2004年3月18日木曜日

「自画像は語る」粟津則雄 新潮社刊

 以前「自画像との対話」という本を紹介したが、自画像に関してもう一冊、私が手放せない本がある。それは、粟津則雄氏の「自画像は語る」である。
 ここでは「自画像との対話」のちょうど二倍、三十六人の作家について述べられている。その中で、エゴン・シーレ、フィンセント・ファン・ゴッホ、ポール・ゴーギャン、エドワルド・ムンク、アメディオ・モディリアニ、ジョルジョ・デ・キリコ、萬鉄五郎、パウル・クレーなどについては二冊ともにそれぞれ触れられている。これらを読み比べる、というだけでも非常に面白い。
 本著の序で粟津氏がこう述べている。

「私が、若年の頃から自画像というものに特別な興味を覚えてきたのも、私を落ち着かせてくれぬこの感触と相応じるところがあるようだ。日常の生活においては、何がしかの不安や惑乱を覚えはしても、程なく何となく忘れてしまうものだが、自画像においては、この内的な対話そのものが、本質的な表現の動機として働いているからだ。自画像も肖像画の一種には違いないが、こういう意味で、それは、たまたま自分自身をモデルにしただけのものと言うことは出来ない。もちろん、他の人物を描こうが、静物を描こうが、風景を描こうが、そこには画家の個性が否応なく現れるのだが、自画像においては、それぞれの内部の劇の構造そのものが、それぞれの資質に応じて独特のかたちで立現れるものだ。」
「とういわけだから、自画像は、それぞれの画家の、自分自身を相手とした内的な劇を表わすばかりではなく、彼らそれぞれにとっての世界像もおのずから示している。」

 これらを読み終えた後、私たちは何を思うだろう。幾つもの自画像を前にした後、私たちは自らをどう捉えるだろう。自分を見つめるということは、自分と世界との関係性を凝視するということに他ならない。己内部の均衡、世界と己を結ぶ緒の有様。日々をただ過ごしていたのならば恐らくは見過ごすばかりだろうが、そんな私たちであってさえ、世界と常に関わり、己と世界との関わりの間で懸命に均衡をとろうと無意識が働いているはずなのだ。
 今、私に、そして君に、自己と対峙するだけの勇気はあるだろうか。そこに何が存在していても、それがどんな姿をしていても、受け容れるだけの勇気があるだろうか。
 そんなことを、本著は、読み手に語りかけてくる。

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