2004年3月4日木曜日

「自画像との対話」黒井千次著 文藝春秋刊

 自画像とは一体何であろう。

 自画像というものが生まれるまでの絵画というのは(風景画であったり肖像画であったり)、あくまで制作者と対象との関係の上に成り立っていた。つまり、制作者と外界である世界との関わり、その接点の在り方を示すものとして、絵画は存在していたといえる。
 しかし、自画像はこの点で大きく異なる。描く(描かれる)対象と制作者とが一つに重なり合っているからだ。ひとたび絵が完成したならば、その絵画は客観的に存在してしまうものであるにも関わらず、である。
 人は、自分で己の姿を見ることは当然の如くかなわない。それを唯一可能にさせるのが鏡である。恐らく君も私も、今日これまでの間に一度は鏡に映る自分の姿を目にしていることだろう。それはもしかしたら、睡眠不足で腫れぼったい顔をしていたかもしれないし、もしかしたら昨日の幸せな夢をいっぱいに吸い込んで晴れやかな顔をしていたかもしれない。どちらにしても、それが私たちがこの眼で捉えられる自分たちの顔である。そして、その顔は、姿は、実は虚像なのだ。鏡が映し出す虚像。どこまでいっても虚像は実像にはなり得ない。しかし、私たちが自分を確認するには、この虚像を頼りにするほかない。
 美術界に、独立した作品としての自画像が現れたのは、十六世紀頃からだという。また、金属鏡に代わって精密に像を映し出すガラス鏡が発明されヨーロッパに普及したのも、十六、七世紀であったそうだ。つまり、ガラス鏡の出現・普及の時期と、自画像の誕生の時期とは、ほぼ重なり合っている。鏡を覗くという行為、それは自分を見つめるという行為である。自画像を描いた作家たちは、一体どれほどにこの鏡を見つめたことだろう。同時に、どれほどにこの鏡から眼を逸らしたことだろう。自分というものは、自分自身であるからこそ近く、同時にこれでもかというほどに遠い存在といえる。近いからこそ見えず、でもだからこそ知りたい、最も親しく、同時に遠い存在。
 私たちは鏡を見る。そこに在る、鏡の中の自分。あくまでもそれは虚像。しかし、それが唯一自分の眼で捉えられる自分の姿。
 つまり、自画像を描くということは、自分の眼では決して捉えることのできない、実像としては捉えることのかなわない自分というものを描き出す行為。見えないものを見ようとする、画家の自己凝視、自己発見の行為であるといえる。
 そして著者は指摘する。そうした自画像はとても危険な絵画であるのだ、と。

「自画像は、何よりもそれを描く本人にとって危険な絵画といわねばならぬ。自己を外界に向けて曝そうとするためである。と同時に、描く本人をもまた、危険な人間とせずにはおくまい。おそらく自己を深く掘る人は、他人をも掘り、外界をも掘削する」。

 この本の中には、十八人の画家たちとその自画像とが紹介されている。この十八人の画家とそして自画像と相対するとき、私たちはそこに何を見出すのであろう。苦悶か、葛藤か、それとも恍惚の表情か。
 それらは、すべて自分にはね返ってくることを私たちは忘れてはならない。その自画像は恐らく、作者であり、同時に、見る私たち本人であるからだ。何故なら、その像の中に何かしらを見出すのは、恐らく私たち自身の内にそれが存在しているからだ。
 君は君であって私は君ではない。
 しかし、君の中に私が何かを見出すとき、それは、私の中にも存在する。君の中にそれを私が見出すのは、私がそれを持っているからに他ならない。
 画家はカンバスの上に自分を曝した。それが自画像であり、そこには汚物も憎悪も歓喜も、人間を形作る要素が至るところに散りばめられていることだろう。そしてまた、そんな絵と向き合う時、私たちは否応なくそこに自分を見出す。カンバスの上に曝されているのは、決して作者自身だけではないのだ、それを見る私たちもが、曝されている。
 自画像と向き合うこと、とはまさに、私と「わたし」との対峙である。

 あなたは今、この一枚の自画像の内に、一体何を見るのだろう。

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