2004年2月26日木曜日

「朝日の中の黒い鳥」ポール・クローデル著、内藤 高訳、講談社学術文庫

 1920年代、外交官として日本で過ごしたポール・クローデルは、日本を訪れるずっと以前から姉カミーユ・クローデルの影響もあって日本文化へ非常な興味を持っていた。その彼の目から見た大正時代の日本、日本で生まれ育った日本人では見落としてしまいがちな、日本ならではの風土と文化が語られているのが「朝日の中の黒い鳥」だ。
この著作は、1927年、クローデルが日本を離れてまもなく、エクセルシオール社から出版されたのが初めでその後何度か版を重ねているが、この文庫本は、1965年にガリマール社から発行された「クローデル散文集の中に収められているものを底本として訳出されている。
 彼は外交官として日本に滞在する間、実に多くの日本美術を探求し、各地を旅行して回った。そして、かつて日本を訪れた幾人もの芸術家や文学者、哲学者たちがおこなったような、日本の光景を自分の感情の赴くままに軽妙にセンチメンタルに描写するのではなく、彼自身が実際にそこに身を置いた様々な情況や旅行や日々の中での会話、読書などから、日本の文化を、日本人という民族を、実体験として理解し、掴み取り、ここに記している。
 本著の中から幾つか引用したい。

「日本人の生活とは、ちょうど旧家の子供が家の古くからの祭りに加わるように、この厳かな暦の運行に加わることなのです。日本人は自然を服従させるというよりも、自らがその一員となること、自然がとりおこなうさまざまな儀式に参加することへと向かいます。自然を見つめ、それと同じことを繰り返し、自然がもつ言葉と自然の衣裳を補い完全なものにしてやる。日本人と自然とは同時に生きているのです。人間と自然との間にこれほど密接な理解が存在し、これほど明瞭にお互いがお互いの刻印を宿し合っている国はありません。」

「われわれヨーロッパ人の観念とはすべてを言うこと、すべてを表現することです。枠の中はいっぱいに満たされており、それを満たしている様々な事物の間に打ちたてられる秩序、線や色彩の構成から美というものが生まれます。これに対して、日本では書であれデッサンであれ、一枚の頁の中でもっとも重要な役割は常に余白の部分に委ねられています。あの描かれた小鳥、木の枝、魚などはある不在の場に挿絵を添え、この場の存在を示す役割しか果たしていません。想像力の働きがその場に喜びを見出すのです。」

「日本人の精神がそのもっとも本質的な特性の中でもとりわけ、たとえば忍耐心や注意力のような特質に磨きをかけてきたとしてもどうして驚くことがあろう。意志のこれほど巧みで厳しい訓練、壊れやすい神経組織の上にこれほどピンと支えられた監視力、精神をこんなにも繊細で入念に行動に適応させる能力、これらのものを一体他のどの国に見出すことがあろうか。」

 これは、クローデルがその当時日本文化そして日本人に対して抱いた礼讃のほんの一部である。これを読むとき、私たちは気付きはしないだろうか。これらクローデルがたたえた日本国が持つ独特な美質や日本人の気質は、今現代を生きる私たちにとって、もうすっかり過去の遺物になっていやしないかということを。絵画や版画といった美術品に特に特徴的に現れてくる余白は、かつて、日本文学においても「余白の美学」として立ち現れたものであった。しかし、今、私たちを取り囲むこの現状、現実社会を省みるとき、それは一体何処に存在しているのだろう。過剰なほどに言葉にし、表現し、意志表示をしなければ存在さえ容易に無視され下手すれば押し潰されてしまう性急な社会。それでいながら、差し迫った問題を後回しにし、或いは見ないふりをし放棄する、その結果、幾つもの問題が山積みになったまま腐臭を放っている。そうなった現状に自らも加担していたにも関わらず、周囲を批判するばかりで、己の責任は何処までも回避してゆく。そこから生じる慢性的な疲労感にすっかり覆われた人々の心は、物質的欲求にその殆どが占められ、想像力の働く隙間など、もはや殆ど残っていない。

 彼は本著最後に収められている、離日後に書いた「日本への惜別」でこう述べている。

「こうした陰鬱な情景に、さらにおそらくもっとも先行きを不安にする事柄を付け加えなければならぬ。日本の大学に関することである。日本の大学は比較的数が多く沢山の学生が通っているが、毎年限られた就職口に大量の学生を吐き出し、多くの落伍者を生んでいる。これらの若者たちは非人間的な勉強と非常な犠牲を払ってどうにかこうにか卒業免状を手にするに至るのである。…中略…ヨーロッパ風の服装をした若者たちのうす汚れてしまりのない姿は、この国にもともと存在していた衣服の厳粛さ優雅さ清潔さと好対照をなし、東京でもっともみすぼらしい光景の一つである。これらの飢えたる人々はどうなるのか。」

 「とりわけ極東の国々における現在の局面がもつ本質的で根本的な重要性を理解するとき、日本がその高慢さ、その伝統、迷信的習慣、その名誉、そして今日まで極東における権利を構成してきたものすべてを後に捨ててさらに生き長らえるためには、いったいどのように対処していけばいいのか。たえず飢饉に脅かされている何百万の人々を、平和で民主的な国にどのようにして変えていくのだろうか。
 そのことを待ちながら私が別れを言わなければならないのは古い日本、私がかつて長く暮らし強く愛したあの古い日本に向かってである。」

 彼の、日本に対して抱いた不安はおおむね的中したといって過言ではないと私は思っている。自分の周囲、身の回り、その日常を省みれば、それは容易に明白になる。別に私が今更声を大にしていわずとも、殆どの日本人がそれは実感していることに違いない。日本は日本であることをいつのまにか恥じるようになり、もともと持っていた物真似の巧みさを使って欧米を追いかけ、そうしてくる中で、次々、自らの衣を脱ぎ捨て焼き捨ててきた。それは、いいかえれば、日本人であることを捨てるに等しいことでもあった。でも、それをすすんでやってきたのが日本人である。その結果在るのが、今のこの世の中なのだ。

 そしてもうひとつ、私がおもしろいと思った部分が幾つかある。それは、「この動く大地の上では、日本人は…自らをできるだけ小さく、できるだけ軽くする(ことで生きてきた)」「そして、日本人は自分の家と家財道具を周囲の状況に合わせてきたように、自分の心もそれに合わせてきた」「(大震災に襲われ廃墟の下に埋もれた犠牲者たちの声も)「助けてくれ!こっちだ!」というような差し迫った叫び声ではなかった。「どうぞ、どうぞ、どうぞ」(お願いします)という慎ましい懇願の声だった」などとクローデルが示す日本人的気質だ。これは、クローデルが示したときは、日本人の美点であったはずだ。しかし、この日本人的特質は妙な変貌を遂げた。はっきりと口に出して物事や精神を表現しきる術もうまく使えぬままに、個人と個人の繋がりを関係性を育む前に個人の権利ばかりを主張するようになり、気付けば、自分さえ良ければというところに行きついてしまった。今、私たちを取り巻く現状を、自分自身を含めた日本人を振り返ったとき、すぐそこに蔓延していないだろうか。自分さえというこの傲慢さが。

 姉と揃って親日家であった彼のこの著作には、丁寧に丁寧に、そして愛情とともに冷静な目で大正時代の日本が語られている。そこには、私たちが今失ってしまった日本人らしさ、誇りにこそすれ失ってはならなかった日本人らしさが詰めこまれている。
 しかし、私はここで、今の私たちの有様を否定しようとしているのではない。むしろ、今の私たちは私たちにしか持てないものを持っていると信じている。でもそこに、魂の潤いはあるのだろうか。誇りはあるのだろうか。私は、一日本人として、一個人として、胸をはって生きていたい。ただそれだけを思いながら、毎日をこつこつと生きている一人だ。だからこそ、単に生き急ぐばかりでなく、時に立ち止まり、自分が拠って立っているこの大地に沁みこんだ血や汗、歴史(時間)を振り返り、自分に常に問いかけ続けていたいのである。
 私に、日本人の誇りはあるか。いや、この世界を担う一人の人間としての誇りは、あるか、と。

2004年2月25日水曜日

furuya「Christine Furuya-Gossler Memoires,1978-1985 クリスティーネ フルヤ=ゲッスラーメモワール 1978-1985」(写真:古屋誠一、光琳社出版、定価4500+税円)

 写真家古屋誠一氏による、亡き夫人のポートレート。
 これほどまでに張り詰めた、夫と妻との関係、その緒の形を、私はこんなふうに写真集で見るのは初めてだった。夫婦でありながら、全くの第三者としての眼と眼、その対峙の仕方、私は、綴じられた写真の束を見ながら、ある種の戦慄さえ覚えた。時に虚ろに、時に切実に、時に投げやりに、時に痛切に、声なき声をもって、そこに在る人を、ひたすらに撮り続けるという行為。同時に、撮られるという行為。
 今これを書くにあたって、再度この写真集を前から順々に、そして後ろから順々に見つめ直してみた。どちらから眺めても、ここにある視線はこれでもかというほどにぴんと張り詰めている。こうやってカメラを挟んであちらとこちら、対峙するということがどれほどエネルギーを費やさねば為し得ることのできないものであったか。いや、もしかしたらそんなもの意識せずにあちらとこちらで本人たちは向き合っていたのかもしれない。でも、だとしたら余計に、この視線のもつ緊迫感、切迫感は、哀しい。同時に、切ないほどいとおしい。
 この写真集に対する批評を幾つか読んでみると、そこには、愛のない写真だといったコメントが記されていたりする。が、私には逆に思える。いや、それも違うかもしれない。なんというか、この写真の束を見つめるほどに、古屋氏とクリスティーネ氏との間に紡がれた、その二人のものでしかない、その二人のもの独特の愛が、そこかしこに張り巡らされているように私は感じる。それは、見つめている私までもが息を詰まらせてしまうほどに。
 ページをめくるごとに彼女の瞳の奥に視線の奥に広がってゆく虚空、逆を言えば、ページを遡るほどに温みをもってゆく彼女の瞳や体温、そしてそれに対して常に全く逸れることなく対峙するカメラと古屋氏。
 彼女と出会ってから彼女が自殺するまで、彼女が自殺してから彼女と出会うまで。この写真集は、そうやって前から後ろから、それぞれに眺めることができる。ぱらぱらと適当に途中をめくるのではなく、前からか後ろからか、本の表紙からか裏表紙からか、時間を遡るか時間を辿るのか、それを、見る者に選ばせてしまうような引力がある。

 ここには、人と人との関係がどれほどに緊迫したものであるのか、人が人である時にそれがどれほどの切実な叫びをもってしてあるものなのかを省みさせる何かがある。私には、そう思えてならない。

2004年2月24日火曜日

「幻世の祈り---家族狩り 第一部」天童荒太、新潮文庫、476円

 「新・家族狩り 五部作」と大きく書かれたポスターを書店で見つけたのはついこの間のことだった。娘に絵本を買ってやろうと本屋に立ち寄り、レジに並んでいるときにふっと私の視界をかすめた。急いでいたので、部分だけをとりあえず頭にメモし、私は本屋を後にした。

 翌日、家の近くの書店へ出掛け、店員に訊いてみる。が、なかなか要領を得ない。三軒目でようやく、第一部「幻世の祈り」を手にすることができた。これから毎月一冊ずつ刊行される予定だという。
 私にとって、家族というものが孕む問題は他人事ではない。家族というものについて長い間悩み苦しみ、血反吐を吐いてきたという記憶があるからだ。
 私が大人と呼ばれる年頃になった頃、アダルトチルドレンや機能不全家族といった言葉が世間でも囁かれるようになった。私も一時期、その言葉にすがり、逃げこんだ覚えがある。(でも、そういった言葉にすがったり逃げこんだりしているうちは、何も変わらない、問題を自ら受け容れ消化しなければ何も変わらないことを、今はもう知っている。)
 天童氏が1995年に世に送り出した単行本「家族狩り」は、そんな私から見ると、社会小説と思えた。それは多分、今回の第一部あとがきに自ら書かれているように、天童氏が

「私には、いまのこの複雑な世界を把握したいという欲求があります。やりきれなことばかり起き、報われることの少ない世の中に、それでも生きる価値を、物語を通して模索したいという想いがあります。」

といった姿勢で、常に仕事(作品)と向き合っているが故に生まれたからと私は受けとめている。
 第一部を読み終えて。まだ私の中は混沌としている。この混沌には、自分の家族という像も、私が知る幾つかの家族や個人同士の緒、そして個人が世間というものになったときに生まれてしまう狭く冷たい、凶器にさえなり得る目線など、様々なものが含まれている。多分、五作全てを読み終えて、しばらくの時を経たとき、私の中で、一つの形になるのだろう。それを私は今からとても楽しみにしている。

2004年2月23日月曜日

「ビリー・ジョーの大地」カレン・ヘス作、伊藤比呂美訳、理論社

 1934年、大恐慌の真っ只中を生きた14歳の少女の日記。日記というが、訳されたそれはまるで散文詩集のよう。だから読み進むほどに断片になって散らばる印象が、どくどくと沸き上がって来る。断片すぎてそれらは、すぐどれと繋がるのか迷うことさえある。複雑なジグソー・パズルのように一見見える。が、それが幾つか繋がった時、強烈な光が放たれる。

 「あたしたちの将来はカラカラに乾いて/土埃といっしょにどこかに飛んで行ってしまったことを知る」(P55)「うすやわらかな花びらが太陽の中で焦げてゆくのを/あたしは見ていられなかった」(P110)
「そして今/その悲しみは/階段をのぼりつめて、すぐそこまで近づいてきた。/テキサスぐらい大きくなって/まっすぐこっちに向かってきていたというのに/あたしたちはそれが目に入らなかったというのか」(P113)
「いっしょに/ならんで/土埃の中をぱふぱふ歩いてゆくにつれ/あたしは/あとのことぜんぶについて/自分自身をゆるしている。」(P269)
「今までずっと/この土埃から抜け出そうと必死だった。/でも現実は/土埃もあたしの一部だった。/土埃があるからあたしがいる。/そして、こんなありのままのあたしはとてもいい。/自分で見てもいいなと思える。」(P290)

 そうして散りばめられた言葉たちは、まるで彼女の命の煌きのように、こちらの胸を目を射るほどにきらきらと輝いている。

2004年2月20日金曜日

mecano / descanso dominical メカーノ「スペインの玩具箱」

 学生の頃、部屋にラジオは必須だった。両親が寝静まったのを見計らって、スイッチを入れ、耳をそばだてなきゃ聞こえないようなボリュームで、毎夜毎夜聴いた。中学一年生だったか二年生だったか、社会科の宿題で「始皇帝」について調べて来いと言われた夜もラジオを聴いていて、いきなり「がはははは」と豪快に笑う中島みゆきのオールナイトニッポンの音に、椅子から飛びあがらんほど驚いたりもした。

 この歌も、最初はラジオで耳にした。誰が紹介していた歌だったかは覚えていない。でも、歌が流れ始めてすぐに、私はこの歌手名と曲名をメモした。それは、スペインのメカーノというグループの、「マドリッドにひとり」だった。
 当時、輸入盤という代物をまだ知らなくて、私は毎日のようにあちこちのレコード屋を回ったが、メカーノなんてグループのアルバムは何処にもなかった。でも諦められない。探して探して。そうしているうちに三年の時間を経ていた。
 あった! 見つけた時は夢かと思った。当然レジに走り、その勢いのまま家に帰り、私はそのアルバムをかけた。
 ボーカルの、水彩絵の具を思わせるような透明度を持ちながらしっかり芯の在るその声色、その後ろで奏でられる、曲毎に跳ねたり澱んだり怒涛のように流れ去ったりする音たち。スペイン語をまともに聴いたのは、私にはそれが初めてだった。でも、知らない言語なのだけれども、そんなのは飛び越して、すこんと私の心の中に落ちてきた。
 何度も繰り返し聴くうち、スペイン語が知りたくなって、全く知りもしないのに辞書を買った。四苦八苦しながら辞書をひき、訳詞を読み、一曲だけでも歌えるようになりたいと思ったりもした。
 決して押しつけることもなく、ふわっと浮いた風船みたいに心地よく、今も私は時折々にこのアルバムを聴く。そうするとなんだか、ふんふんと鼻歌を歌いたくなってくるから、アルバムを聴き終えた後私の周りには鼻歌が広がる。家事をしながら、原稿を書きながら、日記を記しながら、ふんふんふん、と、好き勝手なメロディで鼻歌を歌う。歌ってこんなふうに、心のしこりを軽くしてくれるものだったよのね、なんて、一人勝手に口元を緩めてみたりする。

2004年2月19日木曜日

KEITH JARRETT & MICHALA PETRI / BACH SONATAS

KEITH JARRETT & MICHALA PETRI / BACH SONATAS
 ヨハン・セバスティアン・バッハ ソナタ/ミカラ・ペトリ(リコーダー)、キース・ジャレット(チェンバロ)

 このアルバムは、いつも行くレコード屋を二時間ぐらいうろうろしていて見つけたもの。私の場合、初めて買うものについては、たいてい直感で。このアルバムも、手に持った瞬間、買うということを決めていた。中身の吟味もせずに。
 家に戻って早速かけてみる。スピーカーから零れ落ちた最初のリコーダーの音。あのとき受けた衝撃は、今も忘れられない。

 天使の音だ。おかしな表現だと思うが、そう思った。まるで天空の果てからすぅっと地上に降りてきた、そんな音。澄みきったその音は、私の体を震わせるに十分だった。
 キース・ジャレットのチェンバロの音よりも何よりも、ミカラ・ペトリのこのリコーダーの音。今これを書きながらもこのアルバムを聴いているが、ちょっと油断すると、目の奥がじぃんとしてきて、視界が滲んでしまいそうな気配。
 音が音を紡ぎ、気配を紡ぎ、そうして高みへとまた昇ってゆく。この音の連なりは、天国へ続く階段を描いているかのように思える。
 ただ静かに目を閉じて、音にだけ体を、心を、預けていたい。そう思える。

 生きていると、いろんな音が聞こえる。音のない状態など、多分あり得ないほどに、この世界は音で溢れかえっている。
 そんな中にありながら、ぴんと、細い細い糸が張り詰めたような静けさを、このアルバムは思い出させてくれる。
 私にとって、かけがえのない、一枚。