2004年3月1日月曜日

L'oeuvre de Camille Claudel catarogue raisonne カミーユ・クローデル作品カタログ レゾネ/監修レーヌ=マリー・パリス

 これは私の偏見かもしれないが。芸術家が男性でなく女性である場合、純粋にその女性芸術家の作品・実績にスポットが当てられることは少ないと思われる。作品にではなく、むしろ、その人生、生き様にこそ光が当てられ、人々の注目を集めることの方が多いと言える。カミーユ・クローデル(Camille Claudel,1864~1943)の場合もそうであろう。

 オギュースト・ロダン(Auguste Rodin,1840~1917)の弟子であり、共同制作者であり、そして愛人であったカミーユ。そして、詩人、劇作家かつ外交官であったポール・クローデル(Paul Claudel,1868~1955)の姉カミーユ。後半生はパラノイアに陥り、精神病院へと収容されることとなったカミーユ。
 彼女の復興運動が興っても、女性であることやその激しい生き様にこそスポットは当てられ、彫刻家としての彼女が知られるようになるまでには長い道程を要した。今もまだ、私から見ると彫刻家カミーユ・クローデルとしての知名度は、まだまだ足りないように思う。つまり何処までも「人間あるいは女性カミーユ・クローデル」であり、「彫刻家」という冠は、何処かに置き忘れられてしまったかのような。
 しかも、ようやく作品について述べられる機会を与えられれば、今度はロダンとの比較ばかり。ロダンの影響下でのカミーユ彫刻ばかりが取り上げられるという始末。
 確かに、あの時代、ロダンの彫刻は衝撃であった。脅威であった。その影響はフランスに留まらず世界へ伝播し、日本にも当然の如く伝わった。日本近代彫刻家たちの多くが、ロダンを父と、師としてあがめたような時期もあった。そのロダンの愛人ともなれば、ロダンの影響をどれほど強く受けたかとみられることは、いたしかたがないともいえる。また、ロダンは、彼の作品制作の主要部分の殆どを、弟子カミーユに委ねていた事実もあり、ロダンの作品とカミーユの作品に、その主題に、幾つもの接点が見出せるのも事実である。
 しかし。カミーユ・クローデル、彼女の彫刻には、ロダンと出会う以前に、そのロダン的要素とでもいうべき力強さ、女とは思えぬほどの大胆さがすでに宿っていたことを、私たちは忘れてはならない。それは、ポール・デュボワの有名な言葉、まだロダンの存在はもちろんその彫刻のことも全く知らずにいた年頃のカミーユに向かって「君はロダン氏に習ったのかね?」といわしめた実力が、十分に証明してくれよう。それだけではない、彼女の初期の試作品についての唯一の証人、マティアス・モラールは、次のように語っている。「実際、特筆すべきことは、この初期の試作品が動きの点でも形式の点でも、荒々しい激しさを証明していることである。…これはまさに、ロマンティックなドラマである」。そうした彼女の資質は、最初の師アルフレッド・ブーシェのもとで見事に開花したものであって、そこには決して、ロダン彫刻と彼女の彫刻とを結ぶ接点はない。また、この頃のカミーユに関してのマティアス・モラールのさらなる記述をみれば、「この時期から、マドモワゼル・カミーユ・クローデルはフォルムに大きな配慮を払うようになり、解釈し、知性と高貴な感性をもってそれを洞察するようになる。彼女の忠実な手から創り出される作品は、決して心自体を裏切ったり縮小したりすることはないであろう。これから後、彼女が私たちの目の前に鮮やかに表現していくのは、自然の悲劇的な、あるいは抒情的な美なのである」とある。また、カミーユ彫刻研究の第一人者として知られるレーヌ=マリー・パリス氏は、カミーユがロダンの工房に下彫工として入った頃には、彼女はすでに自分自身の作品の作風を確立していたと証言している。
 つまり。彼女のロダン的要素は、彼女に生来備わっていたものであり、それがロダンのもとで眩しいほどに洗練されたとこそ考えるべきなのではないだろうか。「カミーユ・クローデルの作品は、(ロダンとの)訣別と否定によってではなく、掘り下げ濃縮することによって師(ロダン)の影響を脱しようとする弟子の、必死の努力を明らかにしている」(レーヌ=マリー・パリス)。
 これは、あくまで私の観だが。パリのロダン美術館を訪れた折、私はその門に立ち美術館を目の前にした時、眩暈を感じた。館が叫んでいるのである。いや、館の中からこちらへと、幾つもの声が突き刺さってくる、そんな錯覚を覚えた。それはとても息苦しく、地を這うような、苦しみにも似た、そう、呻き声だった。館に入って、そこで私は呻き声の正体を知る。ロダンの彫刻が、館にひしめくありとあらゆる彫刻が、うめいているのである。苦悶に悶えているのである。
 一方、ロダン美術館の中の小さな一室、カミーユ・クローデルの部屋としてもうけられたその一室に入ると、突然あたりはしんと静まり返る。それまで私の耳にぐわんぐわんと押し寄せて来た一切の声が消えるのである。そして知る。あぁ、ロダンの彫刻が外へと叫ぶのならば、カミーユの彫刻は内へ内へと向かう声、ひそひそと小さくおしゃべりする彫刻なのだなということを。それは、まったく対極といっていい。ロダンの彫刻、そしてカミーユの彫刻が持つその性質の異。
 そんな二人の彫刻を前にして、当時こう思ったことを今でもはっきりと覚えている。ロダンの彫刻が見る者に感動を与えるものであるならば、カミーユの彫刻は、共感を与えるものなのではないか、と。
 そして、私がカミーユ彫刻を見つめるときに興味深いと思うことの一つはこの点にある。なぜなら、こうした「共感」というものは、当時西洋にはない感覚であったからだ。「いつも何かはっと驚かされたり、面白がらせていることを求める我々には、あの親密な共感---もしこう言ってよければ、あの魂の潤いというものが欠けているのです」(ポール・クローデル「朝日の中の黒い鳥」より引用)。余談かもしれないが、ロダンを師と仰ぎ、その言葉を聖書のように愛したとして知られる日本の近代彫刻家の一人である佐藤忠良氏が1981年にロダン美術館で個展を開き大成功を収めた折、それを評したル・モンド誌美術記者がこんなことを記している。「(佐藤の彫刻は)淡々として美しい命の表現だ。ロダンというよりカミーユの結晶だ」。そして。もう一度この日本の近代彫刻史を省みてみると。ロダンを師として、父として敬い慕った何人もの日本の彫刻家たちが、徐々に徐々に、ロダン彫刻から離れていったことを思い出さないだろうか。ロダンの彫刻を、ただ荒々しいばかりだ、と、或いは叫ぶばかりで余計な肉をつけすぎた肥満児のようにさえ見える、と。そうして彼らは、たとえば高村光太郎など、それまでの作品からふわりと離れ、まるで工芸と思えるような領域へと立ち戻っていった。内へ内へと囁くような小さな彫刻へと。
 そうした歴史や事実を省みるとき、私は、思うのである。日本の近代彫刻の師は、実はロダンではなく、カミーユ彫刻ではなかっただろうか、と。荻原守衛たちがロダンの工房を訪れた頃、カミーユはロダンの工房の下働きをしていた。そしてその当時、アトリエには、山のように弟子たちの彫ったものが散乱していたという。そのことを思うとき、守衛たちは実は、ロダンの作品というよりもカミーユの彫ったものたちに心惹かれていたのかもしれない、と。
 そんなふうに私は夢想しつつ、カタログをめくる。そこにあるのは、決して大きな声を出さない、ねぇねぇ、こっちよ、と、耳元で囁いてくるような作品たち。それは、とてもここちよい響きを、私の内にもたらしてくれるのである。
 カミーユ・クローデル彫刻をそうやって、いくつもの角度から捉えた一冊が、この本である。日本でカミーユ・クローデルに関する本といえば、おそらくみすず書房から出ているレーヌ=マリー・パリス著「カミーユ・クローデル」などが挙がるだろう。が、私はあえて、この、カタログレゾネの方を推薦したい。その作品ひとつひとつを、もう一度、その目に捉えてみてほしい。その人生よりも、彫刻家カミーユ・クローデルの作品群をこそ。

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