2009年1月27日火曜日

■27日

 寒い。でも、これが本当に寒いのかそれとも暖かいのか、よく分からない。あのときはどうだったろう。冬のコートをちゃんと着ていたのだろうか。覚えていない。はっきりと覚えているのは今ではもう、黒のワンピースだけだ。
 今ベランダでは薔薇の苗たちとラナンキュラス、イフェイオン、ムスカリ、水仙が、それぞれに枝葉を伸ばしている。薔薇の苗はちょっと水をやりすぎたせいで早速うどんこ病になった。仕方なく病気の葉を全部摘む。ほとんど丸裸になった樹は寒そうで、でも凛として、立っている。見つめているとそれは不思議な光景だ。この寒さの中、背を丸めることもなくまっすぐに立っているその姿は。

 娘が起き抜けに言う。いい夢を見たよ。どんな夢? 赤ちゃんの夢。赤ちゃんの? うん。あなたが赤ちゃんなの? 違う、赤ちゃんができる夢? え、あなたに赤ちゃんができるの? 違う違う、ママに赤ちゃんができる夢。
 もう赤ん坊を孕むような年頃ではない私なのに、娘はそれをいい夢だと言う。そしてうきうきと朝の支度を始める。
 そういえば、娘を孕んだ頃、私はまだパニックや自傷行為の嵐のまっただ中にいた。幾つ目かに勤めた会社からも逃げだし、部屋に閉じこもり、毎日過去を見つめていた。そんなただ中で私は、娘を孕んだのだった。
 誰もが反対した。誰もが産むことを反対した。産むと言い張ったのは私だけだった。それまで服用していた薬を一切断ち、様々な不安を抱えながら、それでも私は産むと言い張った。
 不安は山ほどあった。妊娠したのではないかと思われる頃にも様々な薬を服用していた私は、まず、副作用の不安を抱いた。同時に、私のような罪深い人間が命を孕んでいいのだろうかと不安になった。機能不全家族に育った自分に子育てができるのかも不安だった。要するに、何もかもが不安だった。
 襲ってくるのは、パニックやフラッシュバックだけじゃなくなった。つわりや貧血も頻繁になった。切迫流産で早々に入院し、そこでは自傷行為の傷痕を看護婦から責められ、さらに自己嫌悪に陥った。
 転院、子宮頸管無力症、四六時中の絶対安静、早期流産の危険、貧血、嘔吐、数えだしたらきりがないほど、妊娠期間中は不安だらけだった。しかもその時期、私の心療内科の主治医は留守だった。唯一頼りになるはずの主治医もいない、味方は誰もいない。日々パニックに陥った。一日が一日ではなかった。延々と続いていく地獄のような時間の帯だった。
 そしてようやく出産。しかし出産後、すぐ、私は体を壊し倒れる。子育てをまともにできない自分を呪った。毎日泣いた。しかし。
 泣いても泣いても、娘は笑っていた。私がいくら荒れても、娘はすやすやと眠り、すくすくと育った。私が、自分にはやはり子育てなどできないのではないかとおののいている最中にも、彼女は育っていった。
 正直に言えば、彼女が三歳になる頃まで、私は頻繁にリストカットを繰り返した。娘に見つからないようにしながらも、それでも私は自分を責めることをやめなかった。自分を貶めて、追い込んで、傷つけることをやめることができなかった。
 彼女は言葉が遅かった。私はそのことをとても気に病んだ。やはり私には無理だったのではないかと、今更の後悔に何度も襲われた。
 でもやはりここでも、娘は自ずと育っていた。ある日突然、三歳になってまもなく、彼女は唐突にしゃべり出した。単語をつなぎつなぎ、私にアピールした。そしてある日、彼女は、私の左腕の赤々とした傷口を撫でて言ったのだ。ママ、痛い?
 あのときの、彼女が私を見つめる丸い丸い目を、私は、生涯忘れることはないだろう。まっすぐに、澄み切った、あの瞳。
 それから少しずつ、私は自傷行為から離れていった。その日からきっぱりやめることができたわけじゃない。何度も揺り返しは来た。けれど。
 彼女の存在は大きかった。

 今現在、私には過食嘔吐という自傷行為が残っているが、ODからもリストカットからも離れている。衝動に襲われはするが、それを納める術を何となく身につけた。そして。
 そして娘は、いつのまにか九歳になろうとしている。
 私の病の回復の過程には、これからも娘がぴったりと付き添っているだろう。私が死ぬ間際に省みた時には、その存在はきっと太陽のように眩しく輝いているに違いない。
 いまだに、ACの虐待連鎖はちまたで囁かれている。しかし、そうではない例もあり得るのだと、私は身をもって知っている。そうである限り、私は何度でも人生やり直しがきくことを信じていける。
 きっかけは人それぞれ、様々なんだろう。また、それに気づけるか気づけないかもある。気づけたなら、そこからまた道を修正し、歩いていけばいい。修正は恥でも何でもないのだから。

 窓の外、あふれる光。その下で凛と立つ薔薇の樹。私はこの樹のように人生に対し立っていたい。
 りんりんりん。
 りんりんりん。
 光降り注ぐ。
 両手広げてもあふれるほどの
 光が、今、ほら。

■十五年

 この一年間のことをどう振り返ったらいいのだろう。まだよく分からない。
 主治医がいなくなって数年、私は主治医の言葉を信じ、ただ待っていた。必ず戻るからそれまで待っていてという主治医の言葉を、私はただ信じ、待っていた。しかし、主治医は戻ることはなかった。そこには様々な事情が絡んでいたのだろう。けれど、私は主治医の言葉を信じすぎたが故に、その事情を鑑みるなどできる余裕はなかった。次々に変わる担当医。そしてもうこの先生しか残っている人はいないとなったとき、待合室の壁に一枚の小さな紙が貼られる。S先生は事情により戻ることができなくなりました。と。そしてそこには合わせて、先生の行き先も書いてあった。しかし、私にはとうてい、通うことのかなわない距離の病院だった。
 以来私は、医者というものを信じなくなった。信じられなくなった。またどうせ、という気持ちが生じてしまう。それでも、と何度も自分を叱咤する。一時は、ここから私は新たにやっていくのだと自分を納得させたこともあった。しかし。
 新しい担当医の方針は明白で、日々の悩みや躓きについてはカウンセラーと話をし、医者とは体調や薬の話少々のみ、というスタンスであった。私はそうした方法に慣れていない。慣れなくては仕方がないと分かっていても、体が拒絶する。なんとか自分を納得させかけたのも束の間、今再び、どうしても、この三分間診療の現状を受け容れられない状態で毎週病院に通っている。
 しかし、治療をしていくために、私の状況を話さなければならない。知って貰わなければならない。私は、現時点からでいいと最初思っていた。それが、カウンセラーが尋ねてくるのだ。これまでどんなことがありましたか、あなたはそれについてどう感じてここまできましたか、などなど。
 ようやっと、長い時間をかけて、自分なりに受け容れ始めた矢先のこの質問に、私は愕然とした。ここにきてまた、掘り下げる作業を再び私に為せというのか。あの掘り下げ作業に伴う痛みを再び味わえというのか。
 そんなの、いやだ。今はまだできない。そんな冷静にすべてを話せるなら、病院なんか必要ない状況に私は今いるだろう。私に無理に話をさせる前に、どうしてカルテを見通してくれないのか、とさえ思う。カルテを見ればすべてが分かるではないか、と。私が長い時間をかけて提出してきた書面が山のように、カルテには挟まれているのだから。
 そんなこんなで今日を迎える。これからどうやって、治療をすすめたらいいのか、私には今見えない。
 でも多分。多分私はやっていける。医師やカウンセラーとの関係が今のところうまく築くことができていないけれども、私は私なりに、うまくやっていける。私が自分を進ませようとする意志を失わない限り大丈夫だ。生き延びようとする意志を失わなければ、きっと。

 酷い発作は数えるほどしかなかった。不眠、偏頭痛、吐き気、過食嘔吐、離人症状、フラッシュバック、極度の緊張が続いての体の痛み、その程度の間を、私は行ったり来たりしていた。
 長い時間を省みてみれば、今年はずいぶん楽になったんだと思う。自傷行為は、過食嘔吐以外ほとんどなかった。

 長い長い真っ暗闇のトンネルから、少し、ほんわりと光の漏れる場所に移動した気がする。ただそれに私がまだ慣れていないから、戸惑う。目を覚ますたび、私は今どこにいるのだろうというような気持ちになる。
 光は何処からさしているのだろう。まだそれが分からない。全体が薄ぼんやりと明るい場所。だから光がどちらからさしてくるのか分からない。でも、少なくとも、今は光がほんのり存在する、それは間違いない。

 丸十五年。だと思う。十五年を経て私が得たものは。
 時は何よりの薬になり得るということなのかもしれない。
 いつの頃からかある種の諦めと、深い受け容れが始まった。もちろんそれに揺り戻しはつきもので、何度も何度も揺り返しにあい、何度も何度も倒れた。しかし。
 一度、受け容れようと自分で自覚したら、何度転ぼうと倒れようと、そのスタンスは変わることはなかった。今まで誰にも話せなかったことも、今まで見ることを避けていたことも、少しずつ少しずつ自分の中で消化できるようになっていった。もちろんまだ傷のままのものも在る。むしろそっちの方が多いかもしれない。それでも、いつか私はそれらを全部ひきうけて、歩いていくのだという覚悟は、できた。
 その覚悟ができると、一歩また進めた気がした。暗闇からほの明るい場所に出てきて、そして、そこには、ぼんやりと人影がうごめいていた。幾つもの人影が。
 その人影とは、私をずっと待っていてくれた人たちだった。見守っていてくれた人たちだった。遠くから近くからそっと、見守り続けてくれている人たちだった。
 そのことに気づいたとき、自傷の衝動をコントロールする術を、端っこだけかもしれないが、つかんだ気がした。

 今月に入り、自傷の衝動に襲われることは多い。たとえば、フラッシュバックで、何度も加害者に脅迫され行為を強いられたことを思い出すと、自分を引き裂いてちりぢりに引き裂いてやりたくなる。けれどもしその思い通りに自分を引き裂いたらどうなるか。
 私の娘はどうなるだろう。私の友人はどうなるだろう。私の父母はどうなるだろう。そういったことを少し、考えられるようになった。
 それでも過食嘔吐の衝動は抑えきれないことが多々あった。胃がちぎれるのではないかと思うほど食べ物をとにかく詰め込み、そしてトイレに駆け込む。そこには白い便器があって、私はそこに思い切り今食べたものを吐き出す。と。
 白い便器に、吐瀉物の上に、加害者の顔が浮かぶのだ。そしてやがてそれは母の顔に変わり。ゆらりゆらりと彼らは私の目の中に入ってきて、決して消えようとはしない。そして私はどうしようもない罪悪感にかられるのだった。

 一つ、大きな出来事があった。それは、父母が二人とも、病を負ったことだ。父は両目の手術をしなければならなくなり、母はインターフェロンの治療を始めなければならなくなった。それにともなって、父母は最初、ヒステリックな状態に陥っていた。これから向き合わなければならなくなる病を否定するかのように、最初あれやこれや拒絶症状を示した。今まで大きな病気をひとつもしてこなかった人たちだ。それは当然の症状だったのだと思う。
 しかし。
 私は長いことPTSDと向き合ってきて、病と向き合うことがどういう状況を生み出すかを何となくではあっても知っていた。だから、父母に時折いらいらしながらも、ある程度傍観することができた。
 それによって、私と父母の間に、もう一つ、新しい関係が生まれた。父母が私に弱音を吐く、という関係だ。これまでそんなことはあり得なかった。父母は絶対完全主義者であり、完璧主義者であり、いつだって勝利者であった。権威者であった。悪く言えば暴君であった。しかし、今回病を得たことによって、私と一つ、共通項を持った。それが、今、微妙に私たちに影響し始めている。
 父や母が私に弱音を吐くことによって、私は父母の痛みを知る。弱さを知る。それによって、私は、父母に優しい言葉をかけられる余力を得る。父母もそれを望んでいる。
 今まで私たちには、ただ上下関係以外のなにものもなかった。それが今、ようやく、理解し合おう、知り合おうという親和が生まれている。もちろん、長いこと正反対の状態を続けてきたのだから、すぐにすべてがうまくいくわけではない。しかし。
 今新たな局面を迎えたのは間違いはない。父母と私。それぞれに病を負うことによって初めて、お互いに理解しあえないのがすべてではなく、理解し合える部分もわずかではあっても存在することを、認め合おうとしている。

 今、ふと思い出していた。上司に最初強姦されたのが十五年前の明日。そして、そこから悪夢が始まった。君を守ると約束した編集長の指示によって加害者から直接の引き継ぎを強いられ、それによって生じた様々な出来事。そして一年後、私は自分が狂っていると叫んで自ら病院に飛び込んだ。
 あの頃のことを、私はきっといつまでもありありと思い出すのだろう。でも当時と今と何が違うかと言えば、私の中に、それらをも受け容れていこうとする土台ができたということなのかもしれない。あの、決して消えることはない厳然たる事実を、私は何年もの間消したい消したいなかったことにしたいと願い続けてきた。でもそんなことは不可能なのだ。不可能と分かっていても願うしかなかった時期があった。でも今は違う。
 それらは事実であり、消しようのない現実だったのであり、ならば、私はそれらを受け容れ、引き受け、共に歩いていくのだ、と、今はそう思う。

 話は変わる。
 娘との二人暮らしが始まってもう何年が経つのだろう。忘れてしまった。その間に娘は性的悪戯を受けるという出来事もあった。しかし。
 娘は私に何処までも優しい。特にこの一年、彼女の心の成長はめざましかった。私が子供の頃は決して父母にできなかったあたたかな仕草を、彼女は私に対しいとも簡単にしてみせる。そして私をどきっとさせる。はっとさせる。
 今日、病院の行き帰りに、何度も自傷衝動にかられた。けれど、そのたびに娘の顔が浮かんだ。昨夜私が仕事をしていると娘が寝床から膝掛けを引っ張り出してきて私にかけてくれた、そのときの顔がありありと浮かんだ。そんな娘の前でどうして自分をこれ以上傷つけることができようか。
 いや、正確には、私は自傷行為をまだしている。過食嘔吐という自傷行為を。それがいいとは思わない。思っていない。いずれはそこからも卒業しなくてはと私は思っている。しかし。
 少なくとも血まみれになって、床に血を滴らせて彼女を悲しませるような、そんな真似だけは、決してしたくない。もう、できない。

 そういえば、去年一年は、人間関係に悩んだ時期でもあった。人間関係に躓くことは多々ある。しかし、去年ほど、悩んだことはなかった。真夜中ひとり、唇を噛みしめながらこんなにも泣いたことはなかった。
 そんな中で私は、待つことや焦って縋り付かないことの大切さを身をもって知った。そして。何よりも。
 自分の身の周りに感謝するならば、同時に自分自身をきちんと大切にできなければいけないことを改めて痛感した。

 今2009年1月26日、もうじき午後一時を迎えようとしている。27日の夜中過ぎにはまだしばらくある。正確にはもうあれは28日になっていた。あの28日の朝日は、残酷なほどまぶしくて、私を射った。
 今年はどんな朝日が、どんな夜気が私を迎えるのだろう。そしてそれらを越えて私は、新しい日々をどんなふうに迎えるのだろう。

 今年もまた、1月27日が巡ってくる。

2009年1月19日月曜日

■だからこそ、いとおしい

 人と人との緒はとても繊細だ。時に儚く、時に強く。そして繊細だ。

 人と人との緒を、できるなら永遠にと願っていながら刹那的にしか捉えられなかった頃があった。年若い頃、とでもいうのだろうか。十代二十代というのは、その緒を追い求めるばかりで、育むことをまだ知らなかった。
 それが、三十代になり、紆余曲折を経て、追い求めるばかりではなく、待ち、「育む」ことがどれほど大切かを少しずつ噛みしめるようになった。でも実際にそうできるようになったのは…三十代も終わる今日この頃である。
 何も知らずにがむしゃらに追い求める時期があり、気づきの時期があり、そして受け容れる時期がある。もちろんひとっとびに知り受け容れる時期に飛べたら、痛い目になど遭わずにすむのかもしれないが、ひとつひとつを経ることでしか、本当の意味で知り受け容れることなどできない。血肉を分けて勝ち得たものは味がある。ぬくみがある。痛みと引き替えにようやく、そこに辿り着ける。

 人との距離感もまたとても微妙なものだ。ちょっと間違えると、お互いに傷つけ合うしかできなくなる。近すぎもせず遠すぎもせず、適度な距離というのが、関係のひとつひとつに在る。そのことを知るにも、これまた、それなりの時間がかかる。

 切る、という言葉がある。切る、という行為がある。その行為を勢いでしてしまうことは可能だ。しかし。
 果たしてそれでいいのだろうか。

 待つことは確かに辛い。痛い。苦しい。けれど、待つことでしか解決しないこともあるということを、どうして人はなかなか受け容れられないのだろう。

 今、身近で、一つの関係、一つの緒が、悲鳴を上げている。私はちょうどその狭間で、緒の端と端にいる人たちを見守っている。
 できるなら。
 時間をかけてほしい。焦らず、育むことを覚えてほしい。きったはったで簡単に片付けられるほど、そんな容易な関係だったかどうかを、もう一度振り返ってほしい。振り返るのにもまだ、時間が必要だと思う。だから今は私は黙って見守るほかに術はない。

 雨後の朝、霧があたりをおおった。視界はぼやけ、東からさしてくる光だけが目印だった。そんな時期も、ある。人と人との緒にも、そんな時期が、在る。

 だからこそ、いとおしい。

2009年1月9日金曜日

■ありがとう

一時期、手首を切ってしか時間を超えられない時期があった。
血の滴る腕をそのままに訪れる私を、それでも受け入れ、根気強く、手当てし続けてくれる医者がいた。
傷痕は今ももちろん何重にも残っているけれど、私が切ることをやめられた一端に、その医者がいた。

腕を切らなくなって、自然、そこを訪れることもなくなった。
内科や外科を扱う、小さな町の小さな開業医だった。
顔を忘れたことはない。でも、徐々に徐々に先生の顔は、記憶のすみに追いやられていった。

今年の正月、自分の不注意から低温やけどを負った。
その傷口が炎症を起こしていた。でも医者嫌いな私はできればそのまま自然に治ることを願っていた。しかし。
傷も傷、薬が必要なことを認識させられ、しぶしぶ医者を探す。そのとき、
あの先生、あの病院を思い出した。

久しぶりにその病院を訪れる。
小さな駅の前にある、小さな小さな病院だ。
開業時間前に行ったにもかかわらず、以前と同様、受付は開かれ、待合室には何人もの患者が待っていた。

みな黙っている。でも。
受付で待つことが苦手な私が、それでもこの病院でなら待っていられるのは、患者がみな安心した顔をしているからだ。
先生ならちゃんと診てくれる。そのことを、みな、知っている。だから安心して時間が多少かかろうと待っていられる。

名前が呼ばれ、診察室に入る。前となんら変わっていない。数年が経つのに、まるでタイムトリップしたかのような感覚を覚える。
そして先生は以前と同様、いや、以前よりもやさしく明るい表情で椅子をすすめて来る。

すぐに炎症止めと化膿止め、痛み止めなどが処方される。
そして私は、自然、口にしていた。
あの先生、最近、この右耳のあたりから顔面、後頭部と、痙攣が四六時中起きているんですが。
先生がにっこり笑って言う。
そうですか、それはね、緊張しているからなるんだよ、大丈夫、たいしたことじゃないからね、筋肉が緊張からこわばってしまうからそうなるだけなんだよ、気になるなら薬を処方しようか、あぁでも、この薬を飲み終わってからのほうがいいな、来週またおいで。

私は一瞬、涙が出そうになった。
というのも、今週はじめ、今年初の心療内科での診察時、同じことを言ったにもかかわらず、私は、先生からそのことを無視され診察室を三分もかからず追い出されていたからだ。
すべては自分じゃなくカウンセラーに話しなさい。それが、心療内科の先生の言葉だった。
以来、私はぴくぴくする耳元、顔面、後頭部を、もてあましていた。

安心した。
ほっとした。
大丈夫なんだと思った。
そうか、大丈夫なんだ、緊張しているだけなんだ、と思った。
もちろん、医者の言葉で痙攣が治ったわけではない。でも、
不安は一気になくなった。

今私は、心療内科に通うことが苦痛だ。話を何もきかず、薬だけ処方し、それでもとこちらが訴えると、すべてはカウンセラーに話しなさいと突き放 す。そういう医者に、閉口していた。もうどうにでもなれと半分あきらめていた。それでも薬がないとあきらかに不安定になる自分に、何とかどうにか日常を越 えるためだと言い聞かせ、通い続けている。
でも。
聞いてくれる先生も、まだいたんだな、と、
それが分かった。
それだけで、私はずいぶんと、救われた。

それじゃ、また来週ね、と見送られる。私は自然、ありがとうございますと口にしている。
本当に、ありがたかった。
来週また来ようと思った。

小さな町の小さな開業医。
名前は知らない。でも、
その先生の元を訪れる患者はみな、安心した顔をして帰ってゆく。
もちろん、痛みや熱にうなされ、ふらふらしていたりもするけれど、それでも安心が見え隠れしている。誰もの表情の奥に。

人として、そんな人であれたら、とふと、帰り道にそう思う。

来週月曜日は祝日。心療内科の診察はない。
二週間分の薬を渡され、私は先週あの診察室を出た。
来週先生と会い、また追い出されるようにして診察室を出なければならないかと思うとそれだけで私の心には負担だった。でも来週はそれがない。それは私にとってうれしいことだった。
そして。
来週またあの開業医のもとへいけば、診察してもらえる。
そのことが、私を安心させている。
今もまた痙攣がひどくなっているけれど、これもまた大丈夫、つきあっていく方法を考えればいいことだ、と、自分で自分に言ってやる余裕がある。
その余裕は、間違いなく、あの開業医がくれたものだ。

ありがとう。
久しぶりに医者に、そう言える。

2009年1月2日金曜日

■気づけば年が明けていて

毎年何通か、戻ってくる年賀状がある。
今日も一通、戻ってきた。
娘が言う。もったいないね、と。
私はそれよりも、届かなかった相手の顔を思い浮かべている。
元気ですか、元気でいますか。
元気ならそれでいいのだけれども。
元気ですか、元気でいますか。
傷だらけになりながらも必死に生きている貴女だから、私は多分忘れない。

手紙が届くこと。
それはまるで当たり前のようで、当たり前なんかじゃない。
だからいつも、戻ってこない手紙に感謝する。返事がなくても、届いていることに感謝する。

元気ですか。元気でいますか。
私は今も、貴女たちのことを覚えています。