2007年7月12日木曜日

包帯クラブ The Bandage Club/天童荒太

 「こっちも、と彼女が別の場所を指す。わたしたち家族が昔、サンドイッチを食べたテーブルの、パラソルの柄の部分にも、包帯が十センチほど巻かれていた…(中略) 大したことではなく、ほんのささいな包帯のひと巻きだった。 でもそれは、確かにこの場所、ここの風景が、傷を受けていた証のように思えたし、同時に、しっかり手当てをしてもらえた跡に見えた。 そうなんだ、ここにはやっぱり、わたしや、わたしの家族の血が流れていたんだ。 気づかないふりをしていたけど、わたしは傷を受けていた…大したことじゃないと思い込もうとしていたけど、奥深いところに刺さったトゲのように痛みを発していた。 でも、いまはその傷を認めてもらえた。あなたの傷なんだと言ってもらえた。そして、包帯が巻かれている。完全に治ったわけじゃないけど、少なくとも血は止めてもらえた。 その感じが、なんだかとてもほっとした。」

 何気ない文章で書かれているが、この部分はこの作品を読む上で非常に大切なことのような気がしてならない。
 目には見えない傷、不確かな傷、誰とも共有することができない傷が、一体どのくらいあるのだろう。生きていればどうやっても傷だらけになる。傷つくたびに泣いていたら、恐らく一歩も動けなくなる。でも。
 もしこんなふうに、包帯を誰かが巻いてくれたなら。どんなにほっとするだろう。見ないふり、気づかないふり、知らないふりをして通り過ぎなければならなかった傷たちも、それで癒される。見ないふりをしなくてもすむ。
 少年少女たちが営む思春期の一場面を、著者は実に鮮やかに描き出してくれる。
 そして後半、こんなフレーズを見出すことができる。

「 甘いなりに多くの傷を受けながら、それでも生きることを引き受けるなら、自分のためでなく、それがだれかのためでもあるのなら、自分たちが最もしてほしくて、でも本当にあるのかずっと疑っていた、口にするのも恥ずかしい、例のアレが、そこには存在しているってことになるんじゃないだろうか。 」

 これを、君はあなたは、物語の中で、どんなふうに読み、感じるのだろう。 これを書いている作者のことを考えてしまうと、ひねくれた私なぞは、どうしても、物分りの良すぎる大人の描いた物語じゃぁないか、などと嘯いてみたりしたくなる。
 が。その実、私は物語が進むにつれ、涙をぼろぼろ零しながら読んでいたのだから、それこそ我が身を嘲笑うしか術がない。
 そうだ。
 物分りが良すぎようと、カッコつけすぎだろうとクサかろうと、キレイゴトだろうとたかが物語だろうと、そんなこたぁどうだっていいんだ。
 じゃぁそんなあんたは君は私は、「例のアレ」を知っているのか、堂々と口にできちゃったりするような人間なのか、何より、「生きることをどうであろうといかなるときも引き受けているか」。
 --------ただ、それに尽きるだろう。

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