2008年12月4日木曜日

■フリージア(三)

「ただいま」
 誰もいない玄関。母は食堂にいるらしい。
「ただいま」
 言いながら私は奥へ進む。
「あの、お母さん」
「なに」
「これ」
「なに」
「これ、あの、誕生日、おめでとう」
 それまで背中を向けて座っていた母が振り返り私の手元を見る。私はもう、針の上を歩いているような心地だった。そのとき。
「あらまぁ、フリージアじゃないの」
 母が言った。
「ありがとう。私、この花好きなのよ」
 あぁ。私はもう、全身から力が抜けるのを感じた。母は私の手から小さな細い花束を受け取り、さっさと花瓶に生け始めた。
「この香りがたまらないのよ。いい香り」
 私はもう、今何が起こっても構わない気さえした。母が喜んでいるというそのことが、私には信じられなかった。でも、嬉しかった。
「ごめんね」
「なにが?」
「三本しか買えなかったから」
「あら、フリージアは数が少なくたって香りが強いから大丈夫なのよ」
「そうなんだ…」
「ありがとう」
 母からありがとうと言われたのは、多分、初めてだった。いや、小さい頃そういうことを言われたことがあったのかもしれないが、物心ついてからは初めてだった。そして、ありがとうと言ってくれた母の横顔は、間違いなく笑顔だった。

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