2004年4月20日火曜日

「浜田知明作品集」 求龍堂 15,000円

 浜田知明氏の作品で私が初めてこの目にしたものは、「初年兵哀歌(歩哨)」(1954年作)であった。比較的小さな絵の前で、私はしばし立ち止まらずにはいられなかった。こんなにも静かな、いや、無音の世界なのに、なんて哀しいのだろう、なんて切ないのだろう、何故こんなにも。そんな思いが、私の心中をいっぱいに満たし、同時にそれは、ぐるぐると私の中で回っていった。以来、折を見つけては氏の作品を見に行く。見に行くことが叶わなければ、その時はこの作品集のページをめくる。
 彼の版画作品は、切実である。どこまでも誠実で、そして切実である。この本の解説部分でこんなことが記されている。

 「彼の銅版画へ向かったいきさつは、後から聞いても明快で説得力がある。従軍中に直面した不条理を告発すると心に決めた彼は、人間心理の深層にまで照明をあてて「戦争」を描くための方法を模索する。テーマは決まっていたのである。「是が非でも訴えたいものだけを画面に残し、他の一切を切り捨てた。色彩を捨て、油絵具という材料を捨て、そして白黒の銅版を択んだ。」」

 たとえば「不安」(1957年)という銅版画では、空一杯を埋め尽くす爆撃機から、身を隠すように必死に生き残ろうと、小さな箱の中で息を潜める人間の姿が描かれる。恐らくは全員が全員、焼夷弾に焼かれ焦がされ、死に絶えるだろう状況の中で、それでも必死に行きようと、ある者は耳を塞ぎ、ある者は膝を抱え頭を抱え込み、ある者はもうほとんど絶望しているかのように呆然としている。戦争を実際には知らない私であるが、氏の作品を見ていると、今見ているこの瞬間にも焼夷弾が頭上からどっさり降ってきて瞬時に死んでしまうのではなかろうかというような錯覚を抱かずにはいられなくなる。
 たとえば「噂」(1961年)は、前出の戦争をテーマにしたものではなく、まさにどこにでも転がっているだろう日常の一断面を見事に描いている。部屋中に浮遊する幾つもの口、ひそひそ話をしている口もあれば、まるで自慢げに何かを話しているだろう口、明かに誰かの悪口を言っているのだろう形の口もある。それらが部屋中に浮遊しているのだ。部屋の中、座った三人に顔はない。顔の代わりにそこに描かれるのは口である。
 彼の作り出す世界はだから、非常に明快である。日常をテーマにとったものであっても、戦争をテーマに取り上げたものであっても、すぱっとその光景を断じてカタチにしている。だからこそ、私たちに分かりやすく、同時に口を挟む余地など残さない、そうしたエネルギーが画面からこちらへとぐんぐん伝わってくる。
 そんな彼は、銅版画家であると同時に彫刻家でもある。彼の彫刻は、私から見るととても不思議である。奇妙と言ってもいいかもしれない。彫刻を始めた頃、彼はよく自分の銅版画をほぼそのままに再現していた。ここで敢えて「ほぼ」と言ったのには理由がある。たとえば「檻」(版画1978年、彫刻1983年)という作品があるが、共に檻の柵の間から手を伸ばし、助けを求めているのだろう人物がそこにはいる。が、版画作品では別におかしくも何ともない助けを求める手が、彫刻作品では異様に大きく作られている。それはそのまま、外に出たいという誰かの願いの大きさでもある。やがて氏は、彫刻は彫刻として独立して作品を作り始める。たとえば「風景」(1995年)という作品があるが、これはまさに戦争の一光景をまざまざと立体化したものと私には思える。細長い台座の一番向こうに、銃が逆さまに突き立てられ、そしてその下に横たわるのは、もう骸骨化した名を持たぬ誰かである。服も肉体も何もかもを失いながら、彼の靴が、靴だけが、帰りたいと訴えかけるようにこちらを向いている。この彫刻を見つめていると、そこから、「帰りたい、国に帰りたい」という声を今この耳で聞いているような気がして来る。もうそれは、どうしようもなく切実な、途方もなく切実な願いとして。
 浜田氏は、1994年には熊本県立美術館で、1996年には新宿小田急美術館他巡回で、そして2000年には神奈川県立近代美術館別館で個展を催している。90歳を目前としながらも、その活動は今も尚続けられている。この作品集は氏の、1993年までの作品集だ。氏を知っている人はもちろん、全く知らない人も、一度ぜひ目を通していただきたい。何故なら。
 そこには、私たち人間の切実な生きる姿があるからだ。何度も何度も死を意識し、もう死ぬしか自分には術はないと唇を噛み締めながら思い続けそうして戦争から生きて帰った氏の、だからこそ切実な、生の詩である。テーマが戦争であれ日常であれ、それらは私たちに語りかけてやまない。これでいいのか? これで本当にいいのか? これが人間ってものなのか? 私たちは自分が人間であることをどこまで誇りに思えるのか? と。

2004年4月6日火曜日

再生への道/野沢尚「深紅」講談社文庫

 予め断っておくと、私は野沢尚氏の作品をこれまで読んだことも見たこともなかった。この「深紅」が初めてである。いつもの如くぶらり立ち寄った本屋で平積みされていたのを手に取り、帯の「犯罪被害者の深き闇を描く衝撃のミステリー」という言葉を見てとった瞬間、買うことを決めた。理由は簡単だ、自分がかつて犯罪被害者の一人になった体験をもっていたから。他に何もない。
 ニ章を過ぎた辺りからだったろうか、私は急激に小説の中に引きずり込まれてゆくのを感じた。これはミステリーなんかじゃない、人間小説だ、その思いが、読み進めるほどに大きくなってゆくのを、私はとめることができなかった。
 一家惨殺という悲劇から一人生き残らされてしまった主人公奏子が、加害者の遺族である未歩の存在を知ることによって、彼女へと憎悪を爆発させる。いや、爆発させるというよりも、年月を経ることによって己の中でどす黒く煮詰まっていった憎悪を一滴一滴滴らせ、未歩へ向けて、自分の背負ってきた何もかもを復讐と言う形で返そうと試みる。が。
 その過程で、奏子は思い知ってゆく。自分が一体何を望んでいるのか、何をしようとしているのか、そして本当はどうしたいのか。本著は、その彼女の、再生への物語だ。
 どうやっても消えない、家族を殺された悲しみや憎しみ、同時に抱かざるを得なかった自分だけ生き残ってしまったというどうしようもない罪悪感、それらへの防御として彼女は、「黒い芯」を無意識のうちに己の中に形作った。友人を作っても、恋人とセックスをしても感じない、振動しない、微動だにしないその黒い芯の正体。彼女はそれを、未歩を追い込めてゆく過程でようやく悟る。「感覚中枢の角のひとつひとつを削り取って、鋭敏なものを減らしていく。あぁそうか、と奏子は思い当たる。これが黒い芯の正体だ。
 目の前に繰り広げられるものに傷つかないように、あえて感覚を鈍くさせてきた。そうしてできあがったのが、この黒い芯なのだ」。
 そして奏子はぎりぎりのところでパニックを起こし、その中で自ら呟くのだ。生きたい、と。

 悲しい。なぜこんなにも悲しいのだろう。
「やっぱり、殺人者の娘も殺人者になるしかないのか」
 諦め、開き直って、明るい声で未歩は言う。
 全ては「血」が支配するのだろうか。逆らえないのだろうか。滅ぼされた家族を追いかけるように奏子が自分を滅ぼそうとしているのも、逆らえない「血」の仕業なのだろうか。
「生きたい…」
 奏子は呻いた。
「何か言った?」
「そんなものに操られないで、生きたい…」

 そして彼女は、魔の四時間の再現というパニックの中で、自分が今できることを見出してゆく。早くこの「四時間」を終わらせて、未歩を止めにいかなければならない、と。

 「憎悪と血の連鎖を断ち切るのは誰の役目なのか。早く答えろ。誰も未歩のことを罰しようとは思っていない。私も、私自身を罰する必要などもうない。憎しみはこれで充分だ。私と未歩はこの八年、充分すぎるくらい苦しんできたのだから。」
 そして彼女は走る。まだ震えふらつく身体に鞭打ちながら、彼女は走る。彼女が走るこの道は、何処へつながっているのだろう。
 そしてこの物語は、終わりを迎える。自ら近づき、未歩に復讐の刃をむけた奏子が、もう二度と彼女には会わないと心に決める。彼女とキスをしたとき、奏子は何を思っただろう。

「奏子は抱きしめたい衝動に駆られた。お互いの体が折れそうなくらい抱き合って、「私たち、生きていけるよね」と、できれば確認しあいたかった。」

 でもそうする前に未歩は離れ、そして彼女たちは別れてゆく。それぞれの帰る場所へ、帰るべき場所へ。これからを生き紡いでゆくべき場所へ、と。

 誰だって恐らく、生きていればきっと一度は思うのだ。大きな裂傷を負わざるを得なくなった時、思うのだ。自分がこうむった傷に匹敵するものを相手に与えてやりたいと。自分はこれほどに傷ついたのだ、それが分かるか、分かるもんか、私はもうこれでは生きていけない、これ以上ここで生きているのは辛すぎる、でも死ぬその前に、おまえにも分からせてやる、同じ目に遭わせてやる、私がこうして背負わなければならなかった傷をおまえも背負え、と。奏子が心弱かったのではない、人間なら恐らく、誰しもそう思うのだ。
 そして、その思いが己の中で勝ってしまった時、私たちはきっと、第二の奏子になっている。しかし。ここからが違う。
 第二の奏子になってしまった時、果たして奏子がそうしたように、途中で己を省みることができるかどうか。そこで気付くかどうか。それが問題なのだ。
 そうやって傷を連鎖させてゆくことに何の意味があるのか。憎しみや怒り、悲しみを連鎖させることに一体何の意味があるのか。それよりも何よりも、理不尽にも背負わされた荷物を自ら引き受けながらもここから生きてゆく、ということが、どれほどに大切なものであったか。--------それらのことに、私たちは気付けるかどうか。

 これは一人の人間の、再生への物語だ。奈落の底に突き落とされ、それでもなお生きようと足掻き、その中で一度は自らも刃を握り振り下ろそうとまでした人間が、血反吐を飲む思いで立ち上がり、そして明日へと自分を、生きるということを明日へつなぎ得た、一人の人間の、再生の物語だ。
 そう、奏子は私の中にも、あなたの中にもいる。今はまだ、そこまでの体験を経たことはないし、そこまで追いこまれたことはないからと高を括っていても、いつ私たちの上にそういった体験が墜落してくるか分からないのだ。そうなったとき、私たちはきっと知るだろう。同じ立場に立ったとき。自分はどちらを選ぶのか。何を選ぶのか。どうやって残されたその先を、生きてゆくのかを。
 それがきっと、私たちが人間であることの、価値の一つだ。