2008年11月7日金曜日

■笑顔にだってなれる

 いつの間にか雨が降り出し、そして止んだ。朝、アスファルトがしっとりと濡れている。空はどんよりと重く暗い。そんな中であっても、娘は半袖でいってきますと飛び出してゆく。

 熱い紅茶を入れて、机へ。昨日の出来事振り返る。
 久しぶりに人に対して腹を立てた。情けなくもあった。この歳にもなって平然と約束を放棄し、その上自分の親に頼んでもう時間もとうに過ぎた後に断りの電話を掛けてくる。その神経が信じられなかった。
 一晩たってではどうなったかといえば。
 腹はもう立たない。でもどうでもいいとまでは言えない。苦々しい気持ちが紅茶と共に口の中に広がる。
 こんな時。
 私より娘の方がドライだ。約束を破るような人とは距離を置く。当たり前の選択を当たり前に選び取る。そして、必要があれば黙ってじっと見ている。
 私はといえば、その選択に躊躇いを覚え、迷ってしまう。同時にそういう自分を持て余す。何とも弱い。

 この頃特に思う。心の病気を抱えている人と付き合うのには、よほどの距離感を持たねば無理だなということ。もっと細かく言うと、もはや病気とはいえない程度の症状にまで回復しているのに何かあればすぐかつての病気に逃げ隠れしようとする人とは、距離を持たねばならないということ。冷酷なようだが、自分の生活を守るためには、それが必要なんだと、事ある毎に痛感させられる。
 私の周りには心の病を抱えた人が結構いる。そういう人との付き合いは別に苦でもない。私自身まだ薬を飲むことが日常に必要だし、病院通いも必要な身分だ。共感できる部分はたくさんある。共有できる部分もたくさんある。
 しかし、病気に逃げるか逃げないかは別だ。同じ病気を抱えていても、それは個人で全く違う。ベクトルが違う。

 私はここに甘んじているつもりはない。いつか克服する、いつか全てを解放すると信じて止まない。たとえ生きている間にそれが叶わないとしても、それを諦めるつもりは露ほどもない。だから、そうじゃない人との交わりは、こちらが呑まれない程度にしないと、自分がしんどくなる。
 ずるいかもしれないが、自分がしんどくなってまでのつきあいを、もうしたいとは思わない。
 私は回復したい。だからそれを諦めない。足枷になる関係は断つ。
 それだけのことだ。そう、それだけのこと。

 そこに迷いを覚えてしまうのは、私の弱さだ。私は私と娘との生活を、その安定を何よりも望んでいるのだから。私がその関係で不安定になったら、この小舟はどうなる? そんなこと、誰にでも分かり得る。

 ここまで書いてきて、それでもまだ、迷っている自分がいることを私は痛感している。でももう、昔のように、関係の緒をひたすら持ち続けることは、しないのだろう。悲しいかな、そんなことをしていたら、私は、私たちの舟は沈没してしまうから。
 だから手放す。

 まだカップに残る紅茶はすっかり冷えた。今日一日くらいこの苦々しい思いは口の中広がったままかもしれない。でも。
 我が娘のようにさらりとかわせないまでも、えいやっと断つことくらいはできるだろう。私にだって。

 そう。私はちっぽけな人間だ。ちっぽけだから必死に生きてる。じたばたもする。でも、諦めの悪さだけはとびっきりだ。私は生き続けたいのだから。

 こんな天気の日は、つい俯きがちになる。だから、娘を真似て鏡の中まっすぐ前を向いてみる。さぁ背筋を伸ばしてしゃんとして。
 ほらごらん、その気になれば、笑顔にだってなれるよ。

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