2009年2月19日木曜日

■ひらり、はらり、もっと潔くあれ

 朝一番に開けた窓の外を見つめるでもなく眺めている。あぁ夜明けがこんなにも早くなった。東から伸びてくる陽光があの窓にこんなに早く届くようになった。徐々に徐々に白くなってゆく光を、ただ私は今眺めている。
 ひらり、はらり。最近その音を聴くことが多い。ひらり、はらり。衣がまた削げ落ちてゆく。そういう音だ。
 父母との間のしこりはなくなったわけではない。でもかつてのようにありありとそこに在るわけでもない。その境をしこりを、こっそり越えて向こう側を見る術も、それなりに身につけた。だから、その瞬間逆流した血流も、すぐ元の流れに戻るようになった。
 これは多分に娘の影響が大きい。
 娘は間違いなく私が産んだ子供だ。私が腹を痛め、この世に産み出した子供だ。子供のちょっとした癖の中に、かつての自分を垣間見ることが多々ある。しかし。
 大きく違うのだ。
 私は父母に叱られるとまず唇を噛んだ。そして泣いた。ほろほろと大粒の涙をこぼして泣いた。しかしそれは悲しいからではなく、悔しいからだった。ごめんなさいと言うのは、とことんのところへ言ってからじゃなければ言わなかった。
 けれど娘は、いともあっさりとごめんなさいと言う。あっさりとありがとうと言う。それはどうしてこうもあっさり言えるのかと思うほどだ。
 けれど、彼女の言葉や声を通して、改めて、その二言がどれほど美しい言葉なのかを私は思い知っている。
 娘が使うありがとうやごめんなさいの言葉を繰り返し聴きながら、私は学んでいる。そして気づけば、ありがとうやごめんなさいを自然に使っている自分を見出す。
 子供に教えられるとは、まさにこういうことなのかもしれない。

 一方で、そんなあっさりと残酷な言葉を吐いていいのか娘よ、と呆気にとられることも多々ある。そんなにクールでどうするよ娘と思うことも多々ある。と同時に、それがどれほど己に忠実な言葉であるのかを彼女の表情から読み取らされる。そして私は逆に突きつけられるのだ。自分がどれだけさまざまなしがらみにこだわっているのかを。そして、はて、と首を傾げるのだ。自分は一体何を生きているのだったっけ、と。
 私は私でしかない。私は私以外の何者でもない。私は私の一生を全うするしか術がない。ひっくりかえせば、私を生きられるのは私以外の何者でもない。
 ならば。
 もっと潔くあれ。と、私の中の私がぼそっと呟く。
 もっと簡潔であれ。もっと明快であれ。私の隣で笑う娘の中の私が呟く。
 纏わりつくしがらみは、多分私が世界と関わっている以上なくなることはない。でもそれに塗れてしまうくらいなら、はじめから自分を生きようとなんて思うな、と。
 そして聴くのだ。ひらり、はらり、はらり、ひらり。また一枚落ちてゆく衣の音を。ひらりはらり、ひらりはらり。私の皮がまた、一枚剥けてゆく。要らない荷物を、またひとつ道端に置いて、私はさらに今をゆく。
 もっと簡潔であれ。もっと明快であれ。そう、
 もっと潔くあれ。

 気づけば窓一面、明るくなっている。今日も多分、りんりんと晴れるのだろう。いっとき目を閉じ耳を澄ますと、震えるような空気の音が聴こえる。

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