2004年4月6日火曜日

再生への道/野沢尚「深紅」講談社文庫

 予め断っておくと、私は野沢尚氏の作品をこれまで読んだことも見たこともなかった。この「深紅」が初めてである。いつもの如くぶらり立ち寄った本屋で平積みされていたのを手に取り、帯の「犯罪被害者の深き闇を描く衝撃のミステリー」という言葉を見てとった瞬間、買うことを決めた。理由は簡単だ、自分がかつて犯罪被害者の一人になった体験をもっていたから。他に何もない。
 ニ章を過ぎた辺りからだったろうか、私は急激に小説の中に引きずり込まれてゆくのを感じた。これはミステリーなんかじゃない、人間小説だ、その思いが、読み進めるほどに大きくなってゆくのを、私はとめることができなかった。
 一家惨殺という悲劇から一人生き残らされてしまった主人公奏子が、加害者の遺族である未歩の存在を知ることによって、彼女へと憎悪を爆発させる。いや、爆発させるというよりも、年月を経ることによって己の中でどす黒く煮詰まっていった憎悪を一滴一滴滴らせ、未歩へ向けて、自分の背負ってきた何もかもを復讐と言う形で返そうと試みる。が。
 その過程で、奏子は思い知ってゆく。自分が一体何を望んでいるのか、何をしようとしているのか、そして本当はどうしたいのか。本著は、その彼女の、再生への物語だ。
 どうやっても消えない、家族を殺された悲しみや憎しみ、同時に抱かざるを得なかった自分だけ生き残ってしまったというどうしようもない罪悪感、それらへの防御として彼女は、「黒い芯」を無意識のうちに己の中に形作った。友人を作っても、恋人とセックスをしても感じない、振動しない、微動だにしないその黒い芯の正体。彼女はそれを、未歩を追い込めてゆく過程でようやく悟る。「感覚中枢の角のひとつひとつを削り取って、鋭敏なものを減らしていく。あぁそうか、と奏子は思い当たる。これが黒い芯の正体だ。
 目の前に繰り広げられるものに傷つかないように、あえて感覚を鈍くさせてきた。そうしてできあがったのが、この黒い芯なのだ」。
 そして奏子はぎりぎりのところでパニックを起こし、その中で自ら呟くのだ。生きたい、と。

 悲しい。なぜこんなにも悲しいのだろう。
「やっぱり、殺人者の娘も殺人者になるしかないのか」
 諦め、開き直って、明るい声で未歩は言う。
 全ては「血」が支配するのだろうか。逆らえないのだろうか。滅ぼされた家族を追いかけるように奏子が自分を滅ぼそうとしているのも、逆らえない「血」の仕業なのだろうか。
「生きたい…」
 奏子は呻いた。
「何か言った?」
「そんなものに操られないで、生きたい…」

 そして彼女は、魔の四時間の再現というパニックの中で、自分が今できることを見出してゆく。早くこの「四時間」を終わらせて、未歩を止めにいかなければならない、と。

 「憎悪と血の連鎖を断ち切るのは誰の役目なのか。早く答えろ。誰も未歩のことを罰しようとは思っていない。私も、私自身を罰する必要などもうない。憎しみはこれで充分だ。私と未歩はこの八年、充分すぎるくらい苦しんできたのだから。」
 そして彼女は走る。まだ震えふらつく身体に鞭打ちながら、彼女は走る。彼女が走るこの道は、何処へつながっているのだろう。
 そしてこの物語は、終わりを迎える。自ら近づき、未歩に復讐の刃をむけた奏子が、もう二度と彼女には会わないと心に決める。彼女とキスをしたとき、奏子は何を思っただろう。

「奏子は抱きしめたい衝動に駆られた。お互いの体が折れそうなくらい抱き合って、「私たち、生きていけるよね」と、できれば確認しあいたかった。」

 でもそうする前に未歩は離れ、そして彼女たちは別れてゆく。それぞれの帰る場所へ、帰るべき場所へ。これからを生き紡いでゆくべき場所へ、と。

 誰だって恐らく、生きていればきっと一度は思うのだ。大きな裂傷を負わざるを得なくなった時、思うのだ。自分がこうむった傷に匹敵するものを相手に与えてやりたいと。自分はこれほどに傷ついたのだ、それが分かるか、分かるもんか、私はもうこれでは生きていけない、これ以上ここで生きているのは辛すぎる、でも死ぬその前に、おまえにも分からせてやる、同じ目に遭わせてやる、私がこうして背負わなければならなかった傷をおまえも背負え、と。奏子が心弱かったのではない、人間なら恐らく、誰しもそう思うのだ。
 そして、その思いが己の中で勝ってしまった時、私たちはきっと、第二の奏子になっている。しかし。ここからが違う。
 第二の奏子になってしまった時、果たして奏子がそうしたように、途中で己を省みることができるかどうか。そこで気付くかどうか。それが問題なのだ。
 そうやって傷を連鎖させてゆくことに何の意味があるのか。憎しみや怒り、悲しみを連鎖させることに一体何の意味があるのか。それよりも何よりも、理不尽にも背負わされた荷物を自ら引き受けながらもここから生きてゆく、ということが、どれほどに大切なものであったか。--------それらのことに、私たちは気付けるかどうか。

 これは一人の人間の、再生への物語だ。奈落の底に突き落とされ、それでもなお生きようと足掻き、その中で一度は自らも刃を握り振り下ろそうとまでした人間が、血反吐を飲む思いで立ち上がり、そして明日へと自分を、生きるということを明日へつなぎ得た、一人の人間の、再生の物語だ。
 そう、奏子は私の中にも、あなたの中にもいる。今はまだ、そこまでの体験を経たことはないし、そこまで追いこまれたことはないからと高を括っていても、いつ私たちの上にそういった体験が墜落してくるか分からないのだ。そうなったとき、私たちはきっと知るだろう。同じ立場に立ったとき。自分はどちらを選ぶのか。何を選ぶのか。どうやって残されたその先を、生きてゆくのかを。
 それがきっと、私たちが人間であることの、価値の一つだ。

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