人的特質は妙な変貌を遂げた。はっきりと口に出して物事や精神を表現しきる術もうまく使えぬままに、個人と個人の繋がりを関係性を育む前に個人の権利ばかりを主張するようになり、気付けば、自分さえ良ければというところに行きついてしまった。今、私たちを取り巻く現状を、自分自身を含めた日本人を振り返ったとき、すぐそこに蔓延していないだろうか。自分さえというこの傲慢さが。

 姉と揃って親日家であった彼のこの著作には、丁寧に丁寧に、そして愛情とともに冷静な目で大正時代の日本が語られている。そこには、私たちが今失ってしまった日本人らしさ、誇りにこそすれ失ってはならなかった日本人らしさが詰めこまれている。
 しかし、私はここで、今の私たちの有様を否定しようとしているのではない。むしろ、今の私たちは私たちにしか持てないものを持っていると信じている。でもそこに、魂の潤いはあるのだろうか。誇りはあるのだろうか。私は、一日本人として、一個人として、胸をはって生きていたい。ただそれだけを思いながら、毎日をこつこつと生きている一人だ。だからこそ、単に生き急ぐばかりでなく、時に立ち止まり、自分が拠って立っているこの大地に沁みこんだ血や汗、歴史(時間)を振り返り、自分に常に問いかけ続けていたいのである。
 私に、日本人の誇りはあるか。いや、この世界を担う一人の人間としての誇りは、あるか、と。

2004年2月25日水曜日

furuya「Christine Furuya-Gossler Memoires,1978-1985 クリスティーネ フルヤ=ゲッスラーメモワール 1978-1985」(写真:古屋誠一、光琳社出版、定価4500+税円)

 写真家古屋誠一氏による、亡き夫人のポートレート。
 これほどまでに張り詰めた、夫と妻との関係、その緒の形を、私はこんなふうに写真集で見るのは初めてだった。夫婦でありながら、全くの第三者としての眼と眼、その対峙の仕方、私は、綴じられた写真の束を見ながら、ある種の戦慄さえ覚えた。時に虚ろに、時に切実に、時に投げやりに、時に痛切に、声なき声をもって、そこに在る人を、ひたすらに撮り続けるという行為。同時に、撮られるという行為。
 今これを書くにあたって、再度この写真集を前から順々に、そして後ろから順々に見つめ直してみた。どちらから眺めても、ここにある視線はこれでもかというほどにぴんと張り詰めている。こうやってカメラを挟んであちらとこちら、対峙するということがどれほどエネルギーを費やさねば為し得ることのできないものであったか。いや、もしかしたらそんなもの意識せずにあちらとこちらで本人たちは向き合っていたのかもしれない。でも、だとしたら余計に、この視線のもつ緊迫感、切迫感は、哀しい。同時に、切ないほどいとおしい。
 この写真集に対する批評を幾つか読んでみると、そこには、愛のない写真だといったコメントが記されていたりする。が、私には逆に思える。いや、それも違うかもしれない。なんというか、この写真の束を見つめるほどに、古屋氏とクリスティーネ氏との間に紡がれた、その二人のものでしかない、その二人のもの独特の愛が、そこかしこに張り巡らされているように私は感じる。それは、見つめている私までもが息を詰まらせてしまうほどに。
 ページをめくるごとに彼女の瞳の奥に視線の奥に広がってゆく虚空、逆を言えば、ページを遡るほどに温みをもってゆく彼女の瞳や体温、そしてそれに対して常に全く逸れることなく対峙するカメラと古屋氏。
 彼女と出会ってから彼女が自殺するまで、彼女が自殺してから彼女と出会うまで。この写真集は、そうやって前から後ろから、それぞれに眺めることができる。ぱらぱらと適当に途中をめくるのではなく、前からか後ろからか、本の表紙からか裏表紙からか、時間を遡るか時間を辿るのか、それを、見る者に選ばせてしまうような引力がある。

 ここには、人と人との関係がどれほどに緊迫したものであるのか、人が人である時にそれがどれほどの切実な叫びをもってしてあるものなのかを省みさせる何かがある。私には、そう思えてならない。

2004年2月24日火曜日

「幻世の祈り---家族狩り 第一部」天童荒太、新潮文庫、476円

 「新・家族狩り 五部作」と大きく書かれたポスターを書店で見つけたのはついこの間のことだった。娘に絵本を買ってやろうと本屋に立ち寄り、レジに並んでいるときにふっと私の視界をかすめた。急いでいたので、部分だけをとりあえず頭にメモし、私は本屋を後にした。

 翌日、家の近くの書店へ出掛け、店員に訊いてみる。が、なかなか要領を得ない。三軒目でようやく、第一部「幻世の祈り」を手にすることができた。これから毎月一冊ずつ刊行される予定だという。
 私にとって、家族というものが孕む問題は他人事ではない。家族というものについて長い間悩み苦しみ、血反吐を吐いてきたという記憶があるからだ。
 私が大人と呼ばれる年頃になった頃、アダルトチルドレンや機能不全家族といった言葉が世間でも囁かれるようになった。私も一時期、その言葉にすがり、逃げこんだ覚えがある。(でも、そういった言葉にすがったり逃げこんだりしているうちは、何も変わらない、問題を自ら受け容れ消化しなければ何も変わらないことを、今はもう知っている。)
 天童氏が1995年に世に送り出した単行本「家族狩り」は、そんな私から見ると、社会小説と思えた。それは多分、今回の第一部あとがきに自ら書かれているように、天童氏が

「私には、いまのこの複雑な世界を把握したいという欲求があります。やりきれなことばかり起き、報われることの少ない世の中に、それでも生きる価値を、物語を通して模索したいという想いがあります。」

といった姿勢で、常に仕事(作品)と向き合っているが故に生まれたからと私は受けとめている。
 第一部を読み終えて。まだ私の中は混沌としている。この混沌には、自分の家族という像も、私が知る幾つかの家族や個人同士の緒、そして個人が世間というものになったときに生まれてしまう狭く冷たい、凶器にさえなり得る目線など、様々なものが含まれている。多分、五作全てを読み終えて、しばらくの時を経たとき、私の中で、一つの形になるのだろう。それを私は今からとても楽しみにしている。

2004年2月23日月曜日

「ビリー・ジョーの大地」カレン・ヘス作、伊藤比呂美訳、理論社

 1934年、大恐慌の真っ只中を生きた14歳の少女の日記。日記というが、訳されたそれはまるで散文詩集のよう。だから読み進むほどに断片になって散らばる印象が、どくどくと沸き上がって来る。断片すぎてそれらは、すぐどれと繋がるのか迷うことさえある。複雑なジグソー・パズルのように一見見える。が、それが幾つか繋がった時、強烈な光が放たれる。

 「あたしたちの将来はカラカラに乾いて/土埃といっしょにどこかに飛んで行ってしまったことを知る」(P55)「うすやわらかな花びらが太陽の中で焦げてゆくのを/あたしは見ていられなかった」(P110)
「そして今/その悲しみは/階段をのぼりつめて、すぐそこまで近づいてきた。/テキサスぐらい大きくなって/まっすぐこっちに向かってきていたというのに/あたしたちはそれが目に入らなかったというのか」(P113)
「いっしょに/ならんで/土埃の中をぱふぱふ歩いてゆくにつれ/あたしは/あとのことぜんぶについて/自分自身をゆるしている。」(P269)
「今までずっと/この土埃から抜け出そうと必死だった。/でも現実は/土埃もあたしの一部だった。/土埃があるからあたしがいる。/そして、こんなありのままのあたしはとてもいい。/自分で見てもいいなと思える。」(P290)

 そうして散りばめられた言葉たちは、まるで彼女の命の煌きのように、こちらの胸を目を射るほどにきらきらと輝いている。

2004年2月20日金曜日

mecano / descanso dominical メカーノ「スペインの玩具箱」

 学生の頃、部屋にラジオは必須だった。両親が寝静まったのを見計らって、スイッチを入れ、耳をそばだてなきゃ聞こえないようなボリュームで、毎夜毎夜聴いた。中学一年生だったか二年生だったか、社会科の宿題で「始皇帝」について調べて来いと言われた夜もラジオを聴いていて、いきなり「がはははは」と豪快に笑う中島みゆきのオールナイトニッポンの音に、椅子から飛びあがらんほど驚いたりもした。

 この歌も、最初はラジオで耳にした。誰が紹介していた歌だったかは覚えていない。でも、歌が流れ始めてすぐに、私はこの歌手名と曲名をメモした。それは、スペインのメカーノというグループの、「マドリッドにひとり」だった。
 当時、輸入盤という代物をまだ知らなくて、私は毎日のようにあちこちのレコード屋を回ったが、メカーノなんてグループのアルバムは何処にもなかった。でも諦められない。探して探して。そうしているうちに三年の時間を経ていた。
 あった! 見つけた時は夢かと思った。当然レジに走り、その勢いのまま家に帰り、私はそのアルバムをかけた。
 ボーカルの、水彩絵の具を思わせるような透明度を持ちながらしっかり芯の在るその声色、その後ろで奏でられる、曲毎に跳ねたり澱んだり怒涛のように流れ去ったりする音たち。スペイン語をまともに聴いたのは、私にはそれが初めてだった。でも、知らない言語なのだけれども、そんなのは飛び越して、すこんと私の心の中に落ちてきた。
 何度も繰り返し聴くうち、スペイン語が知りたくなって、全く知りもしないのに辞書を買った。四苦八苦しながら辞書をひき、訳詞を読み、一曲だけでも歌えるようになりたいと思ったりもした。
 決して押しつけることもなく、ふわっと浮いた風船みたいに心地よく、今も私は時折々にこのアルバムを聴く。そうするとなんだか、ふんふんと鼻歌を歌いたくなってくるから、アルバムを聴き終えた後私の周りには鼻歌が広がる。家事をしながら、原稿を書きながら、日記を記しながら、ふんふんふん、と、好き勝手なメロディで鼻歌を歌う。歌ってこんなふうに、心のしこりを軽くしてくれるものだったよのね、なんて、一人勝手に口元を緩めてみたりする。

2004年2月19日木曜日

KEITH JARRETT & MICHALA PETRI / BACH SONATAS

KEITH JARRETT & MICHALA PETRI / BACH SONATAS
 ヨハン・セバスティアン・バッハ ソナタ/ミカラ・ペトリ(リコーダー)、キース・ジャレット(チェンバロ)

 このアルバムは、いつも行くレコード屋を二時間ぐらいうろうろしていて見つけたもの。私の場合、初めて買うものについては、たいてい直感で。このアルバムも、手に持った瞬間、買うということを決めていた。中身の吟味もせずに。
 家に戻って早速かけてみる。スピーカーから零れ落ちた最初のリコーダーの音。あのとき受けた衝撃は、今も忘れられない。

 天使の音だ。おかしな表現だと思うが、そう思った。まるで天空の果てからすぅっと地上に降りてきた、そんな音。澄みきったその音は、私の体を震わせるに十分だった。
 キース・ジャレットのチェンバロの音よりも何よりも、ミカラ・ペトリのこのリコーダーの音。今これを書きながらもこのアルバムを聴いているが、ちょっと油断すると、目の奥がじぃんとしてきて、視界が滲んでしまいそうな気配。
 音が音を紡ぎ、気配を紡ぎ、そうして高みへとまた昇ってゆく。この音の連なりは、天国へ続く階段を描いているかのように思える。
 ただ静かに目を閉じて、音にだけ体を、心を、預けていたい。そう思える。

 生きていると、いろんな音が聞こえる。音のない状態など、多分あり得ないほどに、この世界は音で溢れかえっている。
 そんな中にありながら、ぴんと、細い細い糸が張り詰めたような静けさを、このアルバムは思い出させてくれる。
 私にとって、かけがえのない、一枚。