2007年7月11日水曜日

沈黙博物館/小川洋子

 形見という代物を、一つでも持ってみると、それがどれほど重たく貴重な代物であるのか痛感する。私自身、形見というものを幾つか持っている。この本を読みながら、思わずそれらがしまってある場所に手を伸ばしたら、とても痛い目にあった。何が痛いのか。それは人それぞれかもしれないが、私の場合、そこで終わってしまった命の断面が、ありありとその代物に刻み込まれていて、そこに触れるのが痛いのだ。私の場合、恐らく、その形見というのが、病死や自然死のケースよりも自殺というケースが多いせいなのかもしれないが。ここで断たれてしまった命、その断面。飛び立った或いは墜落し飛び散った血飛沫が、なまなまと、ありありと、私の網膜に蘇ってくる。それが痛い。それでいながら、一方で、何処までも何処までも愛おしい。それは、かつて培った緒を形見という彼らが、まるで証のように顕しているから。
 沈黙博物館は残酷だ。老婆が背負った仕事はあまりにも重い。何故なら、自らと緒を結ぶことが殆どなかった人間たちの生き様さえも記憶に留めなければならなかったのだから。それを紐解くという作業も、一体どれほどのものだったか。想像すると、思わず本を閉じたくなる。同時に、あぁこの「技師」というのは、この街に辿り着いた時点でもう、この世の人間ではなくなったのだな、と、私にはそう感じられた。 老婆を軸にしてその屋敷に集った者はみな、もうこの世とは離れてしまった人間たちに思えてならない。皆それぞれに背負った仕事。でもそれは、この世に存在しては恐らく為しえなかった仕事。
 残念なのは、物語の後半だ。老婆の仕事を技師が受け継ぐ。その辺りのところが明確に描かれていないことで謎が謎を呼んでしまう。できるなら、ここできっかり、この場所が屋敷がそしてそこに集まらざるを得なかった登場人物たちが、なにゆえにここに行き着いたのか、私はそれが知りたかった。
 後半の緩みは、作者の意図したものなのか。それを知る術は一読者の私にはないのだけれども、もしそれが意図したものであるのであれば。 それは、どちらにでも解釈できると同時に、そのどちらにも定義づけることができない、この世とあの世の狭間に沈黙博物館があるということか。
 全ては、読み手に委ねられている。

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