2004年3月23日火曜日

「不思議な少年」マーク・トウェイン作 岩波文庫

 「ハックルベリ・フィンの冒険」や「トム・ソーヤーの冒険」でよく知られるマーク・トウェイン。しかし晩年には、前述の著作からは想像のできないような、暗さと人間不信、そしてペシミズムに彩られた作品を生み出している。その中の一冊、「人間とは何か」という本は生前匿名で、なおかつ私家版として少数出版したマーク・トウェインであったが、その「人間とは何か」を小説として具現化したものが、この「不思議な少年」に当たるのではないかと思われる。
 この本は、正直、心地よい本ではない。三人の少年とサタンと名乗る少年とが出会う始まりのシーンからして、読んでいると首の後ろをがしがしと掻き毟りたくなる衝動に襲われる。自分は天使だとのたまうサタン少年が、まるで魔法のようにしてその手から生み出した動めく人形たちを一気に潰し、血まみれになった人形たちが泣き叫ぶのを見下ろしながらこう言うのだ。「ぼくたち(天使)はいまだに罪なんてものは知らない。第一、罪を犯すことができないんだよ。ぼくたちは汚れってものを知らないんだ。」「つまり、ぼくたちは、悪をしようにもできないのだよ。悪を犯す素質がない。だって、悪とはなにか、それが第一わからないんだからね」。
 そう言いながらサタンは、残酷極まりないことを少年たちの前で幾度も幾度も繰り広げる。人間というものがいかに愚かしい生き物であるのかを、これでもかというほど見せつけてゆく。
 私は、この本に描かれているものに対し、不愉快さを隠せないし、多分、そもそも、人間に対するスタンスが著者と私とではあまりに違っていて、議論し合う同じ土台に立っていない。
 しかし、今この時代に久しぶりに読み返したからだと思うが、ひっかかる部分が幾つかあった。
「君主制も、貴族政治も、宗教も、みんな君たち人間のもつ大きな性格上の欠陥、つまり、みんながその隣人を信頼せず、安全のためか、気休めのためか、それは知らんが、とにかく他人によく思われたいという欲望、それだけを根拠に成り立っているんだよ」
「戦争を煽るやつなんてのに、正しい人間、立派な人間なんてのは、いまだかつて一人としていなかった。ぼくは百万年後だって見通せるが、この原則ははずれることなんてまずあるまいね。いても、せいぜいが五、六人ってところかな。いつも決まって声の大きなひと握りの連中が、戦争、戦争と大声で叫ぶ。すると、さすがに教会なども、はじめのうちこそ用心深く反対を言う。それから国民の大多数もだ、鈍い目を眠そうにこすりながら、なぜ戦争などしなければならないのか、懸命になって考えてみる。そして、心から腹を立てて叫ぶさ、『不正の戦争、汚い戦争だ。そんな戦争の必要はない』ってね。すると、また例のひと握りの連中が、いっそう声をはりあげてわめき立てる。もちろん戦争反対の、これも少数だが、立派な人たちはね、言論や文章で反対理由を論じるだろうよ。そして、はじめのうちは、それらに耳を傾けるものもいれば、拍手を送るものもいる。だが、それもとうてい長くはつづかないね。なにしろ扇動屋のほうがはるかに声が大きいんだから。そして、やがて聴くものもいなくなり、人気も落ちてしまうというわけだよ。すると、まもなくまことに奇妙なことがはじまるのだな。まず戦争反対の弁士たちは石をもって演壇を追われる。そして、狂暴になった群衆の手で言論の自由は完全にくびり殺されてしまう。ところが、面白いのはだね、その狂暴な連中というのが、実は心の底で相変わらず石をもて追われた弁士たちと、まったく考えは同じなんだな------ただそれを口に出して言う勇気がないだけさ。さて、そうなるともう全国民------そう、教会までも含めてだが、それらがいっせいに戦争、戦争と叫び出す。そして、あえて口を開く正義の士でもいようものなら、たちまち蛮声を張り上げて、襲いかかるわけだね。まもなく、こうした人々も沈黙してしまう。あとは政治家どもが安価な嘘をでっちあげるだけさ。まず被侵略国の悪宣伝をやる。国民は国民でうしろめたさがあるせいか、その気休めに、それらの嘘をよろこんで迎えるのだ。熱心に勉強するのはよいが、反証については、いっさい検討しようともしない。こうして、そのうちには、まるで正義の戦争ででもあるかのように信じ込んでしまい、まことに奇怪な自己欺瞞だが、そのあとではじめてぐっすり安眠を神に感謝するわけだな」

 これらのサタンの台詞に、今立ち止まる人はどれだけいるだろう。今の、アメリカ主導のイラク攻撃のあれやこれやをどうしても思い描かずにはいられないのは私だけだろうか。あれから一年を迎える。先日のニュースでは、帰還した米国兵士たちの中に精神障害を病む者たちがかなり多くいることが報じられ、イラクでの体験から自ら軍を退役する者たちのインタビューなども流れていた。
 私は。
 イラクへの進軍が果たしてよかったのかといえば、そもそもそこから間違っていたような気がしている。しかし。じゃぁどうすればよかったのか。翻って、同時多発テロというものを一体どう捉えればよいのか。いや、私はあくまで日本国民であり、アメリカの事情は多分、ほんの一片しか知ってはいない。その日本国民として、たとえば自衛隊云々のことについて、自分はどう考えるのか。アメリカに追随せずにはいられなかった日本という島国の立場をはじめ、そもそも自衛隊というものの存在について、考え始めたらきりがない、次々に、考えねばならぬことは増えてゆく。そして情けないことに、私はそれに追いつききれていない。全くといっていいほどに。
 本著の終盤で、マーク・トウェインはサタンにこう言わせている。

「つまりいえば、笑い飛ばすことによって一挙になくしてしまうことだが、そうしたことに気がつく日がはたして来るのだろうかねぇ? というのはだよ、君たち人間ってのは、どうせ憐れなものじゃあるが、ただ一つだけ、こいつは実に強力な武器を持ってるわけだよね。つまり、笑いなんだ。権力、金銭、説得、哀願、迫害------そういったものにも、巨大な嘘に対して起ち上がり、いくらかずつでも制圧して------そうさ、何世紀も何世紀もかかって、少しずつ弱めていく力はたしかにある。だが、たったひと吹きで、それらを粉微塵に吹き飛ばしてしまうことのできるのは、この笑いってやつだけだな。笑いによる攻撃に立ち向かえるものはなんにもない。だのに、君たち人間は、いつも笑い以外の武器を持ち出しては、がやがや戦ってるんだ。この笑いの武器なんてものを使うことがあるかね? あるもんか。いつも放ったらかして錆びつかせてるだけの話だよ。人間として、一度でもこの武器を使ったことがあるかね? あるもんか。そんな頭も、勇気もないんだよ」

 私はこの台詞を読んだ折、頭をぶち叩かれた気がした。

 これはあくまで私の考えであり、それはとても偏っていると思う。それを予め断った上で、思うことを幾つか述べるならば。
 戦場写真を目の前にした折、何が切ないといって、それは、戦場を生活の場とする子供たちの笑顔だ。もちろんそこで暮らすのは子供だけではない、私と同じくらいの女性もいれば、私の母を思わせるような年頃の女性もいる。その人たちが戦火にさらされながらも必死に生き、そしてなおかつ笑顔を失わずに暮らす、それらの姿ほど、私の琴線を震わせるものは他にない。
 これらの笑顔を守るために、人は、それぞれの立場で争いを為す。今為されているイラクでの争いだって、アメリカはアメリカの笑顔を守るため、日本は日本の笑顔を守るため、恐らく、為していることなのだろう。しかし。
 笑顔を守るためと称して笑顔を殺してゆく潰してゆく、これは、あまりにおかしな構図ではないのか。
 これを書きながらニュースをちょっとチェックした折、目に付いた。「<イラク戦争>米の元テロ対策担当者が糾弾本を出版」。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040323-00001045-mai-int。あぁこんな動きも今は起こっているのかと、しばしボールペンを口にくわえて見ていた。
 私は、あまりに無知で、また、長いこと我関せずで過ごしていたために、何が正しくて何が悪いのかといった自分なりの意見を今持ち合わせていない。
 ただ、この「不思議な少年」の中の台詞、「それらを粉微塵に吹き飛ばしてしまうことのできるのは、この笑いってやつだけだな。笑いによる攻撃に立ち向かえるものはなんにもない。だのに、君たち人間は、いつも笑い以外の武器を持ち出しては、がやがや戦ってるんだ。この笑いの武器なんてものを使うことがあるかね?」という言葉は、重く重く、私の心にのしかかってくるのを、感じずにはいられない。
 私たちは多分、サタンの言うとおり、あまりにたくさんの残酷な武器を用い過ぎた。これでもかというほど用いてしまった。その結果は一体どうであったか。それらを用い過ぎた後に残ったものは何であったか。
 マーク・トウェインの言う通り、もしも、笑いというのが私たちが持つ唯一の本来の武器であるならば。今私たちにできることは何なのだろう。

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