2008年12月29日月曜日

■つれづれに

 毎朝窓を開ける。そのたび空気がしんと冷たくなっていっているのがわかる。そんな中でも薔薇の樹や球根たちはすくすくと育っている。逞しい。彼らは今、私の心の大きな支えになっている。いや、支えというより見本とでも言うべきか。厳しい中でも凛と立ち、枝葉を伸ばす姿。見つめれば見つめるほど、見習うべき点が多く見つかる。植物と人間の関係はこんなにも密だったのかと改めて痛感させられる。
 この一年いろいろあった。あったけれど、いざ振り返ろうと思うとうまく思い出せない。年のせいなんだろうか、記憶がどんどん曖昧になってゆく。あまりに痛い思い出も、痛いというそのことしか思い出せない。もちろん日記帳を開けば詳細に書かれていることは分かっている。でも、それを開かない限り、私の記憶はこんなにも、もはやすかすかになるほど曖昧なのかもしれない。
 でもそれはそれでいいのではないだろうかと思う。昔はいろいろなことを覚えすぎていて、克明に覚えすぎていて、私は苦しかった。重たかった。いろいろなことが全部圧し掛かってくるようで、いつ倒れるか知れない毎日だった。あの頃はまだ若かったから、それでも何とかはねのけてやってこれたけれども、この年にもなったらそうもいかない。のしかかられたらそれだけで倒れてしまうことの方が、もしかしたら多くなるのかもしれない。もちろん、精神的にはタフになっている。でも、精神的にタフになっているからといって、すべてを受け止め抱えきれるわけでは、ない。タフになった分、自分の限界もまた、はっきりと見て取れるようになっているから。
 年が明ければ当然のごとく一月がやってくる。私にとっては一年のうちで一番、暦から切って失くしたい一ヶ月。でも。
 それがあるから、多分私は、自分の立ち位置をそのつど、確認できるのかもしれないと、ふと思うこともある。もちろんだからといって大丈夫になんてなれないけれども、それでも、発想の転換をしてみれば、これもまた私には必要な過程なのかもしれないとくらいは思うことができる。
 この一週間私は娘とべったりだ。どんな一週間になるんだろう。学童も何もない一週間というのは、ほぼ初めてだ。

追記:
昨日、ある人と話していて、その人が今あいている心の穴のことに触れたとき。私は自然に口にしていた。穴は埋まらないよ、と。穴は穴のまま。埋まらないけれども、でも、穴を穴として受け入れて、次へ進むことはできるよ、と。
あまりに自然に口にしていたから、自分でも直後驚いた。そういうものなのだろうか? でも多分、そうなんだと思う。
どこまで自分を受け入れていけるのだろう、私は。己をどこまで受容し得るのだろう。来年はそんなことを多分見つめながら過ごすのだろう。

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