2009年1月19日月曜日

■だからこそ、いとおしい

 人と人との緒はとても繊細だ。時に儚く、時に強く。そして繊細だ。

 人と人との緒を、できるなら永遠にと願っていながら刹那的にしか捉えられなかった頃があった。年若い頃、とでもいうのだろうか。十代二十代というのは、その緒を追い求めるばかりで、育むことをまだ知らなかった。
 それが、三十代になり、紆余曲折を経て、追い求めるばかりではなく、待ち、「育む」ことがどれほど大切かを少しずつ噛みしめるようになった。でも実際にそうできるようになったのは…三十代も終わる今日この頃である。
 何も知らずにがむしゃらに追い求める時期があり、気づきの時期があり、そして受け容れる時期がある。もちろんひとっとびに知り受け容れる時期に飛べたら、痛い目になど遭わずにすむのかもしれないが、ひとつひとつを経ることでしか、本当の意味で知り受け容れることなどできない。血肉を分けて勝ち得たものは味がある。ぬくみがある。痛みと引き替えにようやく、そこに辿り着ける。

 人との距離感もまたとても微妙なものだ。ちょっと間違えると、お互いに傷つけ合うしかできなくなる。近すぎもせず遠すぎもせず、適度な距離というのが、関係のひとつひとつに在る。そのことを知るにも、これまた、それなりの時間がかかる。

 切る、という言葉がある。切る、という行為がある。その行為を勢いでしてしまうことは可能だ。しかし。
 果たしてそれでいいのだろうか。

 待つことは確かに辛い。痛い。苦しい。けれど、待つことでしか解決しないこともあるということを、どうして人はなかなか受け容れられないのだろう。

 今、身近で、一つの関係、一つの緒が、悲鳴を上げている。私はちょうどその狭間で、緒の端と端にいる人たちを見守っている。
 できるなら。
 時間をかけてほしい。焦らず、育むことを覚えてほしい。きったはったで簡単に片付けられるほど、そんな容易な関係だったかどうかを、もう一度振り返ってほしい。振り返るのにもまだ、時間が必要だと思う。だから今は私は黙って見守るほかに術はない。

 雨後の朝、霧があたりをおおった。視界はぼやけ、東からさしてくる光だけが目印だった。そんな時期も、ある。人と人との緒にも、そんな時期が、在る。

 だからこそ、いとおしい。

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