2009年6月16日火曜日

■何かが少しずつ・・・

銀杏の青葉を摘み、本にはさむ。うまくいけば、美しい青葉の押し葉ができる。
家のバラも、再び少しず蕾をつけ始めている。外壁工事の影響をうけて、今年枯れてしまった苗4本。悲しいものがある。仕方ないとはいえ、せめて花が咲くのを一度でもいい、見たかった。
Y美術館の脇のモミジフウの緑も、日に日に目に眩しくなってきた。少し離れたところからしばし眺める。若葉色は何処までもやさしく、やわらかく、こちらの心に沁みこんでくる。

母の髪が抜け、やせ細り、そのさまを私はじっと見ていることしかできず。それがたまらなくもどかしい。
病の残酷さは、祖母の看病で散々見てきているはずなのだけれども。それでも胸が痛くなる。
この治療を続けた果てに、穏やかな時間が待っているのだろうか。それとも残酷極まりない結果ばかりが待っているのだろうか。
誰にも分からない。分からないから、ただ、祈る。どうか、どうか、と。

雨が降り出す夕暮れ。まるで閉じ込められているかのような錯覚を覚える。窓に額をはりつけて、ただ眺める。じっと眺める。

少しずつ何かが変化しようとしている。その気配はもう、私の首筋まではいあがってきている。

2009年4月22日水曜日

■そうして暮らしている

若葉色がまぶしいくらいにあたりに溢れている。朝の光が乱反射して、それは発光するかのようにさえ見える。自転車を時々止めながら、私は樹を見上げ、空を見上げる。雨上がりの朝、空気がしっとり濡れている。空のあちこちに、昨日の雨の名残雲が浮かんでいる。

身体ががくがくと大きく震え始める。止まらない、止められない。私は倒れないようすぐそばにある何かに掴まるのがやっとだ。掴まって、ただその発作がゆきすぎるのを待つ。待ち続ける。
ようやく去ったとほっとした途端、突き刺さってくるのは周囲からの視線。それがとても痛い。できるなら走り去りたい気持ちに駆られるが、私は走ることもままならず、ただ、どんよりと、足を進める。あきらめの気持ちを抱えながら。

過食嘔吐したくなるときは、パンをいくつもにちぎっておいて、一口ずつ、何時間もかけて一個のパンを食べる。そうすれば、吐こうにも吐くことはできないのだから。
リストカットももう長いことしていない。薬のばか飲みももちろんだ。今の生活リズムで一度でもそれをしたら、すべてが雪崩のように倒れこむことが分かっている。だから、衝動とどうつきあうかを考えている。

今年に入って、四六時中ハーブティを飲んでいる。味はレモン・ジンジャー。このハーブティがなかなかの頓服になってくれることに気づいた。すぅっとするのだ、飲んだ後。心も頭もすっきりする。衝動に駆られているときはだから、このハーブティをしつこく飲む。大丈夫、大丈夫と呪文を唱えながら。

金銭的には全く恵まれていない。どうしようかと悩むことさえばかばかしくなるほど恵まれていない。それでも、私たち二人家族は、今日も何とか暮らしている。
目を合わせ、笑いあい、ただそれだけで今日は満足だねと、一日一日を暮らしている。

2009年4月16日木曜日

■新緑を眺めるなら

 新緑を眺めるなら早朝がいい。朝の光は澄んで輝き、萌黄色をいっそう際立たせてくれる。今いたるところ緑溢れ、それはまるで洪水のようだ。

 ここのところ毎日のようにこの喫茶店に通っている。平日の午前中、ここには殆ど人がいない。BGMも適度な音量で、読書にはうってつけの場所なのだ。しかも片側一面窓。これもまた、私にとっては都合がいい。
 「心的外傷と回復」を皮切りに、「笑う警官」「悪意」「分身」「ユニット」その他諸々、読み進めている。時々息切れを感じると、私は窓の外を見やる。
窓の外は今また、景観を大きく変化させようとしている。Y駅東口側に大きな円形のビルが新しく建てられているのだ。今までその奥のショッピング モールが見えていたが、新たにそのビルが建設されることで全く見えなくなってしまった。そして、その大きな円形のビルの手前の空き地も、近々何か建設が始 まるのだろう。土を乗せたトラックや人が忙しなく行き来している。
 これまで遠くまで見渡すことのできたこの席からの風景は、じきにあちこち途切れ、こんなふうに見渡すことはできなくなるのだろう。それがとても侘しい。
 帰りがけ、液肥をまとめ買いする。薔薇の樹やラナンキュラスたちにそろそろ肥料を与えたい。お疲れ様と、これから頑張って、の声を込めて。

 今、私にとってのかつての主治医の病院に友人が入院している。その友人づてにかつての主治医の声を聴く。
 今日改めて分かった。私はかつての主治医に対して、怒りを持っているのだな、と。最初は憎悪や嫉妬なのかと思った。でも違う、私の中に生まれているのは怒りだ。
 かつてあなたは患者たちを見捨てたではないか。治療途中で患者を見捨てたではないか。なのに、今、そんなご大層なことを言える身分なのか、平然と新しい患者を前にして講義できるような身分なのか、あなたは今私たちに再会するとしたら一体どんな顔をするのか、と。
 でもその怒りは、沸点に達した直後、しゅうぅぅぅっと萎んだ。
 こんなもの、抱いているだけ無駄なことだと、私はもう承知している。別れの儀式は私の心の中で既に為された。終わっているのだ。もう今の彼女と私とは何の関係もない。かつての彼女を私は知っていたが、今の彼女を私はもはや知らない。

 帰宅すると、一輪咲いた橙色のミニバラが私を迎えてくれた。強い風に煽られながら、おかえりと澄んだ声で言っているかのようだった。

2009年4月9日木曜日

■生き残り

 サバイバーという言葉がある。意味は知っている。自分がそうであることも知っている。しかし私はサバイバーという言葉が正直嫌いだ。
 一方、生き残りという言葉なら、私はしっくりくる。それなら自分もそうだと頷ける。同じ意味じゃないか、同じ言葉じゃないかと言われるのを百も承知だ。その上であえて言えば、私にとってその言葉から受ける感触が違うのだ。それがたとえ同じ意味を表す言葉であったとしても。

 たくさんの生き残りに会って来た。知り合っても来た。交流ももったりした。しかし、たとえ似通った体験であっても、一人ひとり色が違う。匂いが違う。感触が違う。言葉としてはひとくくりにされてしまうとしても、私たちは十人十色だ。

 私が「あの場所から」のシリーズを始めたことで、時折会う質問がある。それは、どうしてこの人たちの非日常をカメラに収める必要があるのか、世間に訴えようと思うならば、この人たちの日常あるいは事件そのものをカメラに収める方が分かりやすいではないか、というものだ。
 言っている意味は分かる。
 しかし、私はそもそも、あのシリーズをはじめるにあたって、世に訴え出ようということを第一義に置いていない。第一義どころか、第二にも第三にも置いていない。それは、付属として生じてきた事柄だ。
 私はまず、自分と同じように生き残り今生きている人たちと出会いたかった。そして、彼女ら彼らと一緒に何かをしようと思った。何かを共有したいと思った。その時、私にできることが写真を撮るという行為だった。
 何よりもまず、そのことがある。
 そうやって「あの場所から」は始まった。
 出会いを経て改めて気づいたことは、被害の最中に写真を撮られている被害者がとても多いということだった。そんな彼女たちを被害の場所に立たせて世に訴えるような写真を撮り発表することなど、私の頭にも心にもこれっぽっちも浮かばなかった。私が写真を通して彼女らとできることはただ、「共同作業」だと、私は思っている。

 生き残りの多くは、その傷によって世界と社会と断絶されてしまったことで苦しんでいる。私たちにとってだから、生き残りという言葉は、「生き残った」という能動形ではなく、「生き残ることをさせられてしまった」という受動形だ。
 生き残ることをさせられてしまった私たちは、生き残り、だから、今存在している。でも、能動形で生きることがとても難しくなってしまったのだ。たとえば、わかりやすいところで、自分の夢があるとしよう。それを、被害前実現させていたとしよう。ようやく辿り着いた夢、実現させた夢だった、それなのに、被害に遭うことによって根こそぎ取り上げられてしまう。それが生き残らされた後に残った現実なのだ。根こそぎ引っこ抜かれた後、そこには何が残っているのだろう。
 私はその、穴の開いた土ぼこに、もう一度、できるなら種を撒きたい。いや、種を撒けるなどというのはおこがましい。できるなら、その穴ぼこの傍らにひょっこり芽を出す雑草になりたい。
 穴はどうやっても埋まらない。あいてしまった穴を、新たな土でもって埋めることができるだろうと言う人が多くいるかもしれない。でもそれは、あくまで新たな土で埋めたものであって、穴は穴なのだ。穴であることは、どうやっても、どんなに時を経ようとも、変えられない。
 それならできることは何か。傍らにそっと寄り添うことだけだ。

 今年もそうやって「あの場所から」の撮影は終わった。森と海。二箇所での撮影だけれども、そのどちらも、かつて私が撮影に使ったことのある場所である。どうしてそんな使い古した場所を選ぶのか、そんなんじゃ似通ったカットばかりになるではないかと言われることがあるかもしれない。しかし。
 私はそれらの場所が安全であることを知っている。だから傷ついた彼女らを安心して連れてくることができる。ここでならどう振舞ってもいいよと彼女らをその空間に送り出してやることができる。彼女らを知れば知るほど、そういった空間だからこそ彼女らを解き放って追いかけていたいと思う。

 もしかしたらいつか、彼女らの日常を撮ることがあるかもしれない。でもそれは、まだ先のような気がする。彼女らはまだまだ傷ついている。まだまだ血を流している。私の血もまた、まだ滲んでいる。

 いつか能動形で生きる術をつかむ日が来るかもしれない。それを自ら納得できる日がいつか、そういつか来るかもしれない。
 そのときようやく私たちは、生き残りという括りからも、解き放たれるのかもしれない。

2009年4月2日木曜日

■川を遡る鮭のように

ラナンキュラスの蕾が綻んできた。黄色い薄い花びらが、風が吹くとひらひら揺れる。
うどんこ病に冒されているというのに、蕾を付け出した薔薇の樹たち。なんとかこの病気を克服させてやれないものかと、病葉を見つけるたび摘んでいる。うどんこ病に特効薬はない。こまめに病葉を摘んで次に広がらないよう努めてやるだけだ。
水仙は、小さな小さな蕾をほろり見せてはいるが、果たして咲くかどうか。三年目の球根。何処まで頑張ってくれるか今見つめている。
一年に一度の「あの場所から」の撮影は何とか終わった。
最初に森林公園で、次に海で撮影。夜明け前からの撮影で歯が鳴るほどの寒さの中だったにもかかわらず、みんな頑張ってくれた。
撮影に参加してくれたメンバーの中には、被害の折写真を撮られたということから写真を撮られることがトラウマになっている人もいる。それなのに、姐に撮られるのはもう大丈夫と、すっぴんで堂々参加してくれる。そのありがたさを噛み締めながら、私はシャッターを切り続けていた。
翌日、その参加メンバーの一人と、「あの場所から」の撮影とは別のシリーズを撮影してみる。私は三脚を持っていない。にもかかわらず室内での撮影。まぁやってみれば何とかなるものだ!
そんなこんなであっという間に日が過ぎる。娘の春休みももう終わりにかかっている。今年早く咲くといわれていた桜はまだ蕾が残っている。今週末花見を予定しているが、天気が崩れるらしい。今から照る照る坊主を用意する。
生きていればいろいろある。いろいろあって当たり前。
いろいろあるけど、それでも生きていく。川を遡る鮭のように。

2009年3月12日木曜日

■明るい午後に

 イフェイオンが咲く。裏側が白く、表側が美しい青色の可憐な花だ。三つ角の花びらが二枚重なって、六角形の星のような形をしている。
 ラナンキュラスの蕾もようやく二つに増えた。まだまだそれらは堅く閉じているが、まっすぐ天に向かって伸びる姿は、凛として美しい。
 薔薇の樹のひとつ、ホワイトクリスマスの元気がない。新芽がいっこうに現れないのだ。心配でならない。ひとつでもいい、新芽が出てくれたなら安心なのだけれども。
 それにしても今年はいちように花芽が出るのが遅かった。日照量が足りなかったのだろうか。それとも気温が足りなかったのだろうか。水仙もムスカリも、ここにきてようやく根元に花芽が現れ始めた。これだとあの公園の桜の蕾などはどうなっているのだろう。
 ずいぶん日も長くなった。この時間でまだ太陽がこの窓枠の中にいる。半月前ならとうに窓の外に落ちていた。
 搬入が済んだ。しかし、あんなドジを踏んだのは初めてだ。展示最中に、釘が抜け額が落ちたのだ。見事にガラスが割れた。ガラス屋へ走り、なんとか頼んでガラスをカットしてもらう。開店直前になんとか滑り込んで間に合ったものの、あんなにひやひやしたのは本当に初めてだ。
 そんなこんなで始まった展覧会。どんな人がどんなふうに作品を見てくれるのだろう。

2009年2月27日金曜日

■雨降る朝に

朝、友人と話していて改めて気づく。
そうだ、私たちは、
今生きていることが不思議なくらい傷ついて
それでも今こうして存在しているのだ、ということに。
それを否定しなくてもいいのだということに。

私は、自分が傷ついていることが罪のように思えることがある。

でも。
もし自分以外の誰かが同じことを言ったら、私は何というだろう。
私は間違いなく、そんなことはない、と言うだろう。そして、
相手に話し続けるんだろう。
どうして罪なことがあるものか、と。
傷ついていて当たり前なのだ、と。
むしろ
今生き残っていることを誇りに思ってよいのだ、と。

私はそれを、私自身に言うことができないだけだった。

いやもちろん、時々は言える。
時々は、生き残ってるだけで十分だし、私は私を恥じる必要なんてないし、むしろ誇りに思ってよいのだと自分に言い聞かせることはできる。そうして深呼吸することもできる。
でもまだ、あの件では、それができない。
それだけのことだ。

私はあの事件の日のことを、映像で覚えている。音声や痛みが欠落したままの、映像だ。朝話をした友人は、ある日その痛みを思い出してしまったのだという。
解離したままでいることの方が楽なのか、思い出してしまう方が次にすすめるのか、どちらなんだろう。
…どちらであっても。
私たちはそれらを、その都度それぞれに受け容れながら、それぞれに歩いていくしかないんだろう。

再び雨の降り出した空を見上げながら思う。
PTSD。それらがもっと、この世の中で受け容れられていきますように。
私たちのような人たちが、もっと生き易い世の中に、なっていきますように。

2009年2月26日木曜日

■つらつら見る夢のまにまに

 朝からずっと雲は切れない。いつ雨が降り出してもおかしくない空模様。
 娘が学校へ行っている間、少し横になる。途切れ途切れに夢を見る。

 今何かを書き出そうとすると、すべて過去のことになる。過去のことに触れなければならなくなる。私はそれが、どうもいやらしい。
 何がいやなのか。振り返ってそれを吐き出すことはいい、でも、それを他人の眼に触れるところで為してその他人を不快にさせるのがいやなのだ。それが今日はっきり分かった。
 それならば書かなければいい。でも書きたい。書いてもう自分の中でも過去の過去として埋葬の儀式をしたい。
 一体どちらなんだろう。それがまだ分からない。

 少し前、仕事をやめたのはもったいなかったということを言われた。本当にそうだと思う。しかし。あの仕事を続けていたら、今の私はなかった。いや、そもそも、私が今ここに生きていられたかどうか、はなはだ疑問だ。そのくらい私は追い詰まっていた。追い詰められていた。生き延びることができなかった。
 だから辞めてよかったのだろう。と思いたい。しかし、私の中には後悔がまだまだ残っているのだ。どうして辞めたのか、と。もっとしがみつけばよかったのではないか、と。当時の私を知る人は、あの仕事を辞めてよかったのだと誰もが言ってくれる。しかし、私自身はまだ納得できないでいるのだ。どうして、と。どうして私が、と。加害者たちが残り私が辞めた、その構図が、許せないのだ。今もまだ。
 性犯罪被害によるPTSDの怖さを、改めて感じる。

 あの後も、せめて編集の仕事からは離れたくないと思い、幾つかの編集部を渡り歩いた。しかし、性犯罪被害による爪痕は思った以上に深く、私を苛んだ。いい加減休みなさいと主治医に何度言われたことか。それでも、私は休むことができなかった。一度歩みを止めたらもう二度と立ち上がれないのではないかと思えたからだ。
 けれど結局、私はそうした仕事も辞めることになる。そうして私は、世界の表舞台から、逃げるようにして離れることになる。

 気づけば、世界と隔絶されていた。そうした場所に私は、一体何年いただろう。はっきりとそれを数えられないし、覚えてもいない。気づけば世界と隔絶された場所にいて、私はただ、そこに倒れこんでいた。そうとしか、いいようがない。
 手首を切り裂く毎日が続いた。流れ出す血を確かめなければ自分が生きていることを確かめられなかった。それさえだんだんと麻痺していく中、私はもう、生きていることが分からなくなっていた。
 ある人が私をそれでも抱きとめて引きとめようとしてくれたとき、私は切腹を試みた。今考えれば恐ろしいことだ。身勝手極まりない。けれどそうでもしなければ、当時私は、そこに存在していることも、同時に存在を消すこともできなかった。
 そんなふうにして私はどんどん、世界から隔絶され、果てはその緒を見失い、まさにその言葉通り真っ暗な闇の只中に浮遊していた。

 今、私のそばには娘がおり、写真がある。
 この二つが、この道程を経て、私に残ったものだ。
 長かった。長い長い道程だった。気づけば15年という年月が流れ、いや、もっと正確に言うならば、38年という年月が流れていた。
 父母による精神的虐待から始まり、DV、輪姦、強姦、挙げだすときりがない。そうした出来事が、私の人生を彩っている。
 それでも今、私のそばには娘がおり、写真がある。たったそれしか残らなかったのかと言われるかもしれないが、あの苦渋の日々を省みればそれだけでもう十分すぎるほどの贈り物だ。そして何より。
 何より今、私のそばには人がいる。友がいる。

 この道程で失ってきた友の数を数えだしたらきりがない。言葉通り墓標となってしまった数もきりがない。
 それでも今、こうして、人に囲まれていること。それは、どれほど感謝してもきりがないだろう。

 そう、感謝しつつ、私は、唇を噛むのだ。
 どうしてあの時あの仕事を手放したのか、と。私の夢は、本を作ること、本という媒体を通して世界のいろいろな人たちに何かを伝えることだった。幼い頃からのそれが夢だった。その夢を私は。
 いたしかたがないと、私の周囲は言ってくれる。それでも。
 それでも私は私を許すことができないのだ。どんな理由があれ、自分の夢を手放したことを。様々な人を傷つけながらもしがみついていたくせに、結局最後手放したあの夢と自分のことを。

 同時に、今ここに自分が存在できるのは、あの職を手放したからだということも知っている。そのことに、繰り返しになるが、私は心から感謝している。

 この矛盾を、私が丸ごと受け容れられるようになるには、まだもう少し、時間がかかる。今はまだ、その許容量が足りない。まだ、私は受け容れることができない。

 もうじき個展だ。この個展の作品たちでモデルになってくれたのは同じ性犯罪被害者の友人たちだ。私は心から感謝している。彼女らがそんなことを厭わずモデルとなり、自分を晒してくれたそのことを、祈りたいほどに感謝している。
 だから、私は少し緊張している。
 彼女らの心を無駄にしないくらいに私はちゃんと作品を仕上げることができただろうか、と。そのことが今、何より気がかりだ。
 作品展が始まったら、私は彼女らに改めてありがとうを伝えたいと思う。あなたたちがいたからあの写真を撮ることができたのだ、と。

 つらつら続いた夢から覚めて、私はそろそろと日常に戻ってゆく。
 窓の外、今にも雨降り出しそうな雲が一面を覆っている。

2009年2月23日月曜日

■2009年2月23日 雨降るあなたの誕生日に

雨が降る。雨は降る。しとしとと。しとしとと。

九年前の今日は、肌がつっぱるほど晴れていた。土曜日破水したのではないかという不安を抱えての月曜日の診察だった。土曜日には出なかった反応が出、私は即入院。入院が決まった途端、不思議なことに陣痛がやってきた。朝食も昼食も摂れていないまま私は陣痛にうなされた。水を飲んでもすべてベッドの上に吐き出した。痛くてカーテンに抱きついたら助産婦に怒られた。痛みにうなされながら、私はおかしなことを考えていた。
あぁこれが正常な痛みというものなのだな、と。半ば感動していた。
いくらリストカットを繰り返しても感じられなかった痛みがそこにはあった。切腹しようと試みたとき以上の圧迫がそこにはあった。
私の腹はパンパンに膨れ、悲鳴を上げていた。あぁこれが、本来の痛みというものだったと、私はつくづく思った。
そうして20時16分、彼女は産まれた。
娘よ、あなたは知らないだろう。私がどんな思いであなたをこの世に産み出したかなぞ。あのときどれほどの希望を私が得たかなぞ。そう、あなたはそんなこと、知る必要はない。ただ、懸命に今を生きればいい。今を精一杯味わい呼吸すれば、それで良い。
最近時折、街を往く家族連れとすれ違いざまに一抹の寂しさを覚えるようになった。私に父親はいたが、幼い頃不在であった。一方娘に今父親は不在だ。私たちの記憶の中に、ああした姿は共に不在なのかと、それが少し寂しい。
願わくば、おまえが無事に嫁ぎ、別れることなく誰かと共に在ってくれたら…などと、要らぬことを思い描いたりする私がいる。
でも。
今はそんなこと、まさしく余計なことだろう。
そう、今はただ言おう。
誕生日おめでとう。今年は一桁最後の年だよ。精一杯生きろ。
と。

雨が、止みかけている。

2009年2月19日木曜日

■ひらり、はらり、もっと潔くあれ

 朝一番に開けた窓の外を見つめるでもなく眺めている。あぁ夜明けがこんなにも早くなった。東から伸びてくる陽光があの窓にこんなに早く届くようになった。徐々に徐々に白くなってゆく光を、ただ私は今眺めている。
 ひらり、はらり。最近その音を聴くことが多い。ひらり、はらり。衣がまた削げ落ちてゆく。そういう音だ。
 父母との間のしこりはなくなったわけではない。でもかつてのようにありありとそこに在るわけでもない。その境をしこりを、こっそり越えて向こう側を見る術も、それなりに身につけた。だから、その瞬間逆流した血流も、すぐ元の流れに戻るようになった。
 これは多分に娘の影響が大きい。
 娘は間違いなく私が産んだ子供だ。私が腹を痛め、この世に産み出した子供だ。子供のちょっとした癖の中に、かつての自分を垣間見ることが多々ある。しかし。
 大きく違うのだ。
 私は父母に叱られるとまず唇を噛んだ。そして泣いた。ほろほろと大粒の涙をこぼして泣いた。しかしそれは悲しいからではなく、悔しいからだった。ごめんなさいと言うのは、とことんのところへ言ってからじゃなければ言わなかった。
 けれど娘は、いともあっさりとごめんなさいと言う。あっさりとありがとうと言う。それはどうしてこうもあっさり言えるのかと思うほどだ。
 けれど、彼女の言葉や声を通して、改めて、その二言がどれほど美しい言葉なのかを私は思い知っている。
 娘が使うありがとうやごめんなさいの言葉を繰り返し聴きながら、私は学んでいる。そして気づけば、ありがとうやごめんなさいを自然に使っている自分を見出す。
 子供に教えられるとは、まさにこういうことなのかもしれない。

 一方で、そんなあっさりと残酷な言葉を吐いていいのか娘よ、と呆気にとられることも多々ある。そんなにクールでどうするよ娘と思うことも多々ある。と同時に、それがどれほど己に忠実な言葉であるのかを彼女の表情から読み取らされる。そして私は逆に突きつけられるのだ。自分がどれだけさまざまなしがらみにこだわっているのかを。そして、はて、と首を傾げるのだ。自分は一体何を生きているのだったっけ、と。
 私は私でしかない。私は私以外の何者でもない。私は私の一生を全うするしか術がない。ひっくりかえせば、私を生きられるのは私以外の何者でもない。
 ならば。
 もっと潔くあれ。と、私の中の私がぼそっと呟く。
 もっと簡潔であれ。もっと明快であれ。私の隣で笑う娘の中の私が呟く。
 纏わりつくしがらみは、多分私が世界と関わっている以上なくなることはない。でもそれに塗れてしまうくらいなら、はじめから自分を生きようとなんて思うな、と。
 そして聴くのだ。ひらり、はらり、はらり、ひらり。また一枚落ちてゆく衣の音を。ひらりはらり、ひらりはらり。私の皮がまた、一枚剥けてゆく。要らない荷物を、またひとつ道端に置いて、私はさらに今をゆく。
 もっと簡潔であれ。もっと明快であれ。そう、
 もっと潔くあれ。

 気づけば窓一面、明るくなっている。今日も多分、りんりんと晴れるのだろう。いっとき目を閉じ耳を澄ますと、震えるような空気の音が聴こえる。

2009年2月10日火曜日

■私はそういう足を持ちたい

久しぶりに座った席からは、海と川とが混じり合う場所が見える。左には海が、右には川が横たわり、広がっている。黒つばみ色の渦が波紋を描いている。
ここからの風景もずいぶん変わった。目の前にたたずんでいた倉庫は皆取り壊され、今、土ならしが為されている。次には多分、高層ビルが建つのだる。そうなればまたここからの景観は変わる。
緑の少ない季節。でも皆無なわけではない。所々常緑樹がこんもりと茂っている。そういえば鴎がいない。一羽もいない。きっといつものように、川に停泊しているボートの方へ、暖をとりにいっているのだろう。
どんなに近しくても他人は他人。近しければ近しいほど、その関係が重要で在ればあるほど、それらが揺れると自分まで揺れる。どんなに強く見える人間でも、全くぶれずにいることは不可能だろう。しかし。
でき得るならぶれずにいたい。なら、そうであるためにはどうしたらいいのか。己が己の足でもってしっかり立っていること、そのほかには術はない。部分によってぐらつくのではなく、全体を支えられる足を自ら持つことで、心震から解放される。
私はそういう足を持ちたい。


「自身にとっての光りであることは、他のすべての人々の光りであることだ。自身が光りであれば、精神は課題や応答から自由になる。そのとき精神は 全体的に目覚め、張り詰めているからだ。この緊張には何の中心もなく、緊張している者もなく、したがって何の境界もない。中心、つまり〈私〉が在る限 り・・・」
クリシュナムルティの日記より

2009年1月27日火曜日

■27日

 寒い。でも、これが本当に寒いのかそれとも暖かいのか、よく分からない。あのときはどうだったろう。冬のコートをちゃんと着ていたのだろうか。覚えていない。はっきりと覚えているのは今ではもう、黒のワンピースだけだ。
 今ベランダでは薔薇の苗たちとラナンキュラス、イフェイオン、ムスカリ、水仙が、それぞれに枝葉を伸ばしている。薔薇の苗はちょっと水をやりすぎたせいで早速うどんこ病になった。仕方なく病気の葉を全部摘む。ほとんど丸裸になった樹は寒そうで、でも凛として、立っている。見つめているとそれは不思議な光景だ。この寒さの中、背を丸めることもなくまっすぐに立っているその姿は。

 娘が起き抜けに言う。いい夢を見たよ。どんな夢? 赤ちゃんの夢。赤ちゃんの? うん。あなたが赤ちゃんなの? 違う、赤ちゃんができる夢? え、あなたに赤ちゃんができるの? 違う違う、ママに赤ちゃんができる夢。
 もう赤ん坊を孕むような年頃ではない私なのに、娘はそれをいい夢だと言う。そしてうきうきと朝の支度を始める。
 そういえば、娘を孕んだ頃、私はまだパニックや自傷行為の嵐のまっただ中にいた。幾つ目かに勤めた会社からも逃げだし、部屋に閉じこもり、毎日過去を見つめていた。そんなただ中で私は、娘を孕んだのだった。
 誰もが反対した。誰もが産むことを反対した。産むと言い張ったのは私だけだった。それまで服用していた薬を一切断ち、様々な不安を抱えながら、それでも私は産むと言い張った。
 不安は山ほどあった。妊娠したのではないかと思われる頃にも様々な薬を服用していた私は、まず、副作用の不安を抱いた。同時に、私のような罪深い人間が命を孕んでいいのだろうかと不安になった。機能不全家族に育った自分に子育てができるのかも不安だった。要するに、何もかもが不安だった。
 襲ってくるのは、パニックやフラッシュバックだけじゃなくなった。つわりや貧血も頻繁になった。切迫流産で早々に入院し、そこでは自傷行為の傷痕を看護婦から責められ、さらに自己嫌悪に陥った。
 転院、子宮頸管無力症、四六時中の絶対安静、早期流産の危険、貧血、嘔吐、数えだしたらきりがないほど、妊娠期間中は不安だらけだった。しかもその時期、私の心療内科の主治医は留守だった。唯一頼りになるはずの主治医もいない、味方は誰もいない。日々パニックに陥った。一日が一日ではなかった。延々と続いていく地獄のような時間の帯だった。
 そしてようやく出産。しかし出産後、すぐ、私は体を壊し倒れる。子育てをまともにできない自分を呪った。毎日泣いた。しかし。
 泣いても泣いても、娘は笑っていた。私がいくら荒れても、娘はすやすやと眠り、すくすくと育った。私が、自分にはやはり子育てなどできないのではないかとおののいている最中にも、彼女は育っていった。
 正直に言えば、彼女が三歳になる頃まで、私は頻繁にリストカットを繰り返した。娘に見つからないようにしながらも、それでも私は自分を責めることをやめなかった。自分を貶めて、追い込んで、傷つけることをやめることができなかった。
 彼女は言葉が遅かった。私はそのことをとても気に病んだ。やはり私には無理だったのではないかと、今更の後悔に何度も襲われた。
 でもやはりここでも、娘は自ずと育っていた。ある日突然、三歳になってまもなく、彼女は唐突にしゃべり出した。単語をつなぎつなぎ、私にアピールした。そしてある日、彼女は、私の左腕の赤々とした傷口を撫でて言ったのだ。ママ、痛い?
 あのときの、彼女が私を見つめる丸い丸い目を、私は、生涯忘れることはないだろう。まっすぐに、澄み切った、あの瞳。
 それから少しずつ、私は自傷行為から離れていった。その日からきっぱりやめることができたわけじゃない。何度も揺り返しは来た。けれど。
 彼女の存在は大きかった。

 今現在、私には過食嘔吐という自傷行為が残っているが、ODからもリストカットからも離れている。衝動に襲われはするが、それを納める術を何となく身につけた。そして。
 そして娘は、いつのまにか九歳になろうとしている。
 私の病の回復の過程には、これからも娘がぴったりと付き添っているだろう。私が死ぬ間際に省みた時には、その存在はきっと太陽のように眩しく輝いているに違いない。
 いまだに、ACの虐待連鎖はちまたで囁かれている。しかし、そうではない例もあり得るのだと、私は身をもって知っている。そうである限り、私は何度でも人生やり直しがきくことを信じていける。
 きっかけは人それぞれ、様々なんだろう。また、それに気づけるか気づけないかもある。気づけたなら、そこからまた道を修正し、歩いていけばいい。修正は恥でも何でもないのだから。

 窓の外、あふれる光。その下で凛と立つ薔薇の樹。私はこの樹のように人生に対し立っていたい。
 りんりんりん。
 りんりんりん。
 光降り注ぐ。
 両手広げてもあふれるほどの
 光が、今、ほら。

■十五年

 この一年間のことをどう振り返ったらいいのだろう。まだよく分からない。
 主治医がいなくなって数年、私は主治医の言葉を信じ、ただ待っていた。必ず戻るからそれまで待っていてという主治医の言葉を、私はただ信じ、待っていた。しかし、主治医は戻ることはなかった。そこには様々な事情が絡んでいたのだろう。けれど、私は主治医の言葉を信じすぎたが故に、その事情を鑑みるなどできる余裕はなかった。次々に変わる担当医。そしてもうこの先生しか残っている人はいないとなったとき、待合室の壁に一枚の小さな紙が貼られる。S先生は事情により戻ることができなくなりました。と。そしてそこには合わせて、先生の行き先も書いてあった。しかし、私にはとうてい、通うことのかなわない距離の病院だった。
 以来私は、医者というものを信じなくなった。信じられなくなった。またどうせ、という気持ちが生じてしまう。それでも、と何度も自分を叱咤する。一時は、ここから私は新たにやっていくのだと自分を納得させたこともあった。しかし。
 新しい担当医の方針は明白で、日々の悩みや躓きについてはカウンセラーと話をし、医者とは体調や薬の話少々のみ、というスタンスであった。私はそうした方法に慣れていない。慣れなくては仕方がないと分かっていても、体が拒絶する。なんとか自分を納得させかけたのも束の間、今再び、どうしても、この三分間診療の現状を受け容れられない状態で毎週病院に通っている。
 しかし、治療をしていくために、私の状況を話さなければならない。知って貰わなければならない。私は、現時点からでいいと最初思っていた。それが、カウンセラーが尋ねてくるのだ。これまでどんなことがありましたか、あなたはそれについてどう感じてここまできましたか、などなど。
 ようやっと、長い時間をかけて、自分なりに受け容れ始めた矢先のこの質問に、私は愕然とした。ここにきてまた、掘り下げる作業を再び私に為せというのか。あの掘り下げ作業に伴う痛みを再び味わえというのか。
 そんなの、いやだ。今はまだできない。そんな冷静にすべてを話せるなら、病院なんか必要ない状況に私は今いるだろう。私に無理に話をさせる前に、どうしてカルテを見通してくれないのか、とさえ思う。カルテを見ればすべてが分かるではないか、と。私が長い時間をかけて提出してきた書面が山のように、カルテには挟まれているのだから。
 そんなこんなで今日を迎える。これからどうやって、治療をすすめたらいいのか、私には今見えない。
 でも多分。多分私はやっていける。医師やカウンセラーとの関係が今のところうまく築くことができていないけれども、私は私なりに、うまくやっていける。私が自分を進ませようとする意志を失わない限り大丈夫だ。生き延びようとする意志を失わなければ、きっと。

 酷い発作は数えるほどしかなかった。不眠、偏頭痛、吐き気、過食嘔吐、離人症状、フラッシュバック、極度の緊張が続いての体の痛み、その程度の間を、私は行ったり来たりしていた。
 長い時間を省みてみれば、今年はずいぶん楽になったんだと思う。自傷行為は、過食嘔吐以外ほとんどなかった。

 長い長い真っ暗闇のトンネルから、少し、ほんわりと光の漏れる場所に移動した気がする。ただそれに私がまだ慣れていないから、戸惑う。目を覚ますたび、私は今どこにいるのだろうというような気持ちになる。
 光は何処からさしているのだろう。まだそれが分からない。全体が薄ぼんやりと明るい場所。だから光がどちらからさしてくるのか分からない。でも、少なくとも、今は光がほんのり存在する、それは間違いない。

 丸十五年。だと思う。十五年を経て私が得たものは。
 時は何よりの薬になり得るということなのかもしれない。
 いつの頃からかある種の諦めと、深い受け容れが始まった。もちろんそれに揺り戻しはつきもので、何度も何度も揺り返しにあい、何度も何度も倒れた。しかし。
 一度、受け容れようと自分で自覚したら、何度転ぼうと倒れようと、そのスタンスは変わることはなかった。今まで誰にも話せなかったことも、今まで見ることを避けていたことも、少しずつ少しずつ自分の中で消化できるようになっていった。もちろんまだ傷のままのものも在る。むしろそっちの方が多いかもしれない。それでも、いつか私はそれらを全部ひきうけて、歩いていくのだという覚悟は、できた。
 その覚悟ができると、一歩また進めた気がした。暗闇からほの明るい場所に出てきて、そして、そこには、ぼんやりと人影がうごめいていた。幾つもの人影が。
 その人影とは、私をずっと待っていてくれた人たちだった。見守っていてくれた人たちだった。遠くから近くからそっと、見守り続けてくれている人たちだった。
 そのことに気づいたとき、自傷の衝動をコントロールする術を、端っこだけかもしれないが、つかんだ気がした。

 今月に入り、自傷の衝動に襲われることは多い。たとえば、フラッシュバックで、何度も加害者に脅迫され行為を強いられたことを思い出すと、自分を引き裂いてちりぢりに引き裂いてやりたくなる。けれどもしその思い通りに自分を引き裂いたらどうなるか。
 私の娘はどうなるだろう。私の友人はどうなるだろう。私の父母はどうなるだろう。そういったことを少し、考えられるようになった。
 それでも過食嘔吐の衝動は抑えきれないことが多々あった。胃がちぎれるのではないかと思うほど食べ物をとにかく詰め込み、そしてトイレに駆け込む。そこには白い便器があって、私はそこに思い切り今食べたものを吐き出す。と。
 白い便器に、吐瀉物の上に、加害者の顔が浮かぶのだ。そしてやがてそれは母の顔に変わり。ゆらりゆらりと彼らは私の目の中に入ってきて、決して消えようとはしない。そして私はどうしようもない罪悪感にかられるのだった。

 一つ、大きな出来事があった。それは、父母が二人とも、病を負ったことだ。父は両目の手術をしなければならなくなり、母はインターフェロンの治療を始めなければならなくなった。それにともなって、父母は最初、ヒステリックな状態に陥っていた。これから向き合わなければならなくなる病を否定するかのように、最初あれやこれや拒絶症状を示した。今まで大きな病気をひとつもしてこなかった人たちだ。それは当然の症状だったのだと思う。
 しかし。
 私は長いことPTSDと向き合ってきて、病と向き合うことがどういう状況を生み出すかを何となくではあっても知っていた。だから、父母に時折いらいらしながらも、ある程度傍観することができた。
 それによって、私と父母の間に、もう一つ、新しい関係が生まれた。父母が私に弱音を吐く、という関係だ。これまでそんなことはあり得なかった。父母は絶対完全主義者であり、完璧主義者であり、いつだって勝利者であった。権威者であった。悪く言えば暴君であった。しかし、今回病を得たことによって、私と一つ、共通項を持った。それが、今、微妙に私たちに影響し始めている。
 父や母が私に弱音を吐くことによって、私は父母の痛みを知る。弱さを知る。それによって、私は、父母に優しい言葉をかけられる余力を得る。父母もそれを望んでいる。
 今まで私たちには、ただ上下関係以外のなにものもなかった。それが今、ようやく、理解し合おう、知り合おうという親和が生まれている。もちろん、長いこと正反対の状態を続けてきたのだから、すぐにすべてがうまくいくわけではない。しかし。
 今新たな局面を迎えたのは間違いはない。父母と私。それぞれに病を負うことによって初めて、お互いに理解しあえないのがすべてではなく、理解し合える部分もわずかではあっても存在することを、認め合おうとしている。

 今、ふと思い出していた。上司に最初強姦されたのが十五年前の明日。そして、そこから悪夢が始まった。君を守ると約束した編集長の指示によって加害者から直接の引き継ぎを強いられ、それによって生じた様々な出来事。そして一年後、私は自分が狂っていると叫んで自ら病院に飛び込んだ。
 あの頃のことを、私はきっといつまでもありありと思い出すのだろう。でも当時と今と何が違うかと言えば、私の中に、それらをも受け容れていこうとする土台ができたということなのかもしれない。あの、決して消えることはない厳然たる事実を、私は何年もの間消したい消したいなかったことにしたいと願い続けてきた。でもそんなことは不可能なのだ。不可能と分かっていても願うしかなかった時期があった。でも今は違う。
 それらは事実であり、消しようのない現実だったのであり、ならば、私はそれらを受け容れ、引き受け、共に歩いていくのだ、と、今はそう思う。

 話は変わる。
 娘との二人暮らしが始まってもう何年が経つのだろう。忘れてしまった。その間に娘は性的悪戯を受けるという出来事もあった。しかし。
 娘は私に何処までも優しい。特にこの一年、彼女の心の成長はめざましかった。私が子供の頃は決して父母にできなかったあたたかな仕草を、彼女は私に対しいとも簡単にしてみせる。そして私をどきっとさせる。はっとさせる。
 今日、病院の行き帰りに、何度も自傷衝動にかられた。けれど、そのたびに娘の顔が浮かんだ。昨夜私が仕事をしていると娘が寝床から膝掛けを引っ張り出してきて私にかけてくれた、そのときの顔がありありと浮かんだ。そんな娘の前でどうして自分をこれ以上傷つけることができようか。
 いや、正確には、私は自傷行為をまだしている。過食嘔吐という自傷行為を。それがいいとは思わない。思っていない。いずれはそこからも卒業しなくてはと私は思っている。しかし。
 少なくとも血まみれになって、床に血を滴らせて彼女を悲しませるような、そんな真似だけは、決してしたくない。もう、できない。

 そういえば、去年一年は、人間関係に悩んだ時期でもあった。人間関係に躓くことは多々ある。しかし、去年ほど、悩んだことはなかった。真夜中ひとり、唇を噛みしめながらこんなにも泣いたことはなかった。
 そんな中で私は、待つことや焦って縋り付かないことの大切さを身をもって知った。そして。何よりも。
 自分の身の周りに感謝するならば、同時に自分自身をきちんと大切にできなければいけないことを改めて痛感した。

 今2009年1月26日、もうじき午後一時を迎えようとしている。27日の夜中過ぎにはまだしばらくある。正確にはもうあれは28日になっていた。あの28日の朝日は、残酷なほどまぶしくて、私を射った。
 今年はどんな朝日が、どんな夜気が私を迎えるのだろう。そしてそれらを越えて私は、新しい日々をどんなふうに迎えるのだろう。

 今年もまた、1月27日が巡ってくる。

2009年1月19日月曜日

■だからこそ、いとおしい

 人と人との緒はとても繊細だ。時に儚く、時に強く。そして繊細だ。

 人と人との緒を、できるなら永遠にと願っていながら刹那的にしか捉えられなかった頃があった。年若い頃、とでもいうのだろうか。十代二十代というのは、その緒を追い求めるばかりで、育むことをまだ知らなかった。
 それが、三十代になり、紆余曲折を経て、追い求めるばかりではなく、待ち、「育む」ことがどれほど大切かを少しずつ噛みしめるようになった。でも実際にそうできるようになったのは…三十代も終わる今日この頃である。
 何も知らずにがむしゃらに追い求める時期があり、気づきの時期があり、そして受け容れる時期がある。もちろんひとっとびに知り受け容れる時期に飛べたら、痛い目になど遭わずにすむのかもしれないが、ひとつひとつを経ることでしか、本当の意味で知り受け容れることなどできない。血肉を分けて勝ち得たものは味がある。ぬくみがある。痛みと引き替えにようやく、そこに辿り着ける。

 人との距離感もまたとても微妙なものだ。ちょっと間違えると、お互いに傷つけ合うしかできなくなる。近すぎもせず遠すぎもせず、適度な距離というのが、関係のひとつひとつに在る。そのことを知るにも、これまた、それなりの時間がかかる。

 切る、という言葉がある。切る、という行為がある。その行為を勢いでしてしまうことは可能だ。しかし。
 果たしてそれでいいのだろうか。

 待つことは確かに辛い。痛い。苦しい。けれど、待つことでしか解決しないこともあるということを、どうして人はなかなか受け容れられないのだろう。

 今、身近で、一つの関係、一つの緒が、悲鳴を上げている。私はちょうどその狭間で、緒の端と端にいる人たちを見守っている。
 できるなら。
 時間をかけてほしい。焦らず、育むことを覚えてほしい。きったはったで簡単に片付けられるほど、そんな容易な関係だったかどうかを、もう一度振り返ってほしい。振り返るのにもまだ、時間が必要だと思う。だから今は私は黙って見守るほかに術はない。

 雨後の朝、霧があたりをおおった。視界はぼやけ、東からさしてくる光だけが目印だった。そんな時期も、ある。人と人との緒にも、そんな時期が、在る。

 だからこそ、いとおしい。

2009年1月9日金曜日

■ありがとう

一時期、手首を切ってしか時間を超えられない時期があった。
血の滴る腕をそのままに訪れる私を、それでも受け入れ、根気強く、手当てし続けてくれる医者がいた。
傷痕は今ももちろん何重にも残っているけれど、私が切ることをやめられた一端に、その医者がいた。

腕を切らなくなって、自然、そこを訪れることもなくなった。
内科や外科を扱う、小さな町の小さな開業医だった。
顔を忘れたことはない。でも、徐々に徐々に先生の顔は、記憶のすみに追いやられていった。

今年の正月、自分の不注意から低温やけどを負った。
その傷口が炎症を起こしていた。でも医者嫌いな私はできればそのまま自然に治ることを願っていた。しかし。
傷も傷、薬が必要なことを認識させられ、しぶしぶ医者を探す。そのとき、
あの先生、あの病院を思い出した。

久しぶりにその病院を訪れる。
小さな駅の前にある、小さな小さな病院だ。
開業時間前に行ったにもかかわらず、以前と同様、受付は開かれ、待合室には何人もの患者が待っていた。

みな黙っている。でも。
受付で待つことが苦手な私が、それでもこの病院でなら待っていられるのは、患者がみな安心した顔をしているからだ。
先生ならちゃんと診てくれる。そのことを、みな、知っている。だから安心して時間が多少かかろうと待っていられる。

名前が呼ばれ、診察室に入る。前となんら変わっていない。数年が経つのに、まるでタイムトリップしたかのような感覚を覚える。
そして先生は以前と同様、いや、以前よりもやさしく明るい表情で椅子をすすめて来る。

すぐに炎症止めと化膿止め、痛み止めなどが処方される。
そして私は、自然、口にしていた。
あの先生、最近、この右耳のあたりから顔面、後頭部と、痙攣が四六時中起きているんですが。
先生がにっこり笑って言う。
そうですか、それはね、緊張しているからなるんだよ、大丈夫、たいしたことじゃないからね、筋肉が緊張からこわばってしまうからそうなるだけなんだよ、気になるなら薬を処方しようか、あぁでも、この薬を飲み終わってからのほうがいいな、来週またおいで。

私は一瞬、涙が出そうになった。
というのも、今週はじめ、今年初の心療内科での診察時、同じことを言ったにもかかわらず、私は、先生からそのことを無視され診察室を三分もかからず追い出されていたからだ。
すべては自分じゃなくカウンセラーに話しなさい。それが、心療内科の先生の言葉だった。
以来、私はぴくぴくする耳元、顔面、後頭部を、もてあましていた。

安心した。
ほっとした。
大丈夫なんだと思った。
そうか、大丈夫なんだ、緊張しているだけなんだ、と思った。
もちろん、医者の言葉で痙攣が治ったわけではない。でも、
不安は一気になくなった。

今私は、心療内科に通うことが苦痛だ。話を何もきかず、薬だけ処方し、それでもとこちらが訴えると、すべてはカウンセラーに話しなさいと突き放 す。そういう医者に、閉口していた。もうどうにでもなれと半分あきらめていた。それでも薬がないとあきらかに不安定になる自分に、何とかどうにか日常を越 えるためだと言い聞かせ、通い続けている。
でも。
聞いてくれる先生も、まだいたんだな、と、
それが分かった。
それだけで、私はずいぶんと、救われた。

それじゃ、また来週ね、と見送られる。私は自然、ありがとうございますと口にしている。
本当に、ありがたかった。
来週また来ようと思った。

小さな町の小さな開業医。
名前は知らない。でも、
その先生の元を訪れる患者はみな、安心した顔をして帰ってゆく。
もちろん、痛みや熱にうなされ、ふらふらしていたりもするけれど、それでも安心が見え隠れしている。誰もの表情の奥に。

人として、そんな人であれたら、とふと、帰り道にそう思う。

来週月曜日は祝日。心療内科の診察はない。
二週間分の薬を渡され、私は先週あの診察室を出た。
来週先生と会い、また追い出されるようにして診察室を出なければならないかと思うとそれだけで私の心には負担だった。でも来週はそれがない。それは私にとってうれしいことだった。
そして。
来週またあの開業医のもとへいけば、診察してもらえる。
そのことが、私を安心させている。
今もまた痙攣がひどくなっているけれど、これもまた大丈夫、つきあっていく方法を考えればいいことだ、と、自分で自分に言ってやる余裕がある。
その余裕は、間違いなく、あの開業医がくれたものだ。

ありがとう。
久しぶりに医者に、そう言える。

2009年1月2日金曜日

■気づけば年が明けていて

毎年何通か、戻ってくる年賀状がある。
今日も一通、戻ってきた。
娘が言う。もったいないね、と。
私はそれよりも、届かなかった相手の顔を思い浮かべている。
元気ですか、元気でいますか。
元気ならそれでいいのだけれども。
元気ですか、元気でいますか。
傷だらけになりながらも必死に生きている貴女だから、私は多分忘れない。

手紙が届くこと。
それはまるで当たり前のようで、当たり前なんかじゃない。
だからいつも、戻ってこない手紙に感謝する。返事がなくても、届いていることに感謝する。

元気ですか。元気でいますか。
私は今も、貴女たちのことを覚えています。