2008年11月8日土曜日

■静かな夜。樹はそこに在て、私もここに在る。

 「海辺をさまよいながらこの瞑想の流れに出会ってみたまえ。しかし出会っても追いかけてはならない。あなたが追いかけているのはすでに過去の思い出であって、それはもはや死物にすぎない。丘から丘にさまよい歩いて、あなたのまわりのすべてのものに、生の美しさと苦痛を語らせ、ついにあなたが自らの悲嘆に目覚め、終焉させるようにしてみたまえ。瞑想は根であり、花であり、そして果実である。植物の全体を果実、花、幹、そして根に分けてしまうのは言葉である。このような分離の中では行為はついに不毛に終わる。愛の行為とは全的な把握にほかならない。」(クリシュナムルティの瞑想録/ジッドゥ・クリシュナムルティ著)

 思春期の頃、思ったことがあった。言葉を知りたい。言葉を知り尽くしたい。私の心の奥の奥まで、正確に表現し尽くせるだけの言葉を知りたい。
 自分の思いなのに正確に表現できないことが悔しかった。表現しようとすればするほど何かが違うように思えて、そのことが私を余計に憤らせた。誰かと何かを話していて、その時に話したそばから自分の思う通りに伝わっていないことを知るほど、もどかしくて仕方なかった。私の思いを正確に伝えるためには、正確に残すためには、言葉が必要なのだ、言葉がなければ生きていけない、ありとあらゆる言葉を知って、それを使って私は私の内奥を表現し尽くしたい。そう思っていた。
 でも。そうやって何処までも何処までも言葉を追いかけて、知ったのは、言葉は所詮言葉でしかないということだった。そこに言葉が在る、存在する、というその時点で、そのモノの新鮮さは瞬時にして失われ、つまり私の中にそれまであった脈打つ音は消え去り、化石のような何者かが残されるだけなのだった。
 言葉ですべてを語り尽くすことは出来ない。言葉でいくら細部をこと細かく表現したとしても、私はその時点で、表現したかった筈の何者かの全体像を失ってしまっている。そのことに気づいたのは、ずいぶん歳を重ねてからだった。

 今娘の成長を間近で見つめていて、気づくことがある。それは、彼女の成長が次々に私に見せるその姿が、私を癒すというそのことだ。
 彼女が泣く。笑う。へこむ。喜ぶ。そういった姿をこうして一歩離れたところから見つめていると、彼女の姿のずっとむこう側に、何かの姿がふっと浮かぶことがある。すると私の中で何かがすっと流れ去ってゆく。そしてその後に残るのは、小さな小さな光る石、ただ一つ。
 その光もやがて消え、ただの石になったとき、私はその石を拾う。拾って、この掌の上で転がしたり握ったり。そして私はさよならをする。
 そういえばこんなこともあったね、あんなこともあったね、と。
 でももう大丈夫。私はあんなこともこんなことももう手離しても大丈夫。歩いていける。だから、さようなら。
 疵、というそれらが、こんなにもあたたかく見送ることができるものだとは、知らなかった。もっと痛くて辛いものだと思ってた。いや、そもそも、見送ることができる代物だなんて、これっぽっちも信じたことはなかった。
 でも。
 見送ることができるのだな。こんな私にも。

 静かな夜。樹はそこに在て、私もここに在る。

0 件のコメント: