2004年3月2日火曜日

「かんがえるカエルくん」「まだかんがえるカエルくん」「もっとかんがえるカエルくん」 いわむらかずお作 福音館書店

 カエルくんとその友達のネズミくん。ふたりはいろいろ考える。
 たとえば。
「よるがくるね」
「よるはどこからくるの?」
 かんがえているカエルくん
 よるをさがしているネズミくん
 よるをさがしているふたり
「じめんのしたからよるはくるんだ」
「そっか」
「そらはあかるいけど、じめんはくらい」
「あのきのねもとからよるがくる」
「あのくさのねもとからよるがくる」
 かんがえている
 よるをさがしている
「だけど どうしてよるはくらいの?」

 彼らのやりとりは、そうやって続く。何処までも何処までも。ふたりの「なぜ」「どうして」は、とどまるところを知らない。そしてふたりの「なぜ」「どうして」は、とてもとても素朴なのだ。え? 言われてみると…と、大のオトナが言いたくなるくらいに。
 オトナになると、多分あちこちで、知っているふりをする。たとえば先に挙げた夜を、私たちはどう説明するだろう。少なくとも、地面の下から夜が来るとは、誰も考えまい。よる→くらい→くらいのはじめん→じめんからくるのだ、なんて、間違っても言うまい。ましてや、夜はどうして暗いの、なんて子供に聞かれれば、「太陽が沈んだからだよ」と、夢もへったくれもないようなことをすっと言ってしまうのがオチだろう。朝が来て昼が来て、やがて夜が来て。そしてまた太陽が昇ればそれが朝なのだ。大人は多分そうやって、一日を順々に捉える。そこに疑問の余地は、多分、ない。オトナにとって、それは、知恵であり、術なのだ。
 でも、オトナじゃない、コドモにとっては違う。そんな知恵なんて、術なんて、クソ食らえだ。
 だからこの本をひらくと、いたるところで、ふふふと笑えてしまうのだ。そうそう、そうだよね、と。言われてみればそうだよね、何故だろう、どうしてだろう、と。
 一日を上手にやりくりするために、人はいろんな習慣を作る。それに自分を慣れさせ、極端な表現かもしれないが、或る意味自分をベルトコンベアの上に乗せて、生き易いよう、生き易いようにリズムを作る。ひとつひとつのことに立ち止まっていたら、きりがないから、できるだけ上手に、楽に生きられるように。
 でも、そんな毎日に、疲れることもある。あまりにいろんな規則を作って、あまりに自分を枠にはめて、そうやって歩いてゆくのは楽かもしれないけれども、同時にちょっとつまらない。だから立ち止まる。立ち止まって、いつもは見過ごしている空を見上げたり、いつもなら目にもとまらない看板に立ち止まってみたり。そうやって見てみると、自分の周りは、あれ?どうして?が散りばめられていることに気付く。
 なぜ? どうして?
 だから、当たり前に過ごしている毎日に立ち止まりたくなったとき、私はこの本を開く。そしてふふふと笑う。そうそう、と相槌をうつ。そして本を閉じ、空に向かって、風に向かって、深呼吸する。
 そう、この本たちは、私の大切な、深呼吸の為の本である。

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