2008年11月10日月曜日

■濃灰色の朝

 まだ雨の残る今朝。濃灰色の帳がこの町にすとんと下りている。今日が何日で何曜日であるかということをしばし放念していた私は、部屋の中うろうろと歩き回る。時間を遡り、飛び散った記憶のパーツを掻き集め、組み立て直す。そしてようやく納得する。今日は月曜日、病院の日。
 どうして記憶が飛んだんだったろう。それを改めて思い出し、私は苦々しい思いをかみ締める。

 親というのは、たいていが愛情過多なのではないだろうか。子の為に子の為にと先走り、自分なりの愛情を子に注ぐ。しかし、それが愛情であるうちはいい。愛情が束縛(過干渉)に変貌し、支配に変貌してゆく。しかし本人たちはそのことを決して受け入れることはない。むしろ、それを良しとしてしまうことさえある。しかしそれこそが、愛情という名のもとに行われる子に対する支配であるということ。たとえば親に監禁され、数年を過ごしたことのある者なら誰にでもそれが分かり得るだろう。
 そんな世界では、たとえば、こんなにも一所懸命やっているのに、こんなにもこちらは努力しているのに、愛しているのに、どうしてそれを分かろうとしないんだ。そんな台詞は日常茶飯事になる。やがてそれらさえ声に出されることはなく、無言の圧力、無言の支配に変わる。それでもそれらは常に「愛」のもとに為されていると彼ら権力者は胸を張って主張する。
 久しぶりに昨夜親からの圧力に晒されて、私は慌てた。自分が築いてきた足場ががらがらと崩れる音を聞いた。そして今朝。
 足場はぐらぐらと揺れてはいるけれど。それでも骨組み程度は、まだ、残っていることに気づいた。
 まだ、大丈夫。まだ、やれる。この足場はまだ、生きている。

 机に向かおうとして、気づく。私のキーボードの上に、小さなぬいぐるみが二つ、ちょこねんと座っている。あぁ、娘がやったのだ。娘お気に入りのカエルのぬいぐるみが二つ。並んで座っている。
 昨日私は不覚にも、娘の前で涙してしまったことを思い出す。その後頓服を飲んだのだった。多分娘は、私を気遣って、このぬいぐるみを私が一番に触れる場所に置いてくれたに違いない。
 ありがとう、娘よ。
 ねぇ娘、私はあなたにとって、どんな親なんだろう。私が親から強制されてきたような関係を、私はあなたに強制していやしないだろうか。私はいつもそのことに怯えているんだ。どうか、少しでも違う関係を、あなたと私が結べていますようにと、すがるように祈っているんだ。

 いつの間にか時計が六時半を指している。そろそろあなたも起きてくる頃。そうしたらいつものハグを。そして少しでも何かおしゃべりしよう。その前に私は、プランターの緑たちに水を遣るつもりだ。

 あぁ世界が、あの頃のように反転してしまいませんように。
 私が周囲からの支配に負けることなく、この地にすっくと立っていられますように。

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