久しぶりに用事があってみなとの方へ。高架下をくぐるとまっすぐに海へとのびる銀杏並木の通りに出る。あぁここはだいぶ色づいている。黄金色とまではいかないけれども、ほぼ全体が黄色に輝いている。そこだけぽっと灯りがついたかのよう。そういえば銀杏の匂いはもうない。そういう季節なのか。
家を出てくる前、二年前の日記帳をふと開いて読んでみた。いたるところに、自分を傷つけている記述が残っていた。そうか、二年前はまだまだ破壊的行為の真っ只中に私はいたのだな。たった二年、されど二年、そう、大きな二年だ。
そして、樹は変わらずそこに在った。二年前も今も。もう少し自転車でまっすぐ走れば、右手にモミジフウの樹が。クリスマスの時期には娘を連れてその実を拾いに来よう。今年は幾つの実を拾い集めることができるだろう。
用事を済ませた帰り道、ふと公園に立ち寄る。この公園には池がある。行ってみると、鳩が水辺でごろりと横になっているところだった。向こう岸に猫がいるというのに、呑気な光景だ。
池は重たげな雲を映しているせいか、海松色と苔色を静かに混ぜたような色合いをしている。澄んだ水面には葉を落とした桜の枝々の姿がくっきりと映っている。ふみゃぁという声に驚いて振り返ると、半野良猫が餌欲しさに数匹集まって来ている。あぁ、ごめん、私はごはん持っていないのよ。声に出して言ってみるが、彼らには全然通じない。何も持っていない手をぱらぱらと振ってみせる。すると、がっかりしたような表情をして彼らは立ち去る。ここには猫おばさんが定期的に通ってきて餌を遣るから、多分、その人の友達とでも思ったのだろう。時計を見る。やっぱり。猫おばさんがそろそろやってくる時間だ。
私は立ち上がり、自転車に乗り直す。それにしても今日は寒い。このまま冬に突入するのだろうか。それともあと一度くらい暖かさを戻す日があるのだろうか。
そうだ。家に帰ったら、パン作りをしよう。明日の朝食は久々に手作りパンで。じゃぁ夕飯は? 確か昨日のスープの残りがあったはず。
みゃぉ。猫の鳴き声に振り返る。でも、姿は見えない。多分つつじの藪の中に隠れているのだろう。おまえたちの待ち人はきっともうすぐやってくるよ。じゃぁね、ばいばい。
私は心の中でそう言い、ペダルを漕ぎ始める。家まではあと約五分。さぁ気分を切り替えて。俯きがちなときほど視点を変えてみること。何事も視点を変えれば、新しい側面が見えてくる。
2008年11月11日火曜日
■こんな時はいつもよりいっそう強く
天気予報は曇りのち雨。六時を過ぎても薄暗い。雲の向こうに陽光の気配はあまり感じられず。常緑樹の街路樹の枝々が、南東からの風にゆらゆらと揺れている。
そういえば、今年もそろそろ街路樹の枝おろしの時期だ。毎年11月下旬にそれは行われる。その後はこんなふうに風に揺れる枝や葉の姿も見られなくなるのだと思い出したら、なんだか目が離せなくなった。風の気配。枝の描く妙線。葉の啼く音。
いつもより早起きした娘が何かを思い出しながら指を折っている。何を数えてるのと尋ねると、昨日ちゅーした回数、と答えが返ってきた。で、何回ちゅーした? うんとね、五回かな。…五回もちゅーしてるのか、ちょっと多いね。多くないよ、全然、もっとちゅーしたいもん。なんでそんなにちゅーしたいの? わかんないけど、ママの顔見てるとちゅーしたくなる。…そうなんだ。ママはしたくならないの? うーん、ママは…ちゅーしなくてもちゅーしてるような気分だから。何それ? うーん、つまりさ、ママはいつでもあなたのことを考えているってことだよ。
せっかくだからと今日は娘と一緒にプランターを覗く。毎日覗いている私にはそんなに変化があるように思えなくても、時々しか覗かない娘にとっては大きな変化がそこにある。うわぁママ、これは赤ちゃんの手だねぇ。ラナンキュラスだよ。これはひげ、うーん、違った、トゲだ。ムスカリだね。これ、あかんべぇしてるみたいだね。それねぇ今年初めて植えたイフェイオンだよ。なんかかっこわるいよ。確かにね、かっこ悪いね。べろべろべろーん。ははははは。
朝のひとときはあっという間に過ぎる。その時娘が言った。
ねぇママ。今年サンタさん、何人来てくれるの? え? サンタさんだよ。サンタさんって一人だよ。違うよ何人もいるんだよ。なんで? ゆかりちゃんが言ってた。おじいちゃんサンタ、おばあちゃんサンタ、パパサンタ、ママサンタ、おじちゃんサンタ、おばちゃんサンタ、でね、ゆかりちゃんのところは四人は少なくとも来てくれるらしいよ。…あらまぁ。いいなぁ、うちはママサンタ一人だけじゃん。うーん、本物サンタも来るよ。何処から? 空から。じゃぁうちには二人? うーん、そういうことになるねぇ。つまんない。…。もっとサンタさん来てくれればいいのに。そうだねぇ。パパサンタとかさぁ。…そうだねぇ。まぁうちは、ママがママパパサンタだからしょうがないのか。何だそれ。ふふーん。
それだけ言うと、娘はさっと部屋の中に戻り漫画を読み始める。
私は。
私はベランダから身を乗り出し、街路樹たちをふわりと眺める。枝よ揺れろ、葉よ泳げ、こんな時はいつもよりいっそう強く。
そういえば、今年もそろそろ街路樹の枝おろしの時期だ。毎年11月下旬にそれは行われる。その後はこんなふうに風に揺れる枝や葉の姿も見られなくなるのだと思い出したら、なんだか目が離せなくなった。風の気配。枝の描く妙線。葉の啼く音。
いつもより早起きした娘が何かを思い出しながら指を折っている。何を数えてるのと尋ねると、昨日ちゅーした回数、と答えが返ってきた。で、何回ちゅーした? うんとね、五回かな。…五回もちゅーしてるのか、ちょっと多いね。多くないよ、全然、もっとちゅーしたいもん。なんでそんなにちゅーしたいの? わかんないけど、ママの顔見てるとちゅーしたくなる。…そうなんだ。ママはしたくならないの? うーん、ママは…ちゅーしなくてもちゅーしてるような気分だから。何それ? うーん、つまりさ、ママはいつでもあなたのことを考えているってことだよ。
せっかくだからと今日は娘と一緒にプランターを覗く。毎日覗いている私にはそんなに変化があるように思えなくても、時々しか覗かない娘にとっては大きな変化がそこにある。うわぁママ、これは赤ちゃんの手だねぇ。ラナンキュラスだよ。これはひげ、うーん、違った、トゲだ。ムスカリだね。これ、あかんべぇしてるみたいだね。それねぇ今年初めて植えたイフェイオンだよ。なんかかっこわるいよ。確かにね、かっこ悪いね。べろべろべろーん。ははははは。
朝のひとときはあっという間に過ぎる。その時娘が言った。
ねぇママ。今年サンタさん、何人来てくれるの? え? サンタさんだよ。サンタさんって一人だよ。違うよ何人もいるんだよ。なんで? ゆかりちゃんが言ってた。おじいちゃんサンタ、おばあちゃんサンタ、パパサンタ、ママサンタ、おじちゃんサンタ、おばちゃんサンタ、でね、ゆかりちゃんのところは四人は少なくとも来てくれるらしいよ。…あらまぁ。いいなぁ、うちはママサンタ一人だけじゃん。うーん、本物サンタも来るよ。何処から? 空から。じゃぁうちには二人? うーん、そういうことになるねぇ。つまんない。…。もっとサンタさん来てくれればいいのに。そうだねぇ。パパサンタとかさぁ。…そうだねぇ。まぁうちは、ママがママパパサンタだからしょうがないのか。何だそれ。ふふーん。
それだけ言うと、娘はさっと部屋の中に戻り漫画を読み始める。
私は。
私はベランダから身を乗り出し、街路樹たちをふわりと眺める。枝よ揺れろ、葉よ泳げ、こんな時はいつもよりいっそう強く。
2008年11月10日月曜日
■こうしている間にも時は流れて
病院からの帰り道には花屋が何軒かある。その一軒にあの花があった。外国のとある国の国花。
以前その花を写真にして店に飾っておいてもらった時、黒い肌の青年が教えてくれたのだ。これは僕の国の国花です。と。
どうしてこの花がここに?
いや、花屋さんに並んでいたの。一番最初に私の眼に飛び込んできたからその花を買って家で写真に撮ってみたのがこれなの。
僕の国の国花が日本では花屋さんで売っているなんて…!
それから彼は、この花にまつわる話をあれこれ私に聞かせてくれたのだった。それは私のまったく知らない話ばかりだった。
その花が今また、花屋に置いてある。そういえばあの青年は今頃どうしているんだろう。日本が好きだからできるだけ日本で勉強を続けたいと言っていた。今もあの町に住んでいるのだろうか。
昨日の薬が残っているせいか、足元も意識もふらふらしている。いつもならこの駅から家まで歩いて帰るのだが、今日は断念。バスで帰ることにする。
同じバスに乗り合わせた障害児が、奇声を上げ続けている。周囲の人たちがちらちらとその児童を見やる。ちょうど私の前の席にその児童と母親とが座っているため、その視線は私にも突き刺さるように感じられる。
こんな時。どうしようもなく申し訳なさを覚えるのだ。
こんな妊娠の状態では、障害を持った子供が産まれる可能性は高いですよ。と、私はかつて言われたのだった。それでも、とごり押しして、無理をして、産んだのが今の娘だ。娘は幸いにしてひとつの障害も持っていなかった。それはこれっぽっちの幸運だった。
そして今、私はまたどうしようもない申し訳なさ、罪悪感に駆られている。この子供の隣に座っているのは私だったのかもしれない。そう思うと、私は、自分はなんて幸せなのだろう、なんて幸運だったのだろうと思ってしまうのだ。健康な我が子に恵まれた、そのことに、心底安堵してしまうのだ。そんな自分が、悔しいくらいに情けない。でも、どうしようもない。これが現実。
家に辿り着いて数時間、ただいまぁと玄関から大きな声が飛び込んでくる。娘だ。私にチューをしてにかっと笑うと、じゃぁ行って来ますと駆け足で今度は学童に出掛けてゆく。再びひとりになった私は、本棚を少し、片付けることにする。
チッチッチッチ。ひとりきりの部屋に小さく時計の音が響く。こうしているうちにも時は刻々と過ぎてゆく。
そしてもう黄昏。夕飯は何にしよう。シチューがいいか、鍋がいいか。どちらにしても、身体がぽくぽくしてくるような、あったかいものがいい。
以前その花を写真にして店に飾っておいてもらった時、黒い肌の青年が教えてくれたのだ。これは僕の国の国花です。と。
どうしてこの花がここに?
いや、花屋さんに並んでいたの。一番最初に私の眼に飛び込んできたからその花を買って家で写真に撮ってみたのがこれなの。
僕の国の国花が日本では花屋さんで売っているなんて…!
それから彼は、この花にまつわる話をあれこれ私に聞かせてくれたのだった。それは私のまったく知らない話ばかりだった。
その花が今また、花屋に置いてある。そういえばあの青年は今頃どうしているんだろう。日本が好きだからできるだけ日本で勉強を続けたいと言っていた。今もあの町に住んでいるのだろうか。
昨日の薬が残っているせいか、足元も意識もふらふらしている。いつもならこの駅から家まで歩いて帰るのだが、今日は断念。バスで帰ることにする。
同じバスに乗り合わせた障害児が、奇声を上げ続けている。周囲の人たちがちらちらとその児童を見やる。ちょうど私の前の席にその児童と母親とが座っているため、その視線は私にも突き刺さるように感じられる。
こんな時。どうしようもなく申し訳なさを覚えるのだ。
こんな妊娠の状態では、障害を持った子供が産まれる可能性は高いですよ。と、私はかつて言われたのだった。それでも、とごり押しして、無理をして、産んだのが今の娘だ。娘は幸いにしてひとつの障害も持っていなかった。それはこれっぽっちの幸運だった。
そして今、私はまたどうしようもない申し訳なさ、罪悪感に駆られている。この子供の隣に座っているのは私だったのかもしれない。そう思うと、私は、自分はなんて幸せなのだろう、なんて幸運だったのだろうと思ってしまうのだ。健康な我が子に恵まれた、そのことに、心底安堵してしまうのだ。そんな自分が、悔しいくらいに情けない。でも、どうしようもない。これが現実。
家に辿り着いて数時間、ただいまぁと玄関から大きな声が飛び込んでくる。娘だ。私にチューをしてにかっと笑うと、じゃぁ行って来ますと駆け足で今度は学童に出掛けてゆく。再びひとりになった私は、本棚を少し、片付けることにする。
チッチッチッチ。ひとりきりの部屋に小さく時計の音が響く。こうしているうちにも時は刻々と過ぎてゆく。
そしてもう黄昏。夕飯は何にしよう。シチューがいいか、鍋がいいか。どちらにしても、身体がぽくぽくしてくるような、あったかいものがいい。
■濃灰色の朝
まだ雨の残る今朝。濃灰色の帳がこの町にすとんと下りている。今日が何日で何曜日であるかということをしばし放念していた私は、部屋の中うろうろと歩き回る。時間を遡り、飛び散った記憶のパーツを掻き集め、組み立て直す。そしてようやく納得する。今日は月曜日、病院の日。
どうして記憶が飛んだんだったろう。それを改めて思い出し、私は苦々しい思いをかみ締める。
親というのは、たいていが愛情過多なのではないだろうか。子の為に子の為にと先走り、自分なりの愛情を子に注ぐ。しかし、それが愛情であるうちはいい。愛情が束縛(過干渉)に変貌し、支配に変貌してゆく。しかし本人たちはそのことを決して受け入れることはない。むしろ、それを良しとしてしまうことさえある。しかしそれこそが、愛情という名のもとに行われる子に対する支配であるということ。たとえば親に監禁され、数年を過ごしたことのある者なら誰にでもそれが分かり得るだろう。
そんな世界では、たとえば、こんなにも一所懸命やっているのに、こんなにもこちらは努力しているのに、愛しているのに、どうしてそれを分かろうとしないんだ。そんな台詞は日常茶飯事になる。やがてそれらさえ声に出されることはなく、無言の圧力、無言の支配に変わる。それでもそれらは常に「愛」のもとに為されていると彼ら権力者は胸を張って主張する。
久しぶりに昨夜親からの圧力に晒されて、私は慌てた。自分が築いてきた足場ががらがらと崩れる音を聞いた。そして今朝。
足場はぐらぐらと揺れてはいるけれど。それでも骨組み程度は、まだ、残っていることに気づいた。
まだ、大丈夫。まだ、やれる。この足場はまだ、生きている。
机に向かおうとして、気づく。私のキーボードの上に、小さなぬいぐるみが二つ、ちょこねんと座っている。あぁ、娘がやったのだ。娘お気に入りのカエルのぬいぐるみが二つ。並んで座っている。
昨日私は不覚にも、娘の前で涙してしまったことを思い出す。その後頓服を飲んだのだった。多分娘は、私を気遣って、このぬいぐるみを私が一番に触れる場所に置いてくれたに違いない。
ありがとう、娘よ。
ねぇ娘、私はあなたにとって、どんな親なんだろう。私が親から強制されてきたような関係を、私はあなたに強制していやしないだろうか。私はいつもそのことに怯えているんだ。どうか、少しでも違う関係を、あなたと私が結べていますようにと、すがるように祈っているんだ。
いつの間にか時計が六時半を指している。そろそろあなたも起きてくる頃。そうしたらいつものハグを。そして少しでも何かおしゃべりしよう。その前に私は、プランターの緑たちに水を遣るつもりだ。
あぁ世界が、あの頃のように反転してしまいませんように。
私が周囲からの支配に負けることなく、この地にすっくと立っていられますように。
どうして記憶が飛んだんだったろう。それを改めて思い出し、私は苦々しい思いをかみ締める。
親というのは、たいていが愛情過多なのではないだろうか。子の為に子の為にと先走り、自分なりの愛情を子に注ぐ。しかし、それが愛情であるうちはいい。愛情が束縛(過干渉)に変貌し、支配に変貌してゆく。しかし本人たちはそのことを決して受け入れることはない。むしろ、それを良しとしてしまうことさえある。しかしそれこそが、愛情という名のもとに行われる子に対する支配であるということ。たとえば親に監禁され、数年を過ごしたことのある者なら誰にでもそれが分かり得るだろう。
そんな世界では、たとえば、こんなにも一所懸命やっているのに、こんなにもこちらは努力しているのに、愛しているのに、どうしてそれを分かろうとしないんだ。そんな台詞は日常茶飯事になる。やがてそれらさえ声に出されることはなく、無言の圧力、無言の支配に変わる。それでもそれらは常に「愛」のもとに為されていると彼ら権力者は胸を張って主張する。
久しぶりに昨夜親からの圧力に晒されて、私は慌てた。自分が築いてきた足場ががらがらと崩れる音を聞いた。そして今朝。
足場はぐらぐらと揺れてはいるけれど。それでも骨組み程度は、まだ、残っていることに気づいた。
まだ、大丈夫。まだ、やれる。この足場はまだ、生きている。
机に向かおうとして、気づく。私のキーボードの上に、小さなぬいぐるみが二つ、ちょこねんと座っている。あぁ、娘がやったのだ。娘お気に入りのカエルのぬいぐるみが二つ。並んで座っている。
昨日私は不覚にも、娘の前で涙してしまったことを思い出す。その後頓服を飲んだのだった。多分娘は、私を気遣って、このぬいぐるみを私が一番に触れる場所に置いてくれたに違いない。
ありがとう、娘よ。
ねぇ娘、私はあなたにとって、どんな親なんだろう。私が親から強制されてきたような関係を、私はあなたに強制していやしないだろうか。私はいつもそのことに怯えているんだ。どうか、少しでも違う関係を、あなたと私が結べていますようにと、すがるように祈っているんだ。
いつの間にか時計が六時半を指している。そろそろあなたも起きてくる頃。そうしたらいつものハグを。そして少しでも何かおしゃべりしよう。その前に私は、プランターの緑たちに水を遣るつもりだ。
あぁ世界が、あの頃のように反転してしまいませんように。
私が周囲からの支配に負けることなく、この地にすっくと立っていられますように。
2008年11月9日日曜日
■細い細い雨降る日
天気予報では昨日から今年一番の冷え込みになるでしょうと繰り返していた。確かに寒い。雨もぱらぱらりと降り出した。けれど私は傘を持つのが面倒でそのままバス停へと走る。
バスの終点にあたる町で降りる。その町は相変わらず賑わっており。人と人が次々交差する。私はその速度に追いついていっていないのか、そもそも合わせていけていないのか、つい誰かの鞄や肩にぶつかって立ち止まってしまう。歩けば歩くほど人と交差しなければいけない当然のことに、私は途方に暮れる。
それでも何とか目的の文房具屋に辿り着く。そこで私はいつもの決まったノートを買う。いや、買おうとして財布を広げて気づいた。お金が足りない。
もう、しゃがみこむくらいの脱力感。直後、思わず嗤ってしまった。何をしているんだろう、私は。次々こみ上げてくる嗤いをどうにか抑えながら、私はレジの列を外れ、ノートを元の位置に戻す。
素直に帰ろう。こういう日は多分、とことんついてない。素直に家に帰ろう。こういう日はおとなしく家にいるに限る。
雨は降り続いている。細い細い雨が。乗り直したバスの窓ガラスに雨の粒が線を描く。幾筋も幾筋もそれは描かれてゆく。向こう側がやがて、その筋に滲んでゆく。
部屋に戻り、私は一番に煙草を取り出す。ベランダの縁に座り、火をつける。煙がひゅるひゅると灰色の空へと吸い込まれてゆく。それはまるであらかじめ決められた道筋であるかのように、ひゅるひゅる、ひゅるる、と。
左手に並ぶプランター。私は心の中今日の顛末を球根の芽たちに話して聞かせる。芽たちは一様に、けらけらと笑っているかのように吹き付けてきた風に揺れる。確かにばかげてる。たった105円だけれども足りない財布を大事に持って、そのことに気づかずいそいそと出掛けた私の姿は、ちょっと笑える。出掛けたりせず、今日はこうやってゆっくりと、植物と話したり雨を眺めたりしておくんだった。焦って行為するとろくなことがない。その証拠。
でも。
ひとつだけ思いがけないことがあったよ。人ごみの中にあの子を見つけた。もう五年は経つだろう、彼女と縁遠くなってから。でも全然変わっていなかったよ。相変わらず町を闊歩していた。その背筋はぴんと伸びていて、どこから見てもそれはすっと立つ樹のようだったよ。
縁遠くなった理由など、もう忘れた。ただ、私と彼女の道はいっとき交差し、やがて別れていくものだったというそれだけだ。
ねぇ、私は、この五年でどんなふうに変わったろう。どんなふうに変わらずにいただろう。自分では自分のことが一番見えない。私はあなたたちの目にはどんなふうに映っているのだろう。
呼び鈴がひとつ鳴る。あぁ娘が帰ってきた。いとしいいとしい我が娘が、年老いた父母の匂いをたっぷり纏って。さぁおかえり、娘よ。
バスの終点にあたる町で降りる。その町は相変わらず賑わっており。人と人が次々交差する。私はその速度に追いついていっていないのか、そもそも合わせていけていないのか、つい誰かの鞄や肩にぶつかって立ち止まってしまう。歩けば歩くほど人と交差しなければいけない当然のことに、私は途方に暮れる。
それでも何とか目的の文房具屋に辿り着く。そこで私はいつもの決まったノートを買う。いや、買おうとして財布を広げて気づいた。お金が足りない。
もう、しゃがみこむくらいの脱力感。直後、思わず嗤ってしまった。何をしているんだろう、私は。次々こみ上げてくる嗤いをどうにか抑えながら、私はレジの列を外れ、ノートを元の位置に戻す。
素直に帰ろう。こういう日は多分、とことんついてない。素直に家に帰ろう。こういう日はおとなしく家にいるに限る。
雨は降り続いている。細い細い雨が。乗り直したバスの窓ガラスに雨の粒が線を描く。幾筋も幾筋もそれは描かれてゆく。向こう側がやがて、その筋に滲んでゆく。
部屋に戻り、私は一番に煙草を取り出す。ベランダの縁に座り、火をつける。煙がひゅるひゅると灰色の空へと吸い込まれてゆく。それはまるであらかじめ決められた道筋であるかのように、ひゅるひゅる、ひゅるる、と。
左手に並ぶプランター。私は心の中今日の顛末を球根の芽たちに話して聞かせる。芽たちは一様に、けらけらと笑っているかのように吹き付けてきた風に揺れる。確かにばかげてる。たった105円だけれども足りない財布を大事に持って、そのことに気づかずいそいそと出掛けた私の姿は、ちょっと笑える。出掛けたりせず、今日はこうやってゆっくりと、植物と話したり雨を眺めたりしておくんだった。焦って行為するとろくなことがない。その証拠。
でも。
ひとつだけ思いがけないことがあったよ。人ごみの中にあの子を見つけた。もう五年は経つだろう、彼女と縁遠くなってから。でも全然変わっていなかったよ。相変わらず町を闊歩していた。その背筋はぴんと伸びていて、どこから見てもそれはすっと立つ樹のようだったよ。
縁遠くなった理由など、もう忘れた。ただ、私と彼女の道はいっとき交差し、やがて別れていくものだったというそれだけだ。
ねぇ、私は、この五年でどんなふうに変わったろう。どんなふうに変わらずにいただろう。自分では自分のことが一番見えない。私はあなたたちの目にはどんなふうに映っているのだろう。
呼び鈴がひとつ鳴る。あぁ娘が帰ってきた。いとしいいとしい我が娘が、年老いた父母の匂いをたっぷり纏って。さぁおかえり、娘よ。
■今、風が吹いた
ひとり眠れない夜。気付けば明け方になっていた。といってもそれは時計の上だけ。窓の外はまだまだ夜闇の中。
私は寝床を這い出して、ベランダに出る。そして三つのプランターのもとへ。
じっと見つめる。空に手を伸ばす小さな手たち、若緑色の芽たちをただ見つめる。
見つめていると、耳の内奥から声がしてくる。それは日本語ではなく、英語でもなく、多分世界のどの言語とも異なっている、声としか表しようのないもの。その声たちが、時に小さく細く、時に大きく太く、語りかけてくる。それはどこか、人の心臓の音に似ている。
私はいつの間にか目を閉じて、その音に身を任す。
今は。
無理に笑顔になる必要はない。無理に大丈夫なふりをする必要もない。変に頑張る必要もない。肩に背中に腹に足に張り付いていた不要な力を、抜けるだけ抜いて、いい。それを咎める者など、今は何処にもいない。
一粒、涙が出た。一粒、頬を伝って土の上に落ちた。
ふと思い出して、中島みゆきの「肩に降る雨」を歌ってみた。
そうしたらそれまで強張っていた体から力がすっと抜けて、私の周囲張り詰めていた糸という糸がすべてふっと解けて、ようやく、とくん、と、鼓動が聞こえた。
その時、突然電話がなる。こんな朝早くに誰からかと慌てて電話機の表示板を見る。親しい友からだ。
もしもし。
もしもし。生きてるかい?
あぁびっくりした、こんな時間に。どうしたの? 何かあった?
いや、何にもないんだけど、何となく空見てたら、空にあんたの顔が浮かんだ
あいやー、私の顔が?
ん。何かあったろ?
…
何かあったな?
大丈夫。今、大丈夫になった。
…。
うん、ちょっと落ち込んでたけど、今、大丈夫になった。
そっか。ならOK。
そっちは? 踏ん張ってる?
足掻きまくりヨ。
ははは、同じだ
そうそう、同じよ、そんなもんさ
恐らく時間にしたら、三分も話してはいない。けれど、彼女が伝えたいこと、私が伝えたいことの全ては、十分に伝わった。多分、きっと。
電話を置いて、再びベランダに出れば。
明るくなってはいるものの、一面雲に覆われた空。でも、この雲の向こうは太陽が燦々と輝いているはず。
今、風が吹いた。さぁ今日も、一日が、始まる。
私は寝床を這い出して、ベランダに出る。そして三つのプランターのもとへ。
じっと見つめる。空に手を伸ばす小さな手たち、若緑色の芽たちをただ見つめる。
見つめていると、耳の内奥から声がしてくる。それは日本語ではなく、英語でもなく、多分世界のどの言語とも異なっている、声としか表しようのないもの。その声たちが、時に小さく細く、時に大きく太く、語りかけてくる。それはどこか、人の心臓の音に似ている。
私はいつの間にか目を閉じて、その音に身を任す。
今は。
無理に笑顔になる必要はない。無理に大丈夫なふりをする必要もない。変に頑張る必要もない。肩に背中に腹に足に張り付いていた不要な力を、抜けるだけ抜いて、いい。それを咎める者など、今は何処にもいない。
一粒、涙が出た。一粒、頬を伝って土の上に落ちた。
ふと思い出して、中島みゆきの「肩に降る雨」を歌ってみた。
そうしたらそれまで強張っていた体から力がすっと抜けて、私の周囲張り詰めていた糸という糸がすべてふっと解けて、ようやく、とくん、と、鼓動が聞こえた。
その時、突然電話がなる。こんな朝早くに誰からかと慌てて電話機の表示板を見る。親しい友からだ。
もしもし。
もしもし。生きてるかい?
あぁびっくりした、こんな時間に。どうしたの? 何かあった?
いや、何にもないんだけど、何となく空見てたら、空にあんたの顔が浮かんだ
あいやー、私の顔が?
ん。何かあったろ?
…
何かあったな?
大丈夫。今、大丈夫になった。
…。
うん、ちょっと落ち込んでたけど、今、大丈夫になった。
そっか。ならOK。
そっちは? 踏ん張ってる?
足掻きまくりヨ。
ははは、同じだ
そうそう、同じよ、そんなもんさ
恐らく時間にしたら、三分も話してはいない。けれど、彼女が伝えたいこと、私が伝えたいことの全ては、十分に伝わった。多分、きっと。
電話を置いて、再びベランダに出れば。
明るくなってはいるものの、一面雲に覆われた空。でも、この雲の向こうは太陽が燦々と輝いているはず。
今、風が吹いた。さぁ今日も、一日が、始まる。
2008年11月8日土曜日
■静かな夜。樹はそこに在て、私もここに在る。
「海辺をさまよいながらこの瞑想の流れに出会ってみたまえ。しかし出会っても追いかけてはならない。あなたが追いかけているのはすでに過去の思い出であって、それはもはや死物にすぎない。丘から丘にさまよい歩いて、あなたのまわりのすべてのものに、生の美しさと苦痛を語らせ、ついにあなたが自らの悲嘆に目覚め、終焉させるようにしてみたまえ。瞑想は根であり、花であり、そして果実である。植物の全体を果実、花、幹、そして根に分けてしまうのは言葉である。このような分離の中では行為はついに不毛に終わる。愛の行為とは全的な把握にほかならない。」(クリシュナムルティの瞑想録/ジッドゥ・クリシュナムルティ著)
思春期の頃、思ったことがあった。言葉を知りたい。言葉を知り尽くしたい。私の心の奥の奥まで、正確に表現し尽くせるだけの言葉を知りたい。
自分の思いなのに正確に表現できないことが悔しかった。表現しようとすればするほど何かが違うように思えて、そのことが私を余計に憤らせた。誰かと何かを話していて、その時に話したそばから自分の思う通りに伝わっていないことを知るほど、もどかしくて仕方なかった。私の思いを正確に伝えるためには、正確に残すためには、言葉が必要なのだ、言葉がなければ生きていけない、ありとあらゆる言葉を知って、それを使って私は私の内奥を表現し尽くしたい。そう思っていた。
でも。そうやって何処までも何処までも言葉を追いかけて、知ったのは、言葉は所詮言葉でしかないということだった。そこに言葉が在る、存在する、というその時点で、そのモノの新鮮さは瞬時にして失われ、つまり私の中にそれまであった脈打つ音は消え去り、化石のような何者かが残されるだけなのだった。
言葉ですべてを語り尽くすことは出来ない。言葉でいくら細部をこと細かく表現したとしても、私はその時点で、表現したかった筈の何者かの全体像を失ってしまっている。そのことに気づいたのは、ずいぶん歳を重ねてからだった。
今娘の成長を間近で見つめていて、気づくことがある。それは、彼女の成長が次々に私に見せるその姿が、私を癒すというそのことだ。
彼女が泣く。笑う。へこむ。喜ぶ。そういった姿をこうして一歩離れたところから見つめていると、彼女の姿のずっとむこう側に、何かの姿がふっと浮かぶことがある。すると私の中で何かがすっと流れ去ってゆく。そしてその後に残るのは、小さな小さな光る石、ただ一つ。
その光もやがて消え、ただの石になったとき、私はその石を拾う。拾って、この掌の上で転がしたり握ったり。そして私はさよならをする。
そういえばこんなこともあったね、あんなこともあったね、と。
でももう大丈夫。私はあんなこともこんなことももう手離しても大丈夫。歩いていける。だから、さようなら。
疵、というそれらが、こんなにもあたたかく見送ることができるものだとは、知らなかった。もっと痛くて辛いものだと思ってた。いや、そもそも、見送ることができる代物だなんて、これっぽっちも信じたことはなかった。
でも。
見送ることができるのだな。こんな私にも。
静かな夜。樹はそこに在て、私もここに在る。
思春期の頃、思ったことがあった。言葉を知りたい。言葉を知り尽くしたい。私の心の奥の奥まで、正確に表現し尽くせるだけの言葉を知りたい。
自分の思いなのに正確に表現できないことが悔しかった。表現しようとすればするほど何かが違うように思えて、そのことが私を余計に憤らせた。誰かと何かを話していて、その時に話したそばから自分の思う通りに伝わっていないことを知るほど、もどかしくて仕方なかった。私の思いを正確に伝えるためには、正確に残すためには、言葉が必要なのだ、言葉がなければ生きていけない、ありとあらゆる言葉を知って、それを使って私は私の内奥を表現し尽くしたい。そう思っていた。
でも。そうやって何処までも何処までも言葉を追いかけて、知ったのは、言葉は所詮言葉でしかないということだった。そこに言葉が在る、存在する、というその時点で、そのモノの新鮮さは瞬時にして失われ、つまり私の中にそれまであった脈打つ音は消え去り、化石のような何者かが残されるだけなのだった。
言葉ですべてを語り尽くすことは出来ない。言葉でいくら細部をこと細かく表現したとしても、私はその時点で、表現したかった筈の何者かの全体像を失ってしまっている。そのことに気づいたのは、ずいぶん歳を重ねてからだった。
今娘の成長を間近で見つめていて、気づくことがある。それは、彼女の成長が次々に私に見せるその姿が、私を癒すというそのことだ。
彼女が泣く。笑う。へこむ。喜ぶ。そういった姿をこうして一歩離れたところから見つめていると、彼女の姿のずっとむこう側に、何かの姿がふっと浮かぶことがある。すると私の中で何かがすっと流れ去ってゆく。そしてその後に残るのは、小さな小さな光る石、ただ一つ。
その光もやがて消え、ただの石になったとき、私はその石を拾う。拾って、この掌の上で転がしたり握ったり。そして私はさよならをする。
そういえばこんなこともあったね、あんなこともあったね、と。
でももう大丈夫。私はあんなこともこんなことももう手離しても大丈夫。歩いていける。だから、さようなら。
疵、というそれらが、こんなにもあたたかく見送ることができるものだとは、知らなかった。もっと痛くて辛いものだと思ってた。いや、そもそも、見送ることができる代物だなんて、これっぽっちも信じたことはなかった。
でも。
見送ることができるのだな。こんな私にも。
静かな夜。樹はそこに在て、私もここに在る。
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