2004年3月9日火曜日

DIDIER SQUIBAN 「BALLADES」

 私は海が好きだ。これでもかというほど好きだ。今でもはっきり覚えている。海を初めて目の前にした時、あぁ私はここで死ぬんだ、と思った。それは感傷などではなく、むしろ満足や恍惚に似たもので、私はここで死ぬことができる、という思いは、私をあたたかく満たした。けれども当時カナヅチだった私は、海とどうしても友達になりたいんだと言って体育の先生を捕まえ無理矢理指導を乞うたのだった。泳げるようになり、潜ることが得意になった頃は、大人になったら海女になるんだと真剣に考えてもいた。学生の頃はだから、毎日海に寄り道した。海面に光の道をつけ、やがてぽとんと水平線に落ちてゆく太陽。それを合図のように、がらりと色を変え音を変える海。一日たりとて同じ姿はなかった。常に常に、変化し、それは私に、不変のものなど実はこの世の何処にもないのだということをそっと教えた。
 このアルバムは、海をテーマに作られているのだという。ディディエ・スキバン。聞いたこともない名前だった。が、海という言葉に惹かれ、私は買った。
 早速聞いてみる。ジャズの要素を多分に含んだピアノの音色。私は正直に言うと、ジャズはあまり好きではない。長年クラシックピアノを弾いてきて、どっぷりクラシックに慣れ親しんだ私には、ジャズのあの独特な匂いがどうも身体に馴染まないというのが理由だ。しかし、スキバンの旋律は、そんな私の耳にあまり違和感なく滑り込んでくる。それは、そこに海があるからだ。夜闇が徐々に白んでゆき、やがて燃えるような太陽が顔を出して水平線を一直線に割ってゆく、あのときの海の光り輝く様。雨雲がずんとのしかかってくるようななかで、まるで幼い子供のように雨粒と戯れはしゃぐ波の様。朗々と、今という一瞬一瞬を舌の上でじっくり味わうように横たわる様。降り注ぐ昼間の光をくすぐったいといわんばかりに弾ける波の様。声に出しては何も言わないけれども、そこに在て、じっとこちらを凝視する海の色。私の知っているありとあらゆる海が、音となってこのアルバムの中に詰まっている。もちろんその中には私の知らない海もあって、あぁこんな雄々しい、或いはこんな柔らかな海もあるのか、と、私は音の中で立ち止まったりする。また一方で、私の知っている海はもっとどす黒く、鉛のようで、前に立つ私を威嚇し飲み込まんとするような荒々しさがあったよと、言ってみたくなったりもする。
 海はよく、生きとし生けるものの母だと言う言葉を耳にするが、このアルバムには、母なる海だけじゃない、父としての海も幼子としての海もいる。海をただ一日、或いはただ一時、眺めただけでは知り得ない姿。海を肌で感じ取っていなければ生まれないであろう音が、ここには詰まっている。
 あなたにとって海とは何か。もし、毎日を営んでゆく中で海という言葉を海という姿を心に浮かべることが一瞬でもあるのなら、あなたにもこの音たちは何かを語りかけてくるかもしれない。
 何かをしながらではなく、このアルバムをかけたときには、余計なことは何もせず、ただ黙って、この音たちに身体を任せていたい。そう思ってしまうような、一枚である。

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