2008年11月4日火曜日

■あの坂をのぼりきれば

 身を起こしたのは午前五時。布団から出ると身体がぶるりと震える。部屋に横たわる冷気を振り払うようにして私は勢いよく顔を洗う。今日は晴れるだろうか。まだ眠っている娘を気にしながら私は窓を半分開ける。
 徐々に徐々に空が明るくなってゆく。ふと気付けば。明かりをつけていた部屋の方が暗くなるほどの眩しい光。そこらじゅうで弾け飛ぶ光の粒。私はベランダのプランターたちに駆け寄る。東から伸びてくる光の筋が、葉々を包み込む。近づいて見つめれば、葉の細毛が白く輝いている。
 相変わらずの半袖姿で玄関を飛び出していった娘の後を追うように、私も家を出る。もういい加減通い慣れた、歩道のない道ばかりが通る町へ出掛ける。通い慣れているけれど、それでも私は混んだ電車の中で今日も猛烈な所在無さに襲われる。この電車の中の何処に自分の場所を据えていいのか分からず、時間が進むにつれ激しくなる動悸を抱えながらひたすら窓の外を見つめる。こんな時は鞄の中に常に入れている本さえ手にすることができない。そして、自分の居場所を今日も得ることができぬまま、私は押し出されるようにしてようやく電車を降りる。
 用事を済ませた帰り道はひとつ手前の駅で降りて私は歩く。歩き出せば、こんな暖かな日は上着などすぐに要らなくなる。
 細い川を渡る小さな橋の上でいっとき立ち止まる。さやさやと流れる水は小さな漣を描き、海へと続いてゆく。相変わらず塵がところどころに浮かんでいるけれど、それでも流れ続ける。光が乱反射し、私の目を射る。見上げれば真っ白な空。こんな町中ではもちろん、まっすぐな地平線など望むべくもない。
 それでも私はこの町が好きだ。生まれ育ったこの町。ちょっと裏道に入れば猫の額ほどではあってもまだ空地の残る、人と人が適当な距離をもって存在し得るこの町が好きだ。
 そういえば娘が日記に書いてきた。明日は近くの幼稚園に行って紙芝居をするの。上手に読めるように今日はいっぱい練習するんだ。
 今頃娘は教室で、練習しているんだろうか。紙芝居は手作りだと言っていた。どんな紙芝居に仕上がっているのだろう。

 こんな季節だというのに10分も歩き続ければ額に汗の粒。でも大丈夫、あの坂をのぼりきれば。自然、深呼吸をひとつ。そう、もう大丈夫。安心してくつろげる我が家はもうすぐだ。

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