2004年3月23日火曜日

「不思議な少年」マーク・トウェイン作 岩波文庫

 「ハックルベリ・フィンの冒険」や「トム・ソーヤーの冒険」でよく知られるマーク・トウェイン。しかし晩年には、前述の著作からは想像のできないような、暗さと人間不信、そしてペシミズムに彩られた作品を生み出している。その中の一冊、「人間とは何か」という本は生前匿名で、なおかつ私家版として少数出版したマーク・トウェインであったが、その「人間とは何か」を小説として具現化したものが、この「不思議な少年」に当たるのではないかと思われる。
 この本は、正直、心地よい本ではない。三人の少年とサタンと名乗る少年とが出会う始まりのシーンからして、読んでいると首の後ろをがしがしと掻き毟りたくなる衝動に襲われる。自分は天使だとのたまうサタン少年が、まるで魔法のようにしてその手から生み出した動めく人形たちを一気に潰し、血まみれになった人形たちが泣き叫ぶのを見下ろしながらこう言うのだ。「ぼくたち(天使)はいまだに罪なんてものは知らない。第一、罪を犯すことができないんだよ。ぼくたちは汚れってものを知らないんだ。」「つまり、ぼくたちは、悪をしようにもできないのだよ。悪を犯す素質がない。だって、悪とはなにか、それが第一わからないんだからね」。
 そう言いながらサタンは、残酷極まりないことを少年たちの前で幾度も幾度も繰り広げる。人間というものがいかに愚かしい生き物であるのかを、これでもかというほど見せつけてゆく。
 私は、この本に描かれているものに対し、不愉快さを隠せないし、多分、そもそも、人間に対するスタンスが著者と私とではあまりに違っていて、議論し合う同じ土台に立っていない。
 しかし、今この時代に久しぶりに読み返したからだと思うが、ひっかかる部分が幾つかあった。
「君主制も、貴族政治も、宗教も、みんな君たち人間のもつ大きな性格上の欠陥、つまり、みんながその隣人を信頼せず、安全のためか、気休めのためか、それは知らんが、とにかく他人によく思われたいという欲望、それだけを根拠に成り立っているんだよ」
「戦争を煽るやつなんてのに、正しい人間、立派な人間なんてのは、いまだかつて一人としていなかった。ぼくは百万年後だって見通せるが、この原則ははずれることなんてまずあるまいね。いても、せいぜいが五、六人ってところかな。いつも決まって声の大きなひと握りの連中が、戦争、戦争と大声で叫ぶ。すると、さすがに教会なども、はじめのうちこそ用心深く反対を言う。それから国民の大多数もだ、鈍い目を眠そうにこすりながら、なぜ戦争などしなければならないのか、懸命になって考えてみる。そして、心から腹を立てて叫ぶさ、『不正の戦争、汚い戦争だ。そんな戦争の必要はない』ってね。すると、また例のひと握りの連中が、いっそう声をはりあげてわめき立てる。もちろん戦争反対の、これも少数だが、立派な人たちはね、言論や文章で反対理由を論じるだろうよ。そして、はじめのうちは、それらに耳を傾けるものもいれば、拍手を送るものもいる。だが、それもとうてい長くはつづかないね。なにしろ扇動屋のほうがはるかに声が大きいんだから。そして、やがて聴くものもいなくなり、人気も落ちてしまうというわけだよ。すると、まもなくまことに奇妙なことがはじまるのだな。まず戦争反対の弁士たちは石をもって演壇を追われる。そして、狂暴になった群衆の手で言論の自由は完全にくびり殺されてしまう。ところが、面白いのはだね、その狂暴な連中というのが、実は心の底で相変わらず石をもて追われた弁士たちと、まったく考えは同じなんだな------ただそれを口に出して言う勇気がないだけさ。さて、そうなるともう全国民------そう、教会までも含めてだが、それらがいっせいに戦争、戦争と叫び出す。そして、あえて口を開く正義の士でもいようものなら、たちまち蛮声を張り上げて、襲いかかるわけだね。まもなく、こうした人々も沈黙してしまう。あとは政治家どもが安価な嘘をでっちあげるだけさ。まず被侵略国の悪宣伝をやる。国民は国民でうしろめたさがあるせいか、その気休めに、それらの嘘をよろこんで迎えるのだ。熱心に勉強するのはよいが、反証については、いっさい検討しようともしない。こうして、そのうちには、まるで正義の戦争ででもあるかのように信じ込んでしまい、まことに奇怪な自己欺瞞だが、そのあとではじめてぐっすり安眠を神に感謝するわけだな」

 これらのサタンの台詞に、今立ち止まる人はどれだけいるだろう。今の、アメリカ主導のイラク攻撃のあれやこれやをどうしても思い描かずにはいられないのは私だけだろうか。あれから一年を迎える。先日のニュースでは、帰還した米国兵士たちの中に精神障害を病む者たちがかなり多くいることが報じられ、イラクでの体験から自ら軍を退役する者たちのインタビューなども流れていた。
 私は。
 イラクへの進軍が果たしてよかったのかといえば、そもそもそこから間違っていたような気がしている。しかし。じゃぁどうすればよかったのか。翻って、同時多発テロというものを一体どう捉えればよいのか。いや、私はあくまで日本国民であり、アメリカの事情は多分、ほんの一片しか知ってはいない。その日本国民として、たとえば自衛隊云々のことについて、自分はどう考えるのか。アメリカに追随せずにはいられなかった日本という島国の立場をはじめ、そもそも自衛隊というものの存在について、考え始めたらきりがない、次々に、考えねばならぬことは増えてゆく。そして情けないことに、私はそれに追いつききれていない。全くといっていいほどに。
 本著の終盤で、マーク・トウェインはサタンにこう言わせている。

「つまりいえば、笑い飛ばすことによって一挙になくしてしまうことだが、そうしたことに気がつく日がはたして来るのだろうかねぇ? というのはだよ、君たち人間ってのは、どうせ憐れなものじゃあるが、ただ一つだけ、こいつは実に強力な武器を持ってるわけだよね。つまり、笑いなんだ。権力、金銭、説得、哀願、迫害------そういったものにも、巨大な嘘に対して起ち上がり、いくらかずつでも制圧して------そうさ、何世紀も何世紀もかかって、少しずつ弱めていく力はたしかにある。だが、たったひと吹きで、それらを粉微塵に吹き飛ばしてしまうことのできるのは、この笑いってやつだけだな。笑いによる攻撃に立ち向かえるものはなんにもない。だのに、君たち人間は、いつも笑い以外の武器を持ち出しては、がやがや戦ってるんだ。この笑いの武器なんてものを使うことがあるかね? あるもんか。いつも放ったらかして錆びつかせてるだけの話だよ。人間として、一度でもこの武器を使ったことがあるかね? あるもんか。そんな頭も、勇気もないんだよ」

 私はこの台詞を読んだ折、頭をぶち叩かれた気がした。

 これはあくまで私の考えであり、それはとても偏っていると思う。それを予め断った上で、思うことを幾つか述べるならば。
 戦場写真を目の前にした折、何が切ないといって、それは、戦場を生活の場とする子供たちの笑顔だ。もちろんそこで暮らすのは子供だけではない、私と同じくらいの女性もいれば、私の母を思わせるような年頃の女性もいる。その人たちが戦火にさらされながらも必死に生き、そしてなおかつ笑顔を失わずに暮らす、それらの姿ほど、私の琴線を震わせるものは他にない。
 これらの笑顔を守るために、人は、それぞれの立場で争いを為す。今為されているイラクでの争いだって、アメリカはアメリカの笑顔を守るため、日本は日本の笑顔を守るため、恐らく、為していることなのだろう。しかし。
 笑顔を守るためと称して笑顔を殺してゆく潰してゆく、これは、あまりにおかしな構図ではないのか。
 これを書きながらニュースをちょっとチェックした折、目に付いた。「<イラク戦争>米の元テロ対策担当者が糾弾本を出版」。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040323-00001045-mai-int。あぁこんな動きも今は起こっているのかと、しばしボールペンを口にくわえて見ていた。
 私は、あまりに無知で、また、長いこと我関せずで過ごしていたために、何が正しくて何が悪いのかといった自分なりの意見を今持ち合わせていない。
 ただ、この「不思議な少年」の中の台詞、「それらを粉微塵に吹き飛ばしてしまうことのできるのは、この笑いってやつだけだな。笑いによる攻撃に立ち向かえるものはなんにもない。だのに、君たち人間は、いつも笑い以外の武器を持ち出しては、がやがや戦ってるんだ。この笑いの武器なんてものを使うことがあるかね?」という言葉は、重く重く、私の心にのしかかってくるのを、感じずにはいられない。
 私たちは多分、サタンの言うとおり、あまりにたくさんの残酷な武器を用い過ぎた。これでもかというほど用いてしまった。その結果は一体どうであったか。それらを用い過ぎた後に残ったものは何であったか。
 マーク・トウェインの言う通り、もしも、笑いというのが私たちが持つ唯一の本来の武器であるならば。今私たちにできることは何なのだろう。

2004年3月18日木曜日

「自画像は語る」粟津則雄 新潮社刊

 以前「自画像との対話」という本を紹介したが、自画像に関してもう一冊、私が手放せない本がある。それは、粟津則雄氏の「自画像は語る」である。
 ここでは「自画像との対話」のちょうど二倍、三十六人の作家について述べられている。その中で、エゴン・シーレ、フィンセント・ファン・ゴッホ、ポール・ゴーギャン、エドワルド・ムンク、アメディオ・モディリアニ、ジョルジョ・デ・キリコ、萬鉄五郎、パウル・クレーなどについては二冊ともにそれぞれ触れられている。これらを読み比べる、というだけでも非常に面白い。
 本著の序で粟津氏がこう述べている。

「私が、若年の頃から自画像というものに特別な興味を覚えてきたのも、私を落ち着かせてくれぬこの感触と相応じるところがあるようだ。日常の生活においては、何がしかの不安や惑乱を覚えはしても、程なく何となく忘れてしまうものだが、自画像においては、この内的な対話そのものが、本質的な表現の動機として働いているからだ。自画像も肖像画の一種には違いないが、こういう意味で、それは、たまたま自分自身をモデルにしただけのものと言うことは出来ない。もちろん、他の人物を描こうが、静物を描こうが、風景を描こうが、そこには画家の個性が否応なく現れるのだが、自画像においては、それぞれの内部の劇の構造そのものが、それぞれの資質に応じて独特のかたちで立現れるものだ。」
「とういわけだから、自画像は、それぞれの画家の、自分自身を相手とした内的な劇を表わすばかりではなく、彼らそれぞれにとっての世界像もおのずから示している。」

 これらを読み終えた後、私たちは何を思うだろう。幾つもの自画像を前にした後、私たちは自らをどう捉えるだろう。自分を見つめるということは、自分と世界との関係性を凝視するということに他ならない。己内部の均衡、世界と己を結ぶ緒の有様。日々をただ過ごしていたのならば恐らくは見過ごすばかりだろうが、そんな私たちであってさえ、世界と常に関わり、己と世界との関わりの間で懸命に均衡をとろうと無意識が働いているはずなのだ。
 今、私に、そして君に、自己と対峙するだけの勇気はあるだろうか。そこに何が存在していても、それがどんな姿をしていても、受け容れるだけの勇気があるだろうか。
 そんなことを、本著は、読み手に語りかけてくる。

2004年3月12日金曜日

掛井五郎版画作品集 1984-1991 Green Graphics Book刊(彫刻家掛井五郎氏の版画作品集、1984年から1991年に制作された版画作品が掲載)

 掛井五郎氏の彫刻作品を私が初めて目にしたのは、今からちょうど十年前のことになる。天井の高い画廊の、あちこちに起立する像。それは、みな、どっくんどっくんと息づいていた。頭も胴体も手も足も、それぞれ自由気ままに、膨らんだり縮んだり。ボリュームもコンポジションも、これでもかというほど大胆に踊っていた。それはまるで、彫像みなが「生のダンス」を踊っているかのような光景だった。あぁなんて生き生きと踊っているんだろう、私も一緒に踊りたい。見る者に、そう思わせずにはいないような、そんな吸引力が、掛井五郎氏の彫刻にはあった。
 幸運にも、美術雑誌編集者時代、最後に掛井五郎氏を取材する機会に恵まれた。仕事を辞める前にぜひとも取材したい作家の一人だったから、あの時の取材の光景は、今でも私の心の中、鮮やかに刻まれている。
 取材は確か二日間に渡った。一日しか最初は予定していなかったのだが、話をしているうちに、ぜひとも氏の制作現場に立ち会いたいという、まったくもって贅沢な私の欲求を、先生が快諾してくださったおかげだ。
 二日目、私は工房へお邪魔した。氏は、そこに着くなり、机の上に用意されていた銅版の前に立ち描き始めた。大きなバラ色の銅版の横にはいつも持ち歩いて目に付いたもの全てを描きとめているというスケッチブックを置いてあるけれども、氏はまったくそれを見る様子もない。両の手でしっかりとニードルを握り、ぐいっぐいっと銅版に線を刻んでゆく。その勢いには全く迷いがみられない。下絵がないどころの騒ぎじゃない。私が呆然とその姿を見守っていると、あっという間に一枚目が完成した。間髪いれずに氏は次の銅版に手を伸ばす。自分が思うまま、まるで子供が一心に砂遊びに興じるかのように、氏はそうやって気が済むまで何枚でも描いてゆく。
 擦り上がった作品は、どの線もみな、今にも紙からはみ出してきそうな勢いでたからかに踊っていた。
 1930年、掛井氏は五人兄弟の末っ子に生まれた。兄四人のうち二人が戦死、帰ってくることのできた二人の兄のうちの一人は戦争のため精神がすっかり荒みきっていた。掛井氏は、生前絵が大好きだったという戦死した三男の遺志をつぐという意味でも、最初は絵描きになろうと思っていたのだという。その心を変えたのが、19歳の時の木内克氏の彫刻との出会いだった。以来木内克氏に師事し、彫刻家の道を歩み始める。
 今では、彫刻だけではなく、油絵も版画も制作する。「僕は、彫刻をやっているときは彫刻に、版画を作ってるときは版画に恋愛してるのよ」と言っていたずらっ子のように笑う。そんな掛井氏は、だから、一つのものに集中し、抉り、突き詰めるのが素晴らしい作家の姿勢とみなされがちな日本芸術界からは、多分大きく外れている。
 しかし。
 この生き生きとした息吹はどうだ。見る者を巻き込んで踊り出す作品の勢いはどうだ。これらの作品を前にしたら、そんなせせこましい偏見などどうでもよくなる。
 「モネが晩年に辿りついた世界っていうのは、アンフォルメルのようだよね。あの、普通すぎる風景! 夕焼けってきれいでしょ、そういうきれいなものは一人では見ていられないんだよ、誰かと一緒に見ようよって気持ちになる。そういうのが芸術なんだよ」
 この掛井氏の言葉が、彼が生み出す作品のすべてを語っていると私には思える。
 しかし、ただ楽しげに踊り狂っているわけではないのだ。そこには、彼が歩んできた痛みや怒り、哀しみ、実に様々なものがこもっている。哀しくて辛くて痛くて、でもだから、大きな声で歌おうよ、喜びの歌を歌おうよ、今自分がここに生きてるってことを思いきり歌おうよ。彼の作品を目の前にすると、私には、作品たちがそんなふうに言っているように思えてならない。上澄みだけではないのだ、生きてるってことはきれいごとじゃすまされない。でもだからこそ、生というのは美しいのだ、と。私は、彼の作品から、そんなことを教えられる。
 日本人の、現存する作家で、これほどに真っ向から生を謳い、生を愛する作品、作家というものを、私は他に知らない。

2004年3月9日火曜日

DIDIER SQUIBAN 「BALLADES」

 私は海が好きだ。これでもかというほど好きだ。今でもはっきり覚えている。海を初めて目の前にした時、あぁ私はここで死ぬんだ、と思った。それは感傷などではなく、むしろ満足や恍惚に似たもので、私はここで死ぬことができる、という思いは、私をあたたかく満たした。けれども当時カナヅチだった私は、海とどうしても友達になりたいんだと言って体育の先生を捕まえ無理矢理指導を乞うたのだった。泳げるようになり、潜ることが得意になった頃は、大人になったら海女になるんだと真剣に考えてもいた。学生の頃はだから、毎日海に寄り道した。海面に光の道をつけ、やがてぽとんと水平線に落ちてゆく太陽。それを合図のように、がらりと色を変え音を変える海。一日たりとて同じ姿はなかった。常に常に、変化し、それは私に、不変のものなど実はこの世の何処にもないのだということをそっと教えた。
 このアルバムは、海をテーマに作られているのだという。ディディエ・スキバン。聞いたこともない名前だった。が、海という言葉に惹かれ、私は買った。
 早速聞いてみる。ジャズの要素を多分に含んだピアノの音色。私は正直に言うと、ジャズはあまり好きではない。長年クラシックピアノを弾いてきて、どっぷりクラシックに慣れ親しんだ私には、ジャズのあの独特な匂いがどうも身体に馴染まないというのが理由だ。しかし、スキバンの旋律は、そんな私の耳にあまり違和感なく滑り込んでくる。それは、そこに海があるからだ。夜闇が徐々に白んでゆき、やがて燃えるような太陽が顔を出して水平線を一直線に割ってゆく、あのときの海の光り輝く様。雨雲がずんとのしかかってくるようななかで、まるで幼い子供のように雨粒と戯れはしゃぐ波の様。朗々と、今という一瞬一瞬を舌の上でじっくり味わうように横たわる様。降り注ぐ昼間の光をくすぐったいといわんばかりに弾ける波の様。声に出しては何も言わないけれども、そこに在て、じっとこちらを凝視する海の色。私の知っているありとあらゆる海が、音となってこのアルバムの中に詰まっている。もちろんその中には私の知らない海もあって、あぁこんな雄々しい、或いはこんな柔らかな海もあるのか、と、私は音の中で立ち止まったりする。また一方で、私の知っている海はもっとどす黒く、鉛のようで、前に立つ私を威嚇し飲み込まんとするような荒々しさがあったよと、言ってみたくなったりもする。
 海はよく、生きとし生けるものの母だと言う言葉を耳にするが、このアルバムには、母なる海だけじゃない、父としての海も幼子としての海もいる。海をただ一日、或いはただ一時、眺めただけでは知り得ない姿。海を肌で感じ取っていなければ生まれないであろう音が、ここには詰まっている。
 あなたにとって海とは何か。もし、毎日を営んでゆく中で海という言葉を海という姿を心に浮かべることが一瞬でもあるのなら、あなたにもこの音たちは何かを語りかけてくるかもしれない。
 何かをしながらではなく、このアルバムをかけたときには、余計なことは何もせず、ただ黙って、この音たちに身体を任せていたい。そう思ってしまうような、一枚である。

2004年3月4日木曜日

「自画像との対話」黒井千次著 文藝春秋刊

 自画像とは一体何であろう。

 自画像というものが生まれるまでの絵画というのは(風景画であったり肖像画であったり)、あくまで制作者と対象との関係の上に成り立っていた。つまり、制作者と外界である世界との関わり、その接点の在り方を示すものとして、絵画は存在していたといえる。
 しかし、自画像はこの点で大きく異なる。描く(描かれる)対象と制作者とが一つに重なり合っているからだ。ひとたび絵が完成したならば、その絵画は客観的に存在してしまうものであるにも関わらず、である。
 人は、自分で己の姿を見ることは当然の如くかなわない。それを唯一可能にさせるのが鏡である。恐らく君も私も、今日これまでの間に一度は鏡に映る自分の姿を目にしていることだろう。それはもしかしたら、睡眠不足で腫れぼったい顔をしていたかもしれないし、もしかしたら昨日の幸せな夢をいっぱいに吸い込んで晴れやかな顔をしていたかもしれない。どちらにしても、それが私たちがこの眼で捉えられる自分たちの顔である。そして、その顔は、姿は、実は虚像なのだ。鏡が映し出す虚像。どこまでいっても虚像は実像にはなり得ない。しかし、私たちが自分を確認するには、この虚像を頼りにするほかない。
 美術界に、独立した作品としての自画像が現れたのは、十六世紀頃からだという。また、金属鏡に代わって精密に像を映し出すガラス鏡が発明されヨーロッパに普及したのも、十六、七世紀であったそうだ。つまり、ガラス鏡の出現・普及の時期と、自画像の誕生の時期とは、ほぼ重なり合っている。鏡を覗くという行為、それは自分を見つめるという行為である。自画像を描いた作家たちは、一体どれほどにこの鏡を見つめたことだろう。同時に、どれほどにこの鏡から眼を逸らしたことだろう。自分というものは、自分自身であるからこそ近く、同時にこれでもかというほどに遠い存在といえる。近いからこそ見えず、でもだからこそ知りたい、最も親しく、同時に遠い存在。
 私たちは鏡を見る。そこに在る、鏡の中の自分。あくまでもそれは虚像。しかし、それが唯一自分の眼で捉えられる自分の姿。
 つまり、自画像を描くということは、自分の眼では決して捉えることのできない、実像としては捉えることのかなわない自分というものを描き出す行為。見えないものを見ようとする、画家の自己凝視、自己発見の行為であるといえる。
 そして著者は指摘する。そうした自画像はとても危険な絵画であるのだ、と。

「自画像は、何よりもそれを描く本人にとって危険な絵画といわねばならぬ。自己を外界に向けて曝そうとするためである。と同時に、描く本人をもまた、危険な人間とせずにはおくまい。おそらく自己を深く掘る人は、他人をも掘り、外界をも掘削する」。

 この本の中には、十八人の画家たちとその自画像とが紹介されている。この十八人の画家とそして自画像と相対するとき、私たちはそこに何を見出すのであろう。苦悶か、葛藤か、それとも恍惚の表情か。
 それらは、すべて自分にはね返ってくることを私たちは忘れてはならない。その自画像は恐らく、作者であり、同時に、見る私たち本人であるからだ。何故なら、その像の中に何かしらを見出すのは、恐らく私たち自身の内にそれが存在しているからだ。
 君は君であって私は君ではない。
 しかし、君の中に私が何かを見出すとき、それは、私の中にも存在する。君の中にそれを私が見出すのは、私がそれを持っているからに他ならない。
 画家はカンバスの上に自分を曝した。それが自画像であり、そこには汚物も憎悪も歓喜も、人間を形作る要素が至るところに散りばめられていることだろう。そしてまた、そんな絵と向き合う時、私たちは否応なくそこに自分を見出す。カンバスの上に曝されているのは、決して作者自身だけではないのだ、それを見る私たちもが、曝されている。
 自画像と向き合うこと、とはまさに、私と「わたし」との対峙である。

 あなたは今、この一枚の自画像の内に、一体何を見るのだろう。

2004年3月2日火曜日

「かんがえるカエルくん」「まだかんがえるカエルくん」「もっとかんがえるカエルくん」 いわむらかずお作 福音館書店

 カエルくんとその友達のネズミくん。ふたりはいろいろ考える。
 たとえば。
「よるがくるね」
「よるはどこからくるの?」
 かんがえているカエルくん
 よるをさがしているネズミくん
 よるをさがしているふたり
「じめんのしたからよるはくるんだ」
「そっか」
「そらはあかるいけど、じめんはくらい」
「あのきのねもとからよるがくる」
「あのくさのねもとからよるがくる」
 かんがえている
 よるをさがしている
「だけど どうしてよるはくらいの?」

 彼らのやりとりは、そうやって続く。何処までも何処までも。ふたりの「なぜ」「どうして」は、とどまるところを知らない。そしてふたりの「なぜ」「どうして」は、とてもとても素朴なのだ。え? 言われてみると…と、大のオトナが言いたくなるくらいに。
 オトナになると、多分あちこちで、知っているふりをする。たとえば先に挙げた夜を、私たちはどう説明するだろう。少なくとも、地面の下から夜が来るとは、誰も考えまい。よる→くらい→くらいのはじめん→じめんからくるのだ、なんて、間違っても言うまい。ましてや、夜はどうして暗いの、なんて子供に聞かれれば、「太陽が沈んだからだよ」と、夢もへったくれもないようなことをすっと言ってしまうのがオチだろう。朝が来て昼が来て、やがて夜が来て。そしてまた太陽が昇ればそれが朝なのだ。大人は多分そうやって、一日を順々に捉える。そこに疑問の余地は、多分、ない。オトナにとって、それは、知恵であり、術なのだ。
 でも、オトナじゃない、コドモにとっては違う。そんな知恵なんて、術なんて、クソ食らえだ。
 だからこの本をひらくと、いたるところで、ふふふと笑えてしまうのだ。そうそう、そうだよね、と。言われてみればそうだよね、何故だろう、どうしてだろう、と。
 一日を上手にやりくりするために、人はいろんな習慣を作る。それに自分を慣れさせ、極端な表現かもしれないが、或る意味自分をベルトコンベアの上に乗せて、生き易いよう、生き易いようにリズムを作る。ひとつひとつのことに立ち止まっていたら、きりがないから、できるだけ上手に、楽に生きられるように。
 でも、そんな毎日に、疲れることもある。あまりにいろんな規則を作って、あまりに自分を枠にはめて、そうやって歩いてゆくのは楽かもしれないけれども、同時にちょっとつまらない。だから立ち止まる。立ち止まって、いつもは見過ごしている空を見上げたり、いつもなら目にもとまらない看板に立ち止まってみたり。そうやって見てみると、自分の周りは、あれ?どうして?が散りばめられていることに気付く。
 なぜ? どうして?
 だから、当たり前に過ごしている毎日に立ち止まりたくなったとき、私はこの本を開く。そしてふふふと笑う。そうそう、と相槌をうつ。そして本を閉じ、空に向かって、風に向かって、深呼吸する。
 そう、この本たちは、私の大切な、深呼吸の為の本である。

2004年3月1日月曜日

L'oeuvre de Camille Claudel catarogue raisonne カミーユ・クローデル作品カタログ レゾネ/監修レーヌ=マリー・パリス

 これは私の偏見かもしれないが。芸術家が男性でなく女性である場合、純粋にその女性芸術家の作品・実績にスポットが当てられることは少ないと思われる。作品にではなく、むしろ、その人生、生き様にこそ光が当てられ、人々の注目を集めることの方が多いと言える。カミーユ・クローデル(Camille Claudel,1864~1943)の場合もそうであろう。

 オギュースト・ロダン(Auguste Rodin,1840~1917)の弟子であり、共同制作者であり、そして愛人であったカミーユ。そして、詩人、劇作家かつ外交官であったポール・クローデル(Paul Claudel,1868~1955)の姉カミーユ。後半生はパラノイアに陥り、精神病院へと収容されることとなったカミーユ。
 彼女の復興運動が興っても、女性であることやその激しい生き様にこそスポットは当てられ、彫刻家としての彼女が知られるようになるまでには長い道程を要した。今もまだ、私から見ると彫刻家カミーユ・クローデルとしての知名度は、まだまだ足りないように思う。つまり何処までも「人間あるいは女性カミーユ・クローデル」であり、「彫刻家」という冠は、何処かに置き忘れられてしまったかのような。
 しかも、ようやく作品について述べられる機会を与えられれば、今度はロダンとの比較ばかり。ロダンの影響下でのカミーユ彫刻ばかりが取り上げられるという始末。
 確かに、あの時代、ロダンの彫刻は衝撃であった。脅威であった。その影響はフランスに留まらず世界へ伝播し、日本にも当然の如く伝わった。日本近代彫刻家たちの多くが、ロダンを父と、師としてあがめたような時期もあった。そのロダンの愛人ともなれば、ロダンの影響をどれほど強く受けたかとみられることは、いたしかたがないともいえる。また、ロダンは、彼の作品制作の主要部分の殆どを、弟子カミーユに委ねていた事実もあり、ロダンの作品とカミーユの作品に、その主題に、幾つもの接点が見出せるのも事実である。
 しかし。カミーユ・クローデル、彼女の彫刻には、ロダンと出会う以前に、そのロダン的要素とでもいうべき力強さ、女とは思えぬほどの大胆さがすでに宿っていたことを、私たちは忘れてはならない。それは、ポール・デュボワの有名な言葉、まだロダンの存在はもちろんその彫刻のことも全く知らずにいた年頃のカミーユに向かって「君はロダン氏に習ったのかね?」といわしめた実力が、十分に証明してくれよう。それだけではない、彼女の初期の試作品についての唯一の証人、マティアス・モラールは、次のように語っている。「実際、特筆すべきことは、この初期の試作品が動きの点でも形式の点でも、荒々しい激しさを証明していることである。…これはまさに、ロマンティックなドラマである」。そうした彼女の資質は、最初の師アルフレッド・ブーシェのもとで見事に開花したものであって、そこには決して、ロダン彫刻と彼女の彫刻とを結ぶ接点はない。また、この頃のカミーユに関してのマティアス・モラールのさらなる記述をみれば、「この時期から、マドモワゼル・カミーユ・クローデルはフォルムに大きな配慮を払うようになり、解釈し、知性と高貴な感性をもってそれを洞察するようになる。彼女の忠実な手から創り出される作品は、決して心自体を裏切ったり縮小したりすることはないであろう。これから後、彼女が私たちの目の前に鮮やかに表現していくのは、自然の悲劇的な、あるいは抒情的な美なのである」とある。また、カミーユ彫刻研究の第一人者として知られるレーヌ=マリー・パリス氏は、カミーユがロダンの工房に下彫工として入った頃には、彼女はすでに自分自身の作品の作風を確立していたと証言している。
 つまり。彼女のロダン的要素は、彼女に生来備わっていたものであり、それがロダンのもとで眩しいほどに洗練されたとこそ考えるべきなのではないだろうか。「カミーユ・クローデルの作品は、(ロダンとの)訣別と否定によってではなく、掘り下げ濃縮することによって師(ロダン)の影響を脱しようとする弟子の、必死の努力を明らかにしている」(レーヌ=マリー・パリス)。
 これは、あくまで私の観だが。パリのロダン美術館を訪れた折、私はその門に立ち美術館を目の前にした時、眩暈を感じた。館が叫んでいるのである。いや、館の中からこちらへと、幾つもの声が突き刺さってくる、そんな錯覚を覚えた。それはとても息苦しく、地を這うような、苦しみにも似た、そう、呻き声だった。館に入って、そこで私は呻き声の正体を知る。ロダンの彫刻が、館にひしめくありとあらゆる彫刻が、うめいているのである。苦悶に悶えているのである。
 一方、ロダン美術館の中の小さな一室、カミーユ・クローデルの部屋としてもうけられたその一室に入ると、突然あたりはしんと静まり返る。それまで私の耳にぐわんぐわんと押し寄せて来た一切の声が消えるのである。そして知る。あぁ、ロダンの彫刻が外へと叫ぶのならば、カミーユの彫刻は内へ内へと向かう声、ひそひそと小さくおしゃべりする彫刻なのだなということを。それは、まったく対極といっていい。ロダンの彫刻、そしてカミーユの彫刻が持つその性質の異。
 そんな二人の彫刻を前にして、当時こう思ったことを今でもはっきりと覚えている。ロダンの彫刻が見る者に感動を与えるものであるならば、カミーユの彫刻は、共感を与えるものなのではないか、と。
 そして、私がカミーユ彫刻を見つめるときに興味深いと思うことの一つはこの点にある。なぜなら、こうした「共感」というものは、当時西洋にはない感覚であったからだ。「いつも何かはっと驚かされたり、面白がらせていることを求める我々には、あの親密な共感---もしこう言ってよければ、あの魂の潤いというものが欠けているのです」(ポール・クローデル「朝日の中の黒い鳥」より引用)。余談かもしれないが、ロダンを師と仰ぎ、その言葉を聖書のように愛したとして知られる日本の近代彫刻家の一人である佐藤忠良氏が1981年にロダン美術館で個展を開き大成功を収めた折、それを評したル・モンド誌美術記者がこんなことを記している。「(佐藤の彫刻は)淡々として美しい命の表現だ。ロダンというよりカミーユの結晶だ」。そして。もう一度この日本の近代彫刻史を省みてみると。ロダンを師として、父として敬い慕った何人もの日本の彫刻家たちが、徐々に徐々に、ロダン彫刻から離れていったことを思い出さないだろうか。ロダンの彫刻を、ただ荒々しいばかりだ、と、或いは叫ぶばかりで余計な肉をつけすぎた肥満児のようにさえ見える、と。そうして彼らは、たとえば高村光太郎など、それまでの作品からふわりと離れ、まるで工芸と思えるような領域へと立ち戻っていった。内へ内へと囁くような小さな彫刻へと。
 そうした歴史や事実を省みるとき、私は、思うのである。日本の近代彫刻の師は、実はロダンではなく、カミーユ彫刻ではなかっただろうか、と。荻原守衛たちがロダンの工房を訪れた頃、カミーユはロダンの工房の下働きをしていた。そしてその当時、アトリエには、山のように弟子たちの彫ったものが散乱していたという。そのことを思うとき、守衛たちは実は、ロダンの作品というよりもカミーユの彫ったものたちに心惹かれていたのかもしれない、と。
 そんなふうに私は夢想しつつ、カタログをめくる。そこにあるのは、決して大きな声を出さない、ねぇねぇ、こっちよ、と、耳元で囁いてくるような作品たち。それは、とてもここちよい響きを、私の内にもたらしてくれるのである。
 カミーユ・クローデル彫刻をそうやって、いくつもの角度から捉えた一冊が、この本である。日本でカミーユ・クローデルに関する本といえば、おそらくみすず書房から出ているレーヌ=マリー・パリス著「カミーユ・クローデル」などが挙がるだろう。が、私はあえて、この、カタログレゾネの方を推薦したい。その作品ひとつひとつを、もう一度、その目に捉えてみてほしい。その人生よりも、彫刻家カミーユ・クローデルの作品群をこそ。