2004年2月25日水曜日

furuya「Christine Furuya-Gossler Memoires,1978-1985 クリスティーネ フルヤ=ゲッスラーメモワール 1978-1985」(写真:古屋誠一、光琳社出版、定価4500+税円)

 写真家古屋誠一氏による、亡き夫人のポートレート。
 これほどまでに張り詰めた、夫と妻との関係、その緒の形を、私はこんなふうに写真集で見るのは初めてだった。夫婦でありながら、全くの第三者としての眼と眼、その対峙の仕方、私は、綴じられた写真の束を見ながら、ある種の戦慄さえ覚えた。時に虚ろに、時に切実に、時に投げやりに、時に痛切に、声なき声をもって、そこに在る人を、ひたすらに撮り続けるという行為。同時に、撮られるという行為。
 今これを書くにあたって、再度この写真集を前から順々に、そして後ろから順々に見つめ直してみた。どちらから眺めても、ここにある視線はこれでもかというほどにぴんと張り詰めている。こうやってカメラを挟んであちらとこちら、対峙するということがどれほどエネルギーを費やさねば為し得ることのできないものであったか。いや、もしかしたらそんなもの意識せずにあちらとこちらで本人たちは向き合っていたのかもしれない。でも、だとしたら余計に、この視線のもつ緊迫感、切迫感は、哀しい。同時に、切ないほどいとおしい。
 この写真集に対する批評を幾つか読んでみると、そこには、愛のない写真だといったコメントが記されていたりする。が、私には逆に思える。いや、それも違うかもしれない。なんというか、この写真の束を見つめるほどに、古屋氏とクリスティーネ氏との間に紡がれた、その二人のものでしかない、その二人のもの独特の愛が、そこかしこに張り巡らされているように私は感じる。それは、見つめている私までもが息を詰まらせてしまうほどに。
 ページをめくるごとに彼女の瞳の奥に視線の奥に広がってゆく虚空、逆を言えば、ページを遡るほどに温みをもってゆく彼女の瞳や体温、そしてそれに対して常に全く逸れることなく対峙するカメラと古屋氏。
 彼女と出会ってから彼女が自殺するまで、彼女が自殺してから彼女と出会うまで。この写真集は、そうやって前から後ろから、それぞれに眺めることができる。ぱらぱらと適当に途中をめくるのではなく、前からか後ろからか、本の表紙からか裏表紙からか、時間を遡るか時間を辿るのか、それを、見る者に選ばせてしまうような引力がある。

 ここには、人と人との関係がどれほどに緊迫したものであるのか、人が人である時にそれがどれほどの切実な叫びをもってしてあるものなのかを省みさせる何かがある。私には、そう思えてならない。

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