2008年11月16日日曜日

■ブランコとあの子(続)

 ブランコ乗りたいの? あの子が小さな声で聞いてきた。
 返事ができず、私がじっとしていると、あの子は座り込んでいた私の手を引っ張った。そして、私をブランコに再び座らせた。
 あの子は隣のブランコに座り、こうやるんだよ、とばかりにブランコを漕ぎ始めた。その時私がどうしたのか、正直覚えていない。あの子とブランコが描く線が美しくて、ただそれに見惚れていたような気がする。
 飛び降りる時に、下に飛び降りるんじゃなくて、前に飛び出すんだよ。あの子が言った。ブランコより前に飛び出すんだよ。見てて。そう言ってあの子はもう一度飛んだ。
 このあたりの、自分に関しての記憶が私にはない。あの子の描く放物線の美しさばかりが印象に残っている。でも多分、その間に、私は彼女からいろいろと教えられたのだ。次の記憶は、私がブランコから飛び出すところから始まっている。
 ほら、そこで飛ぶんだよ、前に飛ぶんだよ。あの子の声にしたがって、私は懸命に前に飛んだ。でも、また後ろからブランコが襲ってくるんじゃないかと思って私は身を小さく屈めた。
 大丈夫だよ、ブランコより遠くに飛んだんだから、ぶつからないよ。あの子が笑った。私も笑った。あたりはもう、確か、深く暗く闇が広がっており、でも、私たちの声はとてもとても、明るかった。
 それから。公園に行くと、あの子は私をブランコに誘ってくれるようになった。気づけばブランコは、私たちの場所になっていた。私たちはお互いに何を喋るわけでもなく、ただブランコを楽しんだ。ブランコから飛ぶ瞬間を共に味わった。着地するときの心地よさを共に味わった。それは永遠に続くかのように思えた。
 或る日、あの子がブランコに乗る前に、ぽつりと言った。今度引越しするんだ。何処にいくの? ここから遠い町。いつ? あさって。それだけ言葉を交わすと、私たちはただ黙ってブランコに乗った。いつにもなく長く長く、ブランコを漕いだ。そして、飛んだ。
 じゃぁね。またね。バイバイ。
 あの子はそれ以来、公園には来なかった。二つのブランコは、もう、一緒に揺れることはなかった。私もしばらく、ブランコには乗れなかった。
 千晶ちゃん。あの子の名前は千晶だった。一度も千晶ちゃんと呼んだことはなかったけれど、私はあの子の名前を今も覚えている。今頃どうしているのだろう。もしかしたら、もう子どもがいて、その子どもにブランコを教えているのかもしれない。そんな時あの子は私を思い出してくれるだろうか。私を思い出さないまでも、こんな日々があったことを思い出してくれるだろうか。
 千晶ちゃん。もう会うこともないだろう人だけれども、私の記憶の中に、ずっと生きている。ブランコの思い出の中に。

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