2008年11月29日土曜日

■素直に言えた「ありがとう」

 遅延のため混雑しつくしている電車に、何とか乗り込む。途中何度も逃げ出したくなるが、先の駅で親友が待っているという一事だけによりすがり、必死に目を閉じて我慢する。以前だったら間違いなく、私は電車から逃げ出していただろう。
 二人して写真展を見に行く約束。会場の喫茶店は馴染みの店。安心して座っていられる場所。そういえば、駅前の通りの銀杏がいい具合に色づいていた。きっともう来週くらいにはすっかり散り落ちてしまうだろう。その間を歩く人々はコートの襟を立てて。樹はみんな裸ん坊で。そうしてみんな冬支度。
 彼女はホットサンドとホットミルク、私はカレーとミルクティを頼む。その間に彼女は一点一点作品を見てくれる。こういうとき、本当にありがたいなぁと思う。見てくれる人がいるからこそ作品は作品として成り立つ。
 でも、行きの電車で疲れきってしまった私は、言葉が続かない。それに気づいたのか、彼女が、時間もあるし私の家の近くまで行こうか、と言ってくれる。それなら、と、別のルートを使って二人で横浜まで出ることにする。
 彼女は学生時代の通学路として、私は就職したての頃の一人暮らしをその沿線で過ごした。この駅はずいぶんきれいになっちゃったねぇ、あ、この駅はまだ古いままだね、などと会話しながら、気づけば二人ともうとうと。
 うとうとしながら、私はクリシュナムルティの言葉を思い出していた。

「自身にとっての光であることは、他のすべての人々の光であることだ。自身が光であれば、精神は課題や応答から自由になる。そのとき精神は全体的に目覚め、張りつめているからだ。この緊張にはなんの中心もなく、緊張している者もなく、したがってなんの境界もない。中心、つまり<私>がある限り、課題と応答がある。成熟したものであれ、未熟なものであれ、快楽的、あるいは悲しみに満ちたものであれ、必ず問いと応答がある。その中心はけっして自身にとっての光ではありえない。そんな光は思考がつくる人工的な光であり、多くの影がある。共感・慈悲は思考の影ではなく、光である。あなたのものでも他人のものでもない。」

「これらすべてに気づくことが、自己の活動の有様に目覚めることだ。この覚醒状態のなかには、中心も自己もない。自己同一化のために自己表現しようとする衝動は、混乱の結果であって、存在の無意味さを示している。意味を求めることは、分裂・断片化のはじまりだ。思考は人生に千の意味を与えることができる。事実与えている。めいめいが自分の意味を発明するが、それらは単に意見や確信にすぎないもので、どこまでいってもきりがない。生きることこそ、意味の全体なのだ。」

 (クリシュナムルティの日記より)

 彼女と別れるとき、素直にありがとうと言うことができた。そうさせてくれた彼女に私は深く感謝する。
 今夜はひとりで過ごす夜だ。娘は実家でじじばばと過ごしている。さて、何をして過ごそう。

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