2008年12月29日月曜日

■つれづれに

 毎朝窓を開ける。そのたび空気がしんと冷たくなっていっているのがわかる。そんな中でも薔薇の樹や球根たちはすくすくと育っている。逞しい。彼らは今、私の心の大きな支えになっている。いや、支えというより見本とでも言うべきか。厳しい中でも凛と立ち、枝葉を伸ばす姿。見つめれば見つめるほど、見習うべき点が多く見つかる。植物と人間の関係はこんなにも密だったのかと改めて痛感させられる。
 この一年いろいろあった。あったけれど、いざ振り返ろうと思うとうまく思い出せない。年のせいなんだろうか、記憶がどんどん曖昧になってゆく。あまりに痛い思い出も、痛いというそのことしか思い出せない。もちろん日記帳を開けば詳細に書かれていることは分かっている。でも、それを開かない限り、私の記憶はこんなにも、もはやすかすかになるほど曖昧なのかもしれない。
 でもそれはそれでいいのではないだろうかと思う。昔はいろいろなことを覚えすぎていて、克明に覚えすぎていて、私は苦しかった。重たかった。いろいろなことが全部圧し掛かってくるようで、いつ倒れるか知れない毎日だった。あの頃はまだ若かったから、それでも何とかはねのけてやってこれたけれども、この年にもなったらそうもいかない。のしかかられたらそれだけで倒れてしまうことの方が、もしかしたら多くなるのかもしれない。もちろん、精神的にはタフになっている。でも、精神的にタフになっているからといって、すべてを受け止め抱えきれるわけでは、ない。タフになった分、自分の限界もまた、はっきりと見て取れるようになっているから。
 年が明ければ当然のごとく一月がやってくる。私にとっては一年のうちで一番、暦から切って失くしたい一ヶ月。でも。
 それがあるから、多分私は、自分の立ち位置をそのつど、確認できるのかもしれないと、ふと思うこともある。もちろんだからといって大丈夫になんてなれないけれども、それでも、発想の転換をしてみれば、これもまた私には必要な過程なのかもしれないとくらいは思うことができる。
 この一週間私は娘とべったりだ。どんな一週間になるんだろう。学童も何もない一週間というのは、ほぼ初めてだ。

追記:
昨日、ある人と話していて、その人が今あいている心の穴のことに触れたとき。私は自然に口にしていた。穴は埋まらないよ、と。穴は穴のまま。埋まらないけれども、でも、穴を穴として受け入れて、次へ進むことはできるよ、と。
あまりに自然に口にしていたから、自分でも直後驚いた。そういうものなのだろうか? でも多分、そうなんだと思う。
どこまで自分を受け入れていけるのだろう、私は。己をどこまで受容し得るのだろう。来年はそんなことを多分見つめながら過ごすのだろう。

2008年12月15日月曜日

■あたしの中に

 動物は、自分の足を食いちぎってでも生き延びようとするそうだ。怪我を負ってどうしようもなくなった足は、ついているだけ邪魔になる。足がなければ不自由になることは分かっていても、そんなことより、生き延びることを本能が選択するのだろうか。
 そういう話を知り、かつてじいちゃんが生きていた頃、じいちゃんに、動物ってそうなんだって、すごいね、と話したことがあった。そしたらじいちゃんは、まだ尻にアオタンが残っているような子供のあたしにむかって、まっすぐにこう言った。
「動物だけじゃない。人間だってそうだ」
と。
 戦火の真っ只中、頭の上を砲弾が飛び交う。その砲弾を体の何処かに浴びれば肉は吹っ飛び血が噴出す。じいちゃんの戦友の何人もが体に弾を食らった。弾のおかげで片足が吹っ飛んだ奴もいれば、弾が肉の中に食い込んでそれが腐敗し始める奴もいた。吹っ飛ばずに肉の切れ端同士がくっ付いて、下手にくっ付いて残ってしまったが故に腐り始め、高熱に苦しむ奴もいた。そもそも、弾のおかげで木っ端微塵になる奴らがいた。戦場へ行った姿のままでいられる奴の方が少なかった。じいちゃんは淡々とそう言った。
 戦争を経ていないあたしには、到底考えられない光景だった。
「自分のナイフで足に食い込んだ弾を掻き出そうと足の肉を抉る奴もいた。まだ何とかくっ付いている弾を食らった足を、あまりの痛みで切ってくれとうめくように言う奴もいた。運良く掘建て小屋のような病院に辿り着いても、麻酔もなにもなく、命を守るために傷を負った手や足を切り落とさなければならなかった」
 それでも人間は生きるために必死だった。
 じいちゃんは、あたしに、そう言った。
「そんなことの必要のない世の中におまえは生きることができるかもしれない。そんなことをせずとも生きてゆける世の中になるかもしれない。でも、自分の手足をひきちぎってでも生きることを選ばなければならないときには、迷わず生きることを選べ」
 この世に産まれたからには生きろ。それが為すべき何よりも為すべきことだ。
 じいちゃんがあたしに、教えてくれたことのひとつだ。

 あたしのばあちゃんは、32の歳を数えると同時に癌にとっつかまった。最初は胃が冒され、冒された部分を切り取るために入院し手術した。きれいにとったはずだったが、何処かに残った癌細胞はばあちゃんの健康な細胞を食ってしぶとく生き延び、数年も経たないうちに再びばあちゃんを病院送りにした。今度は胃を半分切った。
 でも、癌は一度食いついた獲物は死んでも離すかといったふうに、ばあちゃんの胃を次々侵食していった。半分の次は残った半分をさらに半分にし、さらには胃を丸ごと奪っていった。
 まるで毎年の恒例行事かのように、ばあちゃんは入院し手術し、そして退院し、と、繰り返した。ばあちゃんの口癖はだから、「あたしは人生ヒトより短いんだから、やりたいことをやるのよ」だった。その口癖を完遂するかの如く、実際周囲が呆れるほどに、彼女は退院すると動き回った。踊りの師匠でもあったばあちゃんは、退院すればさっさと踊りに行き、舞台に立ち、かと思えば友達と旅行に駆け回り、とにもかくにも毎日毎日何処かに出かけた。人生短いんだ、やりたいことはその時にさっさとやらなきゃ。毎日毎日彼女は、死を意識し追い掛けて来る死を背中に感じながら、それに呑み込まれてたまるかと生を突っ走った。生き急ぐという姿があるなら、まさに彼女がそうだった。
 でも、そうやって走って走って走り続ける彼女を、癌はそれでも離さなかった。いくら手術を繰り返そうと一度巣食った癌細胞は、周囲の元気な細胞を次々食い物にし、最期、彼女の全身を見事に癌細胞にし尽くした。
 これが間違いなく最期の入院になる、今度の入院は死ぬことを意味する、どうしようもなくそのことを認識しなければならなくなったとき、周囲が何か言う前にばあちゃん自身がそのことを知っていた。まだ告知ということが今のように為されていなかったその時代、周囲はばあちゃんをなんとか騙そうと必死になった。大丈夫だよ、いつだって元気になって戻ってこれたじゃない、今度だってそうだよ、がんばろうよ、と。でもばあちゃんは知っていた。いや、今度はもうあたしは戻れない、絶対に戻れない、と。それを意識した日からばあちゃんはあたしに言うようになった。「ばあちゃんはもう死ぬからね。死ぬ前にこんなことがしたかった、こんなこともしたかった、でももうできない、いくら頑張ってももう時間がない。だからね、後悔なんてしないようにしなくちゃだめだよ、やれることはやっておくんだよ、生きているうちにやりたいことはやっておくんだよ」。
 そんな彼女が最期の入院の日までうちで過ごした数ヶ月の時間のうち、お風呂の中で泣いた日があった。もう体がぼろぼろになり、肛門の筋肉もすっかりゆるんで、お風呂に入れば汚物が自然と出てきてしまうような状態に陥ったとき、彼女は声を出して泣いた。こんなの見られたくないと言って泣いた。もういやだ、早く逝かせてくれ、と、声をあげておいおい泣いた。お風呂のドアのこっち側で、彼女がお風呂から上がってきたら体を支えるために待機していたあたしのことなど忘れたかのように声を上げて泣いた。あたしは、こうまでして生きなければならないばあちゃんの人生に、初めて涙が出た。悔しかった。悔しくて悔しくてたまらなかった。こんなに一生懸命に生きてるのにどうして、どうしてこんな。こんな思いするくらいなら、ばあちゃんをさっさとあの世に逝かせてやってくれ、と。そう思った。神様がいるなら、これを今見下ろしていながら何もしてくれない神様をあたしは呪った。
 32の歳からこれでもかというほど体を切り刻まれ、それでも生きてきたばあちゃんは、最期、骸骨のような枯木になって死んだ。
 あれはど生きることに一生懸命だった彼女の最期の願いは叶ったんだろうか。あたしには分からない。

 ばあちゃんもじいちゃんも全身癌に食われて死んだ。
 そのばあちゃんとじいちゃんが残してくれたものは、間違いなくあたしの中に在る。
  生きてるか。
  やってるか。
 どうしようもなくなったとき、思い出す。じいちゃんの声を。ばあちゃんの匂いを。
  生きてるか。
  やってるか。
 あたしはどんなふうに答えるんだろう。
  生きてるか。
  やってるか。
 答えはまだまだでない。まだまだ出ない。あたしが死ぬそのときに、あたしが見つける。だからその日まで答えなんか分からない。
 でもね。
 とりあえず今のところ、あたしはやってるよ、生きてるよ。
あの世でしっかり見ててよね、じいちゃん、ばあちゃん。あんたたちの孫は、これでもかってほどこの世にしがみついて生きているから。

2000/07/30記

2008年12月11日木曜日

■消去したいと生きていたいと

 窓を開けると、波打つ灰色の雲。東からの陽光に照らし出され、そのおうとつはさらに鮮やかに映し出される。
 先日、薔薇の樹を植え替えようと土を掘り起こしたところ、やはり、根をすっかり虫に食い尽くされていた。どうりで大きくならないわけだ。土を掘 り返すと、いたるところからカナブンの幼虫が転がり出てくる。一体いつの間にこんなにも、と思うほどだ。一匹一匹、指で摘んで袋に入れていく。本当ならこ こで、潰してしまえればいいのかもしれない。でもそれができない。
 潰したら幼虫の体液がびゅしゅっと出てきて気持ちが悪い。確かにそれもある。でも、それだけじゃない、潰すのを拒まれている、そんな気がするのだ。
 当然だろう、彼らにしてみれば、生き延びる為必死で根を食べ、ここに丸く隠れていたのだから、私の到来を拒みたくなるのは当たり前である。でも、何だろう、それだけじゃない、もっと大きな、拒みが、私を包み込む。

 自分を消去したいとしか思えない時期があった。死にたい、のとは微妙に違う。汚れきった自分を、穢れきった自分という存在を消去したい、この世から消し去りたい、そういう衝動だ。その衝動から、どう足掻いても逃れられない時期があった。
 二十四時間、三百六十五日、その衝動と戦い続ける。それは、途方もない時間だった。終わりが見えないトンネルを、灯りもないその闇だけのトンネルをただひたすら、歩いていかなければならない、そんな時間だった。
 知っている道ならばまだ短くも感じられるだろう、それが昼であろうと夜であろうと、自分の記憶伝いに歩いてもゆける。でも、そのひたすら続く消 去したいという衝動の毎日は、何処に終わりがあるのかも、何処に道標があるのかも分からない、だからひたすら長く長く長く感じられる日々だった。
 もう諦めようかと何度思ったか知れない。ここで諦めてしまえば私は楽になれるのかもしれないと何度思ったか知れない。
 でも諦められなかった。
 何故諦めなかったのだろうと今改めて思う。まだ漠然としか分からないが、そこには同時に、正反対の欲求も存在していることを、私はこの身体の何処かで知っていたからではなかったかと思う。

 正反対の欲求。
 こんな自分でも受け容れたい、認めたい、消去しなくてもいいのだと思いたい、つまりは生きていたい。そういう欲求だ。もっと言えば。
 自分を愛してみたい。そこに行き着くのかもしれない。

 人は確かに勝手に産み落とされる。この世に放り出され、生きていかなければならない状況に陥らされる。誰も望んで自分から産まれたのではないし生きるのでもない、と、そう言ってしまうこともできる。
 しかし、本当にそうなんだろうか。この世に粒の粒のような欠片で生まれたその瞬間から、もしかしたら私たちは、生きたいと望んでいなかったと誰が言えるのだろう。
 私たちの意志などもはや関係のないもっともっと広大な何かの存在が、私たちを司っていないと、誰が言えるだろう。
 私は別に、神の存在を信じていない。むしろ、神様なんて糞食らえと思っているところがある。けれど、何だろう、この自然界の、世界の力、引力、のようなものは、あるのではないかと微かに思っている。

 私は確かに穢れている。汚れに穢れて、もはや拭いようのないほど穢れている。だから消去したいと最初思った。そうしなければならないと私は思い込んだ。そうすべきだとも私は思った。
 けれど、私は同時に、どうしても生きていたい、どこまで穢れようと何しようと生きていたい、こんな自分だけど存在していいのよと誰かに言ってもらいたい、いや、自分でそう自分に言ってやりたい、と。
 私はそう願ってもいたのではないか。
 だからこそ、苦しかったのだと思う。引き裂かれる思いがしたのだと思う。消去したいと願うことは、自分が引き裂かれることでもあった。

 今、また冬が来て、もうじきあの日がやって来る。私の中でむずむずと、自分を消去したいという衝動がまた頭をもたげ始めている。これまでに先に逝った友人達の姿が走馬灯のように私の脳裏をよぎる。彼らの中に私も入ることができたら。そう願ってしまう自分も、正直、いる。
 でも。
 私はもう知ってしまった。どんなに消去したいと願っても願っても、それは叶わない願いだということを。私は消去したい分だけ生きてもいたいのだ、ということを。汚らわしいと己を忌み嫌う分だけ私は己を愛したいのだということを。
 だから、衝動と正面から向き合うしかない。向き合って向き合って、私は、それを受け容れるしかない。受け容れた向こうにきっと、私の本当の欲求が横たわっていると信じられる。

 今、袋の中の虫たちは、必死に身体を硬くして身を守っている。生きる術は何処にあるかをもしかしたら必死に探っているかもしれない。そんな彼ら の、生きるという真っ直ぐな思いが、私の存在を強烈に拒んでいる。彼らの生きるという声が大きく大きくなって、私に覆いかぶさってくる。
 私は、この虫たちを自分の手で殺すことはできない。だから袋に詰めて、ゴミに出すのだろう。そこで彼らは殺される。殺されることが分かってても私はゴミに出すんだろう。私はここで、選別しなければならないから。薔薇の命か、虫の命か、と。
 そうして私は、瀕死の薔薇を、新しい土を足したプランターに、丁寧に植え替えていく。虫たち彼らの分をも生きろよと、勝手な願いを押し付けながら。そして。
 虫たち彼らの分を横取りしたのだから、私も必死に生きろよ、と。
 見上げれば、空は鼠色。雨が降るのかもしれない。

2008年12月9日火曜日

■あの日見た光景--今改めて親友へ

 台風が通過した直後の海に、あなたは潜ったことがあるだろうか。
 数年前の夏も終りの或る日、私は、台風を追いかけるように外に出た。数歩も歩かぬうちに全身ぐしょ濡れになる、雨と風に嬲りつけられるようだった。天気予報では、台風は新潟の方へ抜けるといっていた。私はそれを信じ、ただひたすら追いかけた。台風に襲われている海に潜ったなら、波にまかれ、私も海の藻屑となれるんじゃないか。私はその馬鹿げた、微かな希望にそのとき自分の全てをかけていた。死ぬことにどっぷりととりつかれていた、その頃の自分だった。死ぬしかない、そうしか救われる道はない、自分を消去するんだ、と。
 けれど、すんでのところで、私は間に合わなかった。海は濁り荒れていたが、私がここに着く前に台風は過ぎ去ってしまったのだ。私は悔しくて悔しくて、血が零れるほど唇を噛んだ。そしてそのまま走って海に飛び込んだ。足の着かぬ深みへ深みへと泳いだ。誰にも見つからないところへ行くんだ、必死になって荒れ狂う海を泳ぎ潜り、もうこれで大丈夫だろうと思った時、思ってもみなかったことが起きた。私の眼球が、潜っているこの海の中をまっすぐに映し出したのだ。
 それがどのくらいの時間だったのか私にはわからない。けれど、私が目にした光景は、そのときの私にはあまりに鮮烈だった。
 海水はエメラルド色に燃え、あちこちで真珠のような泡が生まれては消え、微かな塵が全て、海水の中できらきら光り耀いていた。前も後ろも上も下もない、私の知らない世界がそこに在った。
 あぁもうこれでいい、と思いながら、苦しくなってゆく胸元を握り締め、徐々に深みへと沈んでゆくその自分の鼻や口に、海水がどっと流れ込んで来た瞬間、私の体は、私の思いとは正反対な動きをしてのけた。体全身が叫んでいた。だめだ、だめだ、だめだ、このままじゃだめだ!
 何がだめなのかさっぱり分からないまま、暴れ出した自分の体は水面に向かって懸命に手を伸ばしていた。そして、すさまじい苦しさがぱーんと破裂した瞬間、私の頭は海面から飛び出していた。
 浮かび上がった私の目に今度映ったのは、空だった。台風が残していった重たげな黒灰色の雲が、飛ぶように流れ、でもその後ろには、真っ青な、これでもかというほどの青を湛えた空が広がっていた。
 わけもなく涙が出た。顔に叩き付けてくる荒れた波の中、頼りなげに浮きながら、私は声を上げた。泣きながら、でも、多分私は、笑ってもいた。
 ああ、もうここから行くしかないんだな、と。ただそれだけが明確な輪郭でもって、私の中に生まれ出ていた。

 死ぬしかないとしか思うことのできなかった時期があった。死ぬとかそういうことを棚上げして、ただ、自分を消去したいと願い狂った時期があった。長い長いトンネルの、しかも、灯り一つない前も後ろも何も分からない闇の道だった。
 でも、何だろう、私は、何度も自分を消去しようと試みたけれど、結局生き延びてしまった。その生き延びた私が知ったことは。
 とても単純なことだけれど、私の生命は、私一人のものではないのだな、ということ。私の生命は、いろんなものと繋がっている。父や母と血で繋がり、見えない緒で自然や世界そのものと繋がっている。また、私の心と体も、密接に繋がっているのだということ。そして。
 私がこの目の開き方、凝らし方を学び取ることができたなら。世界はもっと近しい存在になるのだ、ということ。
 あの夏の日の体験を経てからも、私は病院に担ぎ込まれたり、友人をさんざん泣かすようなことをしでかしたりと、何度か繰り返した。けれど、今だから言えるが、私はもう逃げられないのだということを、そんな中から少しずつ少しずつ噛み締めていっていた。生きることから私はもう逃げることはできないな、と。
 あのとき見た海の色、泡の消えては生まれる様、耀く光の飛沫、そしてあの空。多分、二度と会うことはない世界の一断面を、私は、年を重ねる毎に鮮やかに思い出す。
 そして知るのだ。私は、死が自ずと訪れるその日まで、生き抜くのだな、ということを。

 あれから数年を経た今も変わらず、病院に通ったり何したりとしているけれど、でも、私は今が面白くてしょうがない。厭なことなんてもちろん毎日山ほどあるけれど、それを差し引いても、生きていることは面白い。生きるしかないと腹を括って世界と向き合ってみたら、こんなに世界が開けるものだなんて、あの頃の私は思ってもみなかった。
 私が性犯罪被害者だろうとPTSD持ちだろうとACだろうと何だろうと、そんなことは関係ない、世界は平等に私たちの前に在って、私次第でいかようにも広がり深まってくれる。翻って言えば、あの頃私を苦しめ生命へのエネルギーを細らせた様々な事柄があるからこそ、私は今、この世界をいっそういとおしいと思う。もっと呼吸していたいと思う。明日世界が終わるとしても、その瞬間まで私は、とくとくと自分を生き続けていたい。

 これを書いている場所から見える海は、あの日とは全く異なった、深い紺色の、穏やかな海だ。白点を散らしたように時折鴎が舞い飛び、その鴎たちをもそっと抱きしめるかのように、吸い込まれそうな深い深い穏やかな色が広がる。私までその海の中に吸い込まれていきそうなほど。でも、私はもうあんな心持のまま飛び込むことはない。今度飛び込むとしたら。海ともっと話ができるような、そんな自分でありたい。
 「真の希望は、絶望の先にこそ見出されるものだ」。かつて聞いたその言葉を、今はただ、じっくりと噛み締め味わう毎日である。

2002/01/30記

2008年12月6日土曜日

■フリージア(四)

 それからのことははっきり覚えていない。もしかしたらもう少し母と会話をしたのかもしれないし、しなかったのかもしれない。フリージアが何処に飾られたのかも私は正直覚えていない。でも。
 母が私の贈り物を拒絶することなく受け取り、ありがとうと言い、笑顔まで見せてくれたそのことを、私は決して忘れることはない。
 考えてみれば、私は母を求めて求めて求めてやまない子だった。母とすれ違えばすれ違うほど、母を求めた。母に拒絶されればされるほど本当は母を求めた。ただ、私たちは不器用すぎて、お互いの気持ちを素直に受け容れることができなくて、相手を思えば思うほど愛情というボタンを掛け違えてしまった。

 今、母も七十近くになり、大きな病を患っている。気弱になっているのか、昔のように拒絶したり無視したりすることは、あまりなくなった。それでも私たちは時折、すれ違ってしまう。でも私は諦められない。
 それは。あの日見た母の笑顔のせいだ。あれは単純に花に向けられた笑顔だったのかもしれない。けれども、その花を運んだのは、私だった。私の花を、母は受け取ってくれたのだ。たった一回きりであっても、笑顔で。
 だから私は諦めない。どんなに拒絶されても無視されても、私は母を諦めないでいられる。あの笑顔をもう一度、もう一度でいいから私は見たい。そう願い続けている。

2008年12月4日木曜日

■フリージア(三)

「ただいま」
 誰もいない玄関。母は食堂にいるらしい。
「ただいま」
 言いながら私は奥へ進む。
「あの、お母さん」
「なに」
「これ」
「なに」
「これ、あの、誕生日、おめでとう」
 それまで背中を向けて座っていた母が振り返り私の手元を見る。私はもう、針の上を歩いているような心地だった。そのとき。
「あらまぁ、フリージアじゃないの」
 母が言った。
「ありがとう。私、この花好きなのよ」
 あぁ。私はもう、全身から力が抜けるのを感じた。母は私の手から小さな細い花束を受け取り、さっさと花瓶に生け始めた。
「この香りがたまらないのよ。いい香り」
 私はもう、今何が起こっても構わない気さえした。母が喜んでいるというそのことが、私には信じられなかった。でも、嬉しかった。
「ごめんね」
「なにが?」
「三本しか買えなかったから」
「あら、フリージアは数が少なくたって香りが強いから大丈夫なのよ」
「そうなんだ…」
「ありがとう」
 母からありがとうと言われたのは、多分、初めてだった。いや、小さい頃そういうことを言われたことがあったのかもしれないが、物心ついてからは初めてだった。そして、ありがとうと言ってくれた母の横顔は、間違いなく笑顔だった。

2008年12月3日水曜日

■フリージア(二)

「フリージア、ください」
「はい、何本?」
「さ、三本…」
「三本ね。家に飾るの?」
「いえ、あの、母の誕生日プレゼントに…」
「あらまぁ!そうだったの。じゃぁリボンつけないとねぇ」
「…」
「何色のリボンがいいかしら?」
「リボンに幾らかかるんですか?」
「え?」
「あの、お金に余裕がないんです」
「あらまぁ、そうねぇ、サービスってことでどう?」
「ありがとうございますっ!」
「できるだけ大きくきれいに見せなくちゃね。黄色いリボンでどう?」
「はい、お願いします」
 私は、たったそれだけのやりとりで、すでに涙が出そうになっていた。花屋のおばちゃん、ありがとう。口には出せなかったけれど、私は何度も心の中でそう言っていた。
 あと残りの不安は。一番の不安は。母が受け取ってくれるかどうか、だ。私は帰りの電車の中、ただひたすら、その不安を胸に抱き、じっと黙って一点を見つめていた。母の無視は強烈で、それをされると私は一番傷つく。そのことを母も知っている。知っていてそれでも母は無視をする。さもなければあからさまな拒絶をする。この花を買っていったとして、果たして母は無事に受け取ってくれるだろうか。喜ばないまでも受け取って花瓶に生けてくれるだろうか。私はもう、ただひたすら祈るような思いで家に辿り着いた。

2008年12月2日火曜日

■フリージア(一)

 まだ母とひどくうまくいってなかった頃、それでも母が笑顔を見せてくれたことがあった。今も鮮明に覚えている。

 我が家では、お小遣いは労働制だった。かつおぶしを箱いっぱい削ったら10円、靴磨き一足10円、お風呂掃除20円、と、こんな具合だ。だからといっては何だが、中学の私は、微々たるお金しか持っていなかった。仲間達と学校帰りファーストフード店に立ち寄ることなど、10回に一回、一緒にできればいい方だった。
 そんな私だが、母の誕生日プレゼントはそれまで決して欠かしたことがなかった。小学生の頃は肩叩き券なぞを手作りでプレゼントしていた。
 しかし、中学生にもなって、手作りの肩叩き券というのも何か味気ない気がして私は悩んだ。お財布を覗いては、一体幾らあったら母の満足のいくものを買うことができるのだろうと悩んだ。
 友達に聞くと、みな、結構なものをプレゼントしている。でも私には、バッグやスカーフなど到底買うことは叶わない。そうしているうちに母の誕生日当日になってしまった。私はもう半ば泣きたい気持ちで、町を歩いた。と、そこに花屋を見つける。吸い寄せられるように店の前に立った私の目に、黄色い色が飛び込んできた。フリージアだった。
 そうだ、以前何かの折に母が言っていなかったっけ、「フリージアのあの何ともいえない香りがたまらなく好きなのよ」と。
 私は、もうこれしかないと思った。フリージア一本150円。三本までなら買える。でもたった三本で誕生日プレゼントになるんだろうか。私はとても不安だった。いつもの母の勢いで「こんなものがプレゼントなの?」と、ぽいと捨てられてしまうのではないか。さもなければ、全くの無視か。でも。
 私にはもう選択肢は何も残っていなかった。ハンカチ一枚買うよりも、フリージアの方がまだいい気がした。そして私は恐る恐る花屋の奥に声をかけた。

2008年12月1日月曜日

■鉄棒、逆立ちする世界

 病院の帰り道、疲れて立ち寄った公園。ベンチに座り、ぼんやり辺りを眺める。季節柄なのか、遊ぶ子供達がとても少ない。ブランコもシーソーも、乗り手がいなくてしんとしている。
 ふと、鉄棒が目に付いて、私は立ち上がる。近寄って、鉄棒を握ってみる。冷え切った鉄棒の温度が私の手にそのまま伝わってくる。それが切なくて、私は力を込めて両手で握り直す。
 鉄棒で遊ぶ子供達はいない。まだ午前中、大きな子たちはみんな小学校だろう。私は思い切って飛び上がってみた。
 冷たい鉄棒。そこに掴まる私。そして私はぐるりんと逆さになってみる。それまで私の頭の上にあった空が足元に、私の足元にあった地面が頭の上に。世界はくるりんと逆立ちする。勢いをつけて元の位置に戻れば、世界もまた元の位置に戻る。私は何回かそれを繰り返してみる。世界は私の目の中で、くるりんくるりんと、逆立ちを繰り返す。
 そういえば昔は、それが楽しくて鉄棒でよく遊んだんだった。一瞬にして逆立ちする世界。一瞬にして元に戻る世界。ただの鉄棒一本を中心に、世界がぐるぐると廻るのだ。当たり前だけれどとても不思議だった。当たり前のことほど不思議だった、あの頃。今ももしかしたら、そうなのかもしれない。当たり前だと知っているものの数が増えただけで、でも、その当たり前はちょっと視点を変えればとても不思議な代物だったりする。見慣れた風景に本当に慣れすぎてしまって、視点を変えることさえ忘れてるのが、たいていなんだろう。大人になるとちょっと、損をするのかもしれないな。
 私は鉄棒から降りて、再び家路を辿る。家に帰ったら、眠れないまでも少しだけでも横になろう。そしてエネルギーを少しでも溜め込んで、帰宅する娘を元気よく迎えてやろう。それが、私にできること。