2008年11月12日水曜日

■叫ぶか叫ばないかは本人が決めればいい

 NHKの人から取材を受けたのが昨日。そのせいか、ひどく疲れて朝もまともに起きることができなかった。鏡の中の疲れた顔を見て、少し頑張りすぎたのかもしれないと反省する。
 聞かれたのは、だいたい性犯罪被害者の回復に必要なことについて。でも、根本的な考えがひとつ違っていた。それは、被害者の回復に被害に遭った事実を社会に向かって叫ぶことが必要かどうかという考え。取材側は、すでにアメリカで活躍なさっている大藪順子氏を取材しており、その考え方によると、叫ぶことが必要だという。社会に訴えることが必要なのだという。しかし。
 それはアメリカでの話だ、と私は強く感じる。アメリカと日本とでは社会状況があまりに違う。それを飛び越えて、一様に、叫ぶことが必要だと私は思えない。実際、私の周りには、叫ばないことを選択した人たちが何人もいる。
 では叫ばないでどうするのかといえば、そこから改めて社会との関わりを築き直すことが必要になる。それはひどく疲れる作業ではあるけれども、どのみちこの作業は、叫ぶ叫ばないを関係なくどちらの側にも必要な作業だ。被害を受けることによって一度瓦礫のように崩れた社会との関係性を再構築する。たとえば単純に家の外に出ること。習い事をするでも散歩するでも仕事をするんでも何でもいい。とにかく外に出てみること。そして外に出て誰かと話すこと。話さないなら話さないで何かを為すこと。そこで何かしらの関係が生まれる。それが絆になる。その細い細い絆をひとつひとつ増やしていって、社会との太いパイプを再びつなぎ直す。
 被害を受けたことのない人にとっては至極当然な、というより、当たり前に為していることだから、そういった人から見たら何を言っているんだといわれるかもしれないが、そのごくごく当然の自然のところ、人間性の基盤のところを破壊されてしまったら、そこから築き直すしかないのだ。
 築き直すために叫ぶことが必要か否か。それは、個人が決めればいい。一様に叫ぶことが必要だと訴えるのはおかしい。どちらを選んでもそれは、正しい選択だ。叫ばないことを弱いと、間違っているとみなすのはおかしい。
 そのことを懇々と訴えるのは、今の私には疲れる作業だった。今思えばそうだった。
 結局取材側は、そういう回復の過程もあるのですか、と半信半疑の様子で帰っていった。自分の力不足を少々嘆く結果に終わる。
 しかし。
 それでも思う。叫ぶか叫ばないかは被害に遭った本人が決めればいい。犯罪被害でも特に性犯罪被害に関しては私はそう思う。実際私は叫んだことによってさらに傷ついた。そういう現実を無視して欲しくない。

 どんよりと曇った空。今の私にとても似ている。今はそう、この疲れた心を休めることだけ考えよう。

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